第伍集
翌日の朝、人間の小舎人童に変装した連珠の使い魔が、大内裏内にある羽林の詰め所へ向かい、「香砂様は物忌みでございます」と伝えに行ってくれた。
「喉の炎症以外は治ったんだけどな」
「いや、まだ身体の中にウィルスいるんだから。出仕したら迷惑でしょう」
「それもそうか」
小言を言いながらも温めた梨のジュースを湯呑に淹れて持ってきてくれる姉の言葉に、香砂は素直にうなずきながらリビングのソファに腰かけた。
出仕すれば堅い板間のうえに敷いた薄い円座に座らなくてはならない。
建物は壁などほとんどなく、吹き抜ける風を防ぐものは障子か御簾、几帳くらい。
まだ残暑が続いているからいいものの、これから秋が深まり、冬になればそこは極寒地獄と化す。
いくら火鉢を焚こうとも、凍てつく風は乾燥した皮膚を切り裂いていく。
蒸気機関の暖房はとにかく音がうるさいし、湿気を吹き出しすぎるため、書類仕事の場では使えない。
まだ技術が追い付いていないのだ。
香砂は書類を書きに行くたびに思う、この時代に生まれなくてよかった、と。
もちろん、香砂は魔法使いなので、身体の周りの空気を温めることなど朝飯前だ。
しかし、寒さに苦しむ同僚を見ていると、自分だけが心地良い状態なのは抵抗がある。
そのため、結局はみんなと同じ、火鉢で我慢してしまうというのがいつもの流れだ。
「姉さんはいつもどうしているの? 暑いときとか、寒いときとか」
「え? そんなの魔法でどうにかしているに決まってるじゃない」
「あ、そう……。じ、自分だけ?」
「もちろん。その分、他の女房たちより働いているし、無理させないように仕事を肩代わりしているけどね」
「あ、なるほどね……。さすが、コミュニケーション能力の塊……。わたしは同僚とあんまり会話しないから……」
「一応、陰陽術師ってことになっているから、体感的に心地良いくらいの風はおこしたりしているわよ」
連珠は元の地球にいた時も面倒見がよく、性別問わずあらゆるひとからモテていた。
『連珠さんの弟』というのが香砂のポジション。
それで文句はなかったし、生きやすかった。
それが今では戦の強さで名前が独り立ちし、『香砂』だけで名が通るようになってしまった。
いろんな意味で争いとは無縁の静かな環境でゆったりと生きていきたかった香砂にとっては、古代から中世レベルの文明をもつ地球にある慶安時代の葦原国に来てから起こるすべてのことが寝耳に水状態。
これも周波数渡航者の一族に生まれた運命と受け入れ、いや、諦めて、生きていくしかない。
「今日は外に出ないでね。買い物にはエースが変装していってくれるから」
「姉さんは何するの?」
「大量に送られてくる文の返事を書かないとね」
「人気のある女房は大変ですなぁ」
「麗しき小宰相様に比べたらまだまだよ」
「ああ、あの弘徽殿の女房のリーダーみたいなひと?」
「みたいな、っていうか、リーダーよ。上司」
「あ、そうなんだ。あんまり顔見たことないや」
「中宮様をお守りするので忙しいからねぇ。実の妹だし」
「へぇ……」
現在、主上には中宮の他に妻が女御二人、更衣が五人いて、当然ながら中宮が一番高位だ。いわゆる、正妻にして皇后のこと。
中宮には三人の子がいて、公主はすでに高官と結婚して臣籍降嫁している。
二年前、長男が皇太子に冊封され、次男は香砂の友人である親王明琰。
どこからどう見ても順風満帆なはずなのだが、それゆえに命を狙われることも多く、守護を司る連珠はその力を見込まれ、多額の年俸をもらっている。
「後宮も戦場なんだねぇ」
「ドロドロの戦場よ。負けたら骨すら残らないって感じ。特に承香殿の奴らがやばい」
刺客を送ってくる女御の筆頭が承香殿の女御だ。
主上からの寵愛を中宮と二分しているほどの実力者で、産んだ子供は女子二人に男子二人。
ただ、男子のうち長男の方が生まれてすぐインフルエンザに罹患し、その後遺症で言葉がうまく話せないという障害を負っている。
承香殿の女御の長男と皇太子は同い年で同じ月に生まれたこともあり、よりいっそう中宮のことが憎いのだろう。
女御の長男も一応親王ではあるが、皇太子の座を奪うのは望み薄だ。
その分、次男の親王が様々な謀略を使って皇太子と明琰を嵌めようと、女御と共に頑張っているという状況だ。
「そういえばこのあいだ、明琰の装束に毒付きの針が仕込んであったんだよ。あの明善親王ってやつ、頭おかしいんじゃないの? 名前負けも甚だしいでしょ」
「承香殿絡みの奴らはだいだい頭おかしいから。気を付けつつ、済んだことは忘れるのが一番だよ」
「そうする。石榴としゃべって癒されようっと」
「うんうん、それがいい」
そう言うと、連珠はしゃなりしゃなりと装束の裾を引きずりながら家の東側にある寝殿造りの部屋へ向かった。
また御簾の下からちらりと髪と装束の色を見せて、覗きに来る貴族たちの心をかき乱すのだろう。
香砂はそのままリビングでロアに通信を試みた。
連絡手段はコンパクト型の鏡だ。
合わせ鏡には数えきれないほどの多元宇宙が広がっている。
その中から目的の地球へ周波数を合わせ、さらに個人へと繋ぐのだ。
――あ、香砂?
「お、ロア! 何してた? 今話せる?」
――もちろん!
「あのさ、わたしどうやら三年くらい妖精族だってことを忘れてたみたいでさぁ」
――ええ! なんで? 体調でも崩したの?
「魔法使い用の周波数ゲートを通ったからかもってお姉ちゃんは言ってた」
――……ああ、そうかも。本来なら、妖精は自分で作ったゲートを通るんだもんね。
「そう。でも面倒くさくて」
――それはねぇ……。じゃぁ、香砂が忘れていそうなこと、なんでも教えてあげるよ。
「その言葉を待ってた! ありがとう親友!」
――あはは。調子いいんだからぁ。
そうして二時間ほど妖精について話したり、他愛のない話をして笑いあったり、楽しい時間を過ごし、通信を終えた。
ロアの元気そうな声に、香砂は風邪の症状が吹き飛んだように元気を取り戻した。
心なしか、妖精である自分とさらに向き合えるような、そんな気がした。