第弐拾陸集
――何度も待ち合わせをした。そのたびにいつも好い香りがしていたのは、赫夜が美しい花の咲く場所を知っていたから。
――そしてそれを、わたくしに見せようと、一緒に見ようと、想っていてくれたから。
焼けこげる臭いと、硬いもの同士がぶつかる音。それに、まだ少しだけ幼さの残る少年の叫び声。
「春光子様! お逃げください!」
激しく泣いた後、顔を上げると、そこには火矢をたった一人で防ぎながら春光子を護る香砂の姿があった。
下からは「妖魔はまだ生きている!」「女御様に化けているようだ!」「早く射殺せ!」と、怒号が聞こえてくる。
「香砂! 何をしている! 怪我を負ったのか⁉ 早く降りてこい!」
「桂の若君! お逃げくだされ!」
下からはよく見えていないのか、香砂は妖魔に囚われていると思われているようだ。
「春光子様、ここはわたしがなんとか取り繕いますから、お逃げください」
「な、なぜわたくしを……」
「あなたにはどうしてもやってもらわなくてはならないことがあります」
「……仙丹製造の中止、ですね」
「そうです。生きていてもらわないと、それが叶わないのです」
「ふふふ……。紫宸殿の地下に隠し通路があります。出口は東寺です。我らの足ならば、四半刻もあれば着くでしょう。そこで落ち合いましょう」
「わかりました。では、お気をつけて」
「ええ」
香砂は表情の変わった春光子に安堵し、彼女が紫宸殿の中に入っていったタイミングを見計らって屋根から夜空へと飛び立った。
下で叫んでいる彼らは香砂が妖魔に攫われたと思うだろう。
好都合だ。検非違使は太門の近くを探すだろう。東寺には来ない。
香砂はまっすぐ東寺に向かって飛び、月明かりの中血だらけの装束を纏った春光子を見つけた。
「遅れてしまいました」
「いいえ。わたくしも着いたばかりです」
「それで……どうですか? その、仙丹……」
「ええ。中止します。明善……、その、息子には『失敗だった』と伝えます。あの子の皇太子殿下に対する妬みと出世欲を利用してしまいました。きっと陛下は助からないでしょう。それは致し方ありません。人それぞれ寿命がありますから……。まぁ、延命理由は……愛ではないので、陛下はがっかりするでしょうけれど」
「納得するでしょうか……」
「明善は頑固ですからね。でも、わたくしの言うことならば聞くでしょう。あの子はわたくしにべったりですから」
「うわ。知りたくない情報です」
「ふふふ……」
春光子は深呼吸すると、頭を下げた。
「あなたには大きな迷惑をかけてしまいましたね。あなたの種族にも……」
「どうぞ頭を上げてください。ただ、……あなたを生かしておく選択について、仲間に説明し、説得するのにはかなり時間がかかると思います」
「そうですね……。妖精族を誘拐し、気絶するほど血煙を抜いて山中に放るなんてひどい真似をしてしまいましたから」
春光子の話に、香砂は目を見開いて驚いた。
「血煙を抜いて……放った……だけ、ですか?」
「ええ。そう指示してあります」
「そ、それは……」
香砂は自分が目撃した実験施設について春光子に話した。
手術台に横たわっていた、たくさんの管に繋がれた妖精族。それはなんでもないただの血液に妖精族の力を宿すための血液畑だった。
そして、そこから作られた妖精薬をすでに投与されている実験体がいるということ。
今もたくさんの妖精族が行方不明になっていることなど、すべてを話した。
「そ、そのような悍ましいこと、指示しておりませんわ。たしかに、妖魔については解体など、人体実験は勧めましたけれど……。妖精族は、その、厄介なことになったら困ると思っておりましたので、気絶する程度の血煙を抜いたら山中に放置するよう指示を出しておりました……」
本当に知らなかったようだ。春光子は両手を震わせ、顔を覆い、青ざめた顔でしゃがみこんでしまった。
「では……」
「明善だわ。あの子、ただの我儘な精神的に幼い子だと思っていましたが……なるほど。策略家で強かな性格は父親譲りのようですわね……」
春光子は立ち上がると、自らの頬を叩き、大きな目を見開いた。
「罪滅ぼしの一端になるかはわかりませんが、わたくしが息子と話してみましょう。あの子がもっとひどいことをする前に……」
「着替えて一度戻りましょう。お互い、攫われたことにして、逃げてきたことに」
「わかりました。ただ着替えが……」
「わたしの変装用のものがあります。では、どうぞ。こちらがわたしのエンジェリックガーデンです」
香砂は杖で扉を開くと、中を見た春光子は少し切ない目をして微笑んだ。
「まぁ……。美しいわ。赫夜様のとは違うのですね……。赫夜様のお庭には福寿草がたくさん咲いていて……」
「春光子様のためですね」
「……ええ。そうです」
春光子は涙を浮かべながら中へと入っていった。
香砂の庭には、今は杏の花が咲いている。
「あなたも、誰かのために?」
「いえ。これはわたしが生まれた時に妖精女王アルネメティア様からいただいたものなんです。株分けして植えるのを繰り返していたら、並木道が出来るくらいになりました。ガーデン内は植物の生長がはやいので」
「そのようですね。なんて素敵な景色なのでしょう。見せてくださり、ありがとうございます」
白く小さな花が風に揺れる。甘い香りが漂い、その中心に立つ女御はまるで少女のような笑みを浮かべている。とても美しい光景だ。
「て、照れますね。さぁ、家の中へどうぞ。わたしの変装用のものですが、良質なものですので、春光子様が着るに値すると思います。身長もそう変わりませんし、大丈夫でしょう」
「ええ。ふふふ。いつか見せてくださいね。男性の女房装束など、なかなか見られるものではありませんから」
「お、お戯れを……」
香砂は耳まで真っ赤にしながら、目を伏せ、和室へと案内した。




