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第弐拾玖集

 爆ぜる火とは別に、空に輝くものが一筋。

 香砂(こうしゃ)春光子(しゅんこうし)と戦っていた頃、それと時を同じくして空には大きな箒星――彗星が流れた。

 人々はそれを恐れ(おのの)いた。

 夜中だというのに怒号が飛び交う内裏。そこから漏れる光は痛みと悲しみに揺れる炎。

 聞こえてくる音は、太刀がぶつかり合うような不穏な悲鳴に、矢が飛び交う風を切り裂く波紋。

 市井の人々が胸騒ぎを覚えるには十分すぎるほどだった。

 そして、その不安は的中することになる。

 彗星は〈時空〉に開いていたわずかなひっかき傷の端を引き裂きながら、(みやこ)の西方にある三上ヶ嶽(みうえがたけ)――大江山へと落下した。

 人間も妖魔(もののけ)も、考えることは同じ。

――より文明の未熟な世界の方が、何かと(ぎょ)しやすい。

 砕けた彗星の欠片は何かに操られるように四方八方に飛び、すべての太門(たいもん)を破壊した。

 すでに封印が解かれていた邪水(じゃすい)の門と愚者金(ぐしゃきん)穢土(えど)の門は跡形もなく砕け散り、僧が護っていた毒樹(どくじゅ)の門と陰陽術師たちが護っていた劫火(ごうか)の門はそこにいた人間ごと吹き飛んだ。

 救いだったのは、そのあとすぐに陽が昇り始めたこと。

 ただ、〈光〉は時に闇よりも濃い〈影〉を作り出す。そして、〈影〉は人が歩く場所に必ず現れる。

 まるで、切り離せない()のように。


 ここは(みやこ)でももっとも景色のいい場所に建てられた美しい(やしき)翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅ邸。

 夫に先立たれた翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅは、その辛さから夫と共に過ごした思い出の家に住み続けることが出来ず、先々帝――父から与えられていた邸宅に女房や使用人たちと共に移り住んですでに十年になる。

 当時入内前だった春光子(しゅんこうし)も二年ほど住んでいたことがあり、彼女にとっては勝手知ったる場所だ。

「大変だったわね。ゆっくり休んでちょうだ……」

「母上! 母上!」

 翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅ春光子(しゅんこうし)を部屋に案内していたその時、ちょうど明善が大きな声を上げながらやってきた。

「まあ明善。あなたのお母上は大変な目にあって疲れておいでなのですよ。少しは配慮なさい」

「す、すみません、おばあ様……」

 さすがの明善も、外交手腕で先帝を支えた実績のある祖母相手に強い態度には出られない。

「会いたい気持ちはわかりますが、もう少し日がたってから……」

 翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅが明善に優しく説こうとしていると、春光子(しゅんこうし)が困ったように笑いながら声をかけた。

「母上、大丈夫です。息子のあしらい方は心得ておりますわ。少し話したら帰しますから」

 幾つになっても愛おしい娘が、目に入れても痛くないほど可愛い孫をかばっている姿に胸が高鳴った翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅは、つい絆されてしまった。

「……そう? まったく、女御様は誰に似て子供に甘くなってしまったのかしら……」

「あら、太主(たいしゅ)様。お鏡ご覧になります?」

「まあ! この子ったら……うふふふふ」

 翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅと夫には長い間子供が出来なかった。

 子供を持つことは叶わないのかと諦めかけていた時、海難事故で亡くなった貴族の子供として、赤子に変身していた春光子(しゅんこうし)を引き取った。

 それから三十年弱、この世の春とも呼べるほどの幸せが夫婦の人生を彩り、それは夫が息を引き取るまで続いた。

 春光子(しゅんこうし)は養父が亡くなったあと三年間、翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅのそばを離れなかった。

 共に泣き、時に思い出し、一緒に眠った。

 明善もそんな母にならい、祖母を心から大切にしてきた。

 そんな愛にあふれた育ち方が、悪い方向へと向かってしまった。

 明善にとっては、自身の母と祖母だけが世界の中心。二人が何不自由なく幸せに生きていける世界こそが至高なのだ。

 だから母である春光子(しゅんこうし)から〈仙丹〉の話を聞いたときは、寸分も疑いもせず、迷わず飛びついた。

 父である今上帝(きんじょうてい)がこのまま衰弱し亡くなれば、自分も、実の兄も帝位を継ぐ未来は立たれる。

 なぜなら、父はすでに皇太子を冊封(さくほう)し、後継者に指名しているからだ。

 皇太子は手ごわい。まさに未来の賢王ともいうべき傑物。文武両道。聡明で、器量もよく、健康。

 毒殺すれば必ず疑われるし、まず、弟の明琰(めいえん)がそれをさせないほど鋭い目で実兄の皇太子を護っている。

 明善の兄は幼いころにかかった病のせいで後遺症が残っているため、皇太子にはなれない。

――自分が頑張るしかない。母上を皇后にするために。

 そのためには、まず今上帝を生きながらえさせなければならない。だから〈仙丹〉が必要だった。

 死なれては、皇太子の地位は変わらない。それに、病を治す薬を手に入れた功績が手に入れば一石二鳥だ。

「それなのに、なぜ今更辞めるとおっしゃるのですか⁉」

 二人きりになった部屋で、明善は声を押し殺しながら小声で叫んだ。

「実験のこと、知っていますよ」

 明善は一瞬心臓が跳ねた。

「な、なんのことでしょう?」

仙子(せんし)族は血が煙になる。でも、他種族の血をその身体に流せば、仙子(せんし)の力を伝染させた液状の血が手に入る……。そういうことですね?」

 明善は冷たい汗を流しながら動揺した。

(なぜバレた⁉ 母上には絶対に秘密だと全員に死罪付きの緘口令をしいたのに!)

 明善は思いつく限りの名前を頭に浮かべては消していった。裏切りそうな者など誰一人思い浮かばなかったからだ。

「気づいたのはわたくしではありません」

「な! だ、誰ですか⁉ すぐにそいつを処刑します!」

「それはあなたには無理でしょう。その方は、正真正銘、純血の仙子(せんし)ですから」

 明善は耳を疑った。

「……え? そ、そんな……。こ、この世界には混血の仙子(せんし)しかいないと……。捕まえた仙子(せんし)もそう言っておりました……」

「前に話したでしょう。周波数渡航者フレクエンティア・トラベラーについては」

「はい……。でもそれは〈魔法族〉と呼ばれる者たちのことですよね?」

「その中に、一人、仙子(せんし)がいるのです」

「……は。私の行動に目を光らせている人物の代表格は明琰(めいえん)です。つまり、あいつの周囲でもっとも強く、賢いが、それを隠して行動できる奴……」

 明善は一人の顔を思い浮かべた。いつもやる気がないくせに、武功は誰よりも上げている忌々しい少年。

「今回のことに明琰(めいえん)は関係ありません」

 明善にはもう春光子(しゅんこうし)の声は届いていなかった。

 憎しみと、苛立ちがその心を支配していた。

(けい) 香砂(こうしゃ)……。ですね?」

「無駄な推測はおやめなさい! もう本当に、終わりなのです。あなたがしている実験は非人道的すぎます。身体を血の畑にするなど……、おかしいとは思わなかったのですか? あなたが捕えている仙子(せんし)族をすべて解放なさい」

「ふふ……。あははははは! 母上は何もわかっていない! それに……、まだ私に言っていないことがあるでしょう」

 今度は春光子(しゅんこうし)が動揺する番だった。

「……それはどういう意味?」

「そのまままの意味です。なぜ教えてくれなかったのです? 母上が……」

 その後に続く言葉に、春光子(しゅんこうし)は目を見開いて驚いた。

 心臓が早鐘のように打ち、胸が苦しくなった。

「母上が、〈鬼〉だということを。そして、私も〈鬼〉だということを!」

「そ、それは……」

「おかしいと思っていましたよ。たかだか何の力も持たない人間に『死罪にするぞ』と脅されたところで、〈魔法族〉が従うか? と。人間など杖を一振りするだけで殺せるような集団が、まさか……。だから〈魔法族〉の一人を仙丹の実験台にしたのです」

「な、なんてことを!」

「精神が混乱したそいつは朦朧とする意識の中で言いましたよ。『春光子(しゅんこうし)様は人間ではりません。〈鬼妃(きひ)〉です。あなた様こそ、〈鬼妃(きひ)〉と天孫の一族から生まれし災厄(きせき)の子……。魔王となられる御方(うつわ)です』とね」

 春光子(しゅんこうし)は愕然とした。まだ間に合うと思っていたことが、すでに手遅れだったことに。

「母上、もう引き返すことなどできません。例え母上がこの戦争から降りても、敵が純血の仙子(せんし)、桂 香砂(こうしゃ)でも……。太門の封印を破壊したあの日から、すでに魔王への道は始まっているのです」

 高らかに笑う明善の姿に、春光子(しゅんこうし)は顔が青ざめ、手足が冷えていった。

 とんでもないことをしてしまった。とんでもないものを産み出してしまった。

「母上のことは監禁も幽閉もしません。その代わり、邪魔はしないでくださいね?」

 明善はそう言って微笑むと、優雅な所作で部屋を出ていった。

 夜明けの来ない世界の気配を残して。


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