第弐拾漆集
着替えは蒸気機巧妖精が手伝った。
「ぴったりですね。少し複雑な気持ちですが……」
「あら、あなたはまだ幼いでしょう。これからいくらでも身長は伸びて行きます。大丈夫ですよ」
女郎花の襲が健康的な肌の色をより美しく魅せ、控えめな化粧が作り出す清楚な雰囲気をより高貴に格上げしている。
「香砂殿は薄い色の襲はお嫌い?」
「あ、え、いや……」
(薄い色だと汚したときに目立つ、なんて理由、言いづらい……)
香砂は笑顔で濁しながら外へと促した。
「では、逃げてきたように装うために、少し汚しましょう」
「お庭に転がればいいかしら?」
「え!」
「赫夜様とはよく海に行って砂浜に寝転んでおりました。土の上を転がるくらい、平気ですわ」
「え、あ、じゃぁ……。その方がわざとらしくなさそうですね」
香砂は葦原国でも五本の指に入るほど高貴な身分の女御を土の上に横たえていることに少し頭が混乱したが、あまり時間もないので自分も瑠璃色の直衣を思いっきり土にこすりつけた。
「ふふふ。なんだか楽しいわ。女房達の前では絶対にできないけれど」
「や、やめてくださいね? 頭がどうかしたのかと疑われてしまいますよ」
春光子はくすっと笑い、土の上に寝ころびながら遠い目をして夜空を眺めた。
「文明の未熟さでこの地球を選んだけれど……、見た目の華やかさとは裏腹に、内裏は窮屈ですね。伝統、儀式、所作、占い、装束……。諏訪で姫巫女をしていたころが懐かしくなります」
「わたしからすれば、それもかなり窮屈そうですけど」
「いえいえ。親の目を盗んで赫夜様と恋に落ち、毎夜抜け出して逢瀬が出来る程度の監視しかありませんでしたから。当時の姫の務めとして武芸も磨き、狩りもさせてくれました。外で自由に身体を動かす機会は多かったように思います」
「へぇ……」
「わたくし、強かったでしょう?」
「え、ええ、とても。怖くて強かったです……」
香砂は先ほどの戦闘を思い出し、身震いした。
「ふふふふふ。ただ、もうわたくしは人間でも魔法族でもなく、ずいぶん昔から〈鬼〉に変容しております。夜中に生肉を食べるのも大変なのですよ」
「に、人間の肉じゃないですよね?」
「ええ、もちろん。鹿や猪の肉です」
「そうですか……よかった……」
香砂はホッと胸をなでおろし、隣で楽しそうに土の上を転がる鬼妃を見て苦笑した。
「良い感じに汚れましたね。そろそろ行きましょうか」
「ええ、そうしましょう」
土や苔、細かな石を髪や装束にたくさんつけた二人は、エンジェリックガーデンから出ると、小走りで大内裏の入口である朱雀門へと向かった。
「……女御様! 桂の若君!」
「おおお! ご無事でしたか!」
「はやく、はやくこちらへ! まだ妖魔がおるやもしれません!」
「お怪我はありませんか⁉」
予想通り、みんなが勘違いをしてくれた。
武官たちの話によると、承香殿では明善親王が騒いでいるらしい。「母上はどこだ! 早く探し出せ無能ども!」と。
春光子は誰にも見られないよう、こっそり香砂に向かってウィンクして見せると、すぐに用意されていた牛車に乗り、承香殿へと向かった。
本来ならば内裏には〈穢れ〉を持ち込むことができないのだが、今日のところは主上が大層心配しているため、すぐにでも女御を内裏へお届けせよとの命令が出ているらしい。
ライバルであるはずの中宮までもが深く心配し、承香殿の女房達のために陰陽術師を派遣するなどして支えてくれているという。
「あ……。姉さんに何も言ってない……」
香砂はまた身震いがした。きっとものすごく怒られることになるだろう。
何も言わずに危険に飛び込んだのだから。
武官の一人の話によると、連珠は陰陽術師たちと協力して妖魔から内裏全体を護る結界を張っているところだという。
「わ、わたしも手伝いますので、姉に会えますでしょうか……?」
「もちろんだ! ただ、怪我をしていないのなら、着替えはした方がいいかもな」
「わかりました。着替え次第、すぐに向かいます」
蒸気機巧妖精が着替えのついでに手当てしてくれたのが効いているのだろう。
傷口からはもう血煙は出ていない。そもそも、妖精族は怪我を負っても血ではなく白い煙が出るだけなので、包帯が赤く染まることはそうそうない。
ただ、今回は戦闘中に煙が出過ぎた。人間でいうところの貧血気味というやつだ。
「ちょっとクラクラするかも……」
連珠は鋭い。きっとすぐにでもバレてしまうだろう。
それでもいい。今は姉に会いたかった。
東の空が明るさを取り戻してきた。紺碧が紫に変わり、あたたかな橙色の光が現れ、空が白み始める。
ずいぶんと長い間夜の中にいたようだ。そういえば、風も冷たい。
京内に漂う焼けた臭いとうっすらとした煙は、内裏からながれてきたもの。
火矢の炎が建物を焦がしてしまったのだろう。
香砂は杖で扉を開き、再びエンジェリックガーデンの中へと入った。
着替えようと家の中へ入り、蒸気機巧妖精を呼んだところで、突然目の前が真っ暗になり、香砂は意識を手放した。




