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第弐拾捌集

 昏い、暗い、真っ暗闇の中。

 春光子(しゅんこうし)が言っていた晦冥(かいめい)とはこういう場所(ところ)なのかもしれない。

 手足を確認し、顔があることも触って確認する。

(ここは、どこだ……?)

 身体は浮いているようだ。泳ぐようにあてもなく動く。進んでいるのか、はたまた後退しているのか。まるでわからない。

 何か音がした。いや、声だろうか。

(誰の声だ? 一体、何があったのだろうか)

 すると、赤い蒲公英(タンポポ)の綿毛のようなものがふわふわと香砂(こうしゃ)にむかって流れてきた。いや、飛んできたのだろうか。わからない。

 触れると、それはあいまいな思考の塊だった。

――春光子(はるあきらこ)様はずいぶん前から〈鬼〉になってしまっていたらしい。

 揺れる、ゆらゆら。視点が定まらない。

――赤子はどうやって生まれてくるんだっけ?

 うまく思い出せない。簡単な保健体育の話なのに。

――皇帝家はある特殊な一族ではあるが、一応、〈人間〉だ。

 華やかな葵祭の光景が広がっては消えていく。現在の斎宮(いつきのみや)は皇帝陛下の妹君だ。

――なぁ、不思議に思わないか?

 どこの地球だったかは忘れてしまったが、初夏の北野天満宮の青紅葉は本当に美しかった。

――春光子(はるあきらこ)様は〈鬼〉になってからご懐妊なさった。つまり、明善は〈鬼〉なのでは?

 視界から光が消え、何か柔らかいものの上に堕とされた。

 再びの暗闇。だが、今度ははっきりと声が聞こえた。

香砂(こうしゃ)! 香砂(こうしゃ)!」

「……姉さん?」

 エンジェリックガーデンの家の玄関から続く廊下の上、何枚もの座布団の上に香砂(こうしゃ)は寝かされていた。

 頭上には心配そうに見つめる蒸気機巧妖精ジャック・オ・スチームと、涙を流す連珠(れんじゅ)がいる。

「ご、ごめん……」

「謝らなくていい! 生きていてくれればそれでいいから……。こんなになるまで一人で立ち向かうのは辞めて」

「うん……」

 優しい香りと温もり。香砂(こうしゃ)は先ほどまでの顛末をゆっくりと話した。

 赫夜(かぐや)のこと。春光子(しゅんこうし)のこと。〈仙丹〉のこと。妖精族がどういう目に合っているかということ。そして、気を失いながら見たあいまいな思考の波で気づいたこと。〈鬼〉のこと。

 連珠(れんじゅ)は涙をぬぐい、一つ一つ頷きながら聞いてくれた。

「わかった。つまり、明善をボコボコにすればいいのね」

「いや、ダメダメ!」

 思わず大きな声が出てしまった。

「少しは元気になったようでよかった」

「なんだ……冗談ね……」

「半分本気よ」

「でしょうね」

 香砂(こうしゃ)は空気が抜けた風船のようにフニャリと笑うと、ゆっくりと上体を起こした。

「……なんか薬臭いし……胸元が濡れてるんだけど……」

「ああ、薬湯を飲ませた時に勢い余ってこぼしちゃったんだよね。まぁ、もともと土で汚かったし、いいわよね」

「え、あ、うん……」

 姉はとても優しいし面倒見もいい。だが、いささか大雑把だ。

「じゃぁ、着替えてくる。……そういえば、内裏は?」

「もう大丈夫よ。結界は三重だし、私の使い魔も五十体配置してる。気にしないで休んで」

「よかった。ただ、休むのは……まだ明善のこともあるし……」

「鬼かもしれないって話ね……。でも、母親が憔悴しているときになにか行動を起こすとは思えないわ。明善は女房達の間でも有名なくらいマザコンよ」

「え、そうなの?」

「ええ。正妻も側室も女御様が選んだ女性だし、着る物も女御様が見立てたものだし……。占いよりも女御様の言葉を重んじて生きてるって感じ」

「へ、へぇ……。わたしもなかなか家族にべったりだという自覚はあるけど、明善親王は比じゃないね」

「そ。だから今日は大丈夫だと思う。というか、女御様の宿下がりが終わるまでは何もしなあいんじゃない?」

「え、宿下がりするの……? どこに?」

「今夜……、というかもう朝だけど、主上(おかみ)と中宮様の計らいで女御様は承香殿で一晩過ごされたけど、妖魔(もののけ)に攫われた穢れを内裏内に漂わせておくわけにもいかないからね。午後からは生家……じゃないけど生家ってことになっている皇帝陛下の伯母、つまり先帝のお姉様にあたる翠星大長公主すいせいだいちょうこうしゅの家に行くことになってるわ。大長公主様は養母ってとこかしらね。期間は二週間かな」

「そうなんだ……。じゃぁ、その時間を有意義に利用して、色々調べてみることにする。もちろん、今日はもう大人しくするけど」

「そうね。あ……」

 連珠(れんじゅ)はなにか大事なことを思い出したようで、驚いたような顔をした。

「そういえば、明琰(めいえん)殿下が香砂(こうしゃ)に用があるって言ってたなぁ……。もしかしたら家に来るかも」

「え!」

 思いもしなかった人物の名前に、香砂(こうしゃ)は心臓がぽんと跳ねた。

「だから家で休んでもらってもいい? 今日は丁重に追い返すようエースに言っておくから。明日はどうかわからないけど」

「わかった。今日ももし夕方とかだったら会おうかな。心配かけちゃってるし」

「ダメ。あんた、一応物忌みってことになるんだから。清らかな皇帝家の人に会っちゃダメでしょう」

「あ、そうか。わかった」

 香砂(こうしゃ)は少し残念に思ったが、物忌み中の者が皇帝家の者に会うのはご法度だ。

 慶安時代の人々は極端に〈穢れ〉を嫌う。生活の中心に〈卜い(うらない)〉があるからだ。

 陰陽道、神道、仏教、道教、北辰信仰、民間信仰など。

 さまざまな要素が混ざり合い、重なり合い、並行している。

 だからこそ、周波数渡航者フレクエンティア・トラベラーである魔法使い一家の桂家が簡単に馴染むことが出来たのだ。

 ということは、他の魔法使いも同じように馴染むことができるということ。

 そんな当たり前のことに、香砂(こうしゃ)はまだちゃんとは気づけずにいた。

 周波数渡航者フレクエンティア・トラベラーの中には香砂(こうしゃ)の両親のように研究者として生きている者もいるが、そうではない者もいる。

 時の権力者に取り入り、傾国を目論む者も当然のようにいる。

 この、葦原国にも。


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