第弐拾伍集
葦原国はすでに陽が落ち、空には今にも雨が降りそうなほど厚い雲がかかっていた。
香砂は杖に乗り、内裏を目指し飛び始めた。
風が冷たく、頬を刺す。痛いのは風を切って飛んでいるからだろうか。それとも、別の場所の痛みが身体に現れているからなのだろうか。
何を言えばいいのだろう。何から話せばいいのだろう。何を伝えればわかってくれるのだろう。どんな話し方をすれば傷つけなくて済むだろう。何をしてあげられるだろう。
気づけば、内裏の上空、承香殿の真上を飛んでいた。
香砂はゆっくりと屋根に降り立ち、そっと建物の中へと入っていった。
すると、まるで待ち構えていたとでもいうように、御帳台の中、側付きの女房さえ置かず、女御だけが座っていた。
「女御様……」
「ええ、わかっていました。いつか誰かが気づくだろう、と。それも、仙子族の者が」
「わたしをご存知なのですか」
「ええ、もちろん。表向きは中宮様の一番のお気に入りの女房である芍薬の君の弟君。でも、その実、仙子族の古の伝統により〈取り替え子〉となって人間の中で暮らしている仙子。つまり、わたくしの赫夜様と同じ種族でしょう?」
「……ええ、その通りです」
女御は御簾を上げ、御帳台の中から出てきた。
「それで? 何の御用でしょう」
「……〈仙丹〉の製造を辞めていただきたく、本日は参りました。わたしはあなたがおっしゃった通り、妖精族です。だからこそ、赫夜様のお気持ちは痛いほどわかります。寿命の違う種族を大切に想う気持ち。共に生きたいと願う気持ち。失う怖さと向き合う気持ち……。それでも、赫夜様は間違いを犯しました。あなたを救うべきではなかったのです。それも、霊薬の力を使って」
香砂の言葉を顔色一つ変えず聞いていた春光子は、小さいがよく通る声で話し始めた。
「わたくしは知っておりました。赫夜様が捕まったこと。それも、わたくしを愛し、守ると誓ったせいで……。あなたは『わかる』とおっしゃいましたね? それならば、なぜわたくしを止めに来たのですか。わかるのならば、放っておいてください。好きでもない男の子を身ごもってまで練った計画……。邪魔はさせません」
女御の、春光子の目に浮かんでいるのは、復讐の炎だけ。
「わたしくは〈鬼〉になることを選びました。赫夜様がいない世界はまるで晦冥……。どこを見ても薄汚い腐臭のする暗闇の中を、傷だらけの心で、砕けた硝子の上を、傷みすら麻痺するほどの孤独を歩く気持ちが……。きっとあなたにも一生わからないでしょう」
皮膚を裂き、髪の隙間から伸びる赤黒い角。禍々しく、悲哀に満ちている。
親指を噛み切り、流れ出す血で目尻にひく〈紅〉は、まさに戦化粧。
愛するものを奪った全てのことへの恨み辛みが募った劫火の彩。
「さぁ、お前も奪うがいい。皇帝の命を、友の父親の命を! わたくしの赫夜を奪ったように! 死ね! 仙子族!」
雲に隠れていた月が姿を見せた瞬間、艶やかだった爪が鋼鉄の鈎針に変化し、香砂に襲い掛かってきた。
香砂の目は霞んでいた。分かり合えなかった。結局、こうなってしまった。
涙で揺れる視界。袖で拭い、杖を構えた。
火花が散る。互いの魔力と思いがぶつかり、それは激しい光源となって内裏中に響き渡った。
外が騒がしくなる。武官たちが走ってくる音。検非違使の怒声。文官の悲鳴。
「も、妖魔だ! 女の妖魔が……!」
来ている装束から判断したのだろう。武官の一人が叫んだ。
「あ、あれは……あれは承香殿の女御様だ!」
女房たちの泣き叫ぶ声に、春光子は顔をゆがめ、屋根の上へと飛び上がった。
「五月蠅い人間どもめ! お前を殺したら、あいつらみんなわたくしの兵にしてやろう! もちろん、〈仙丹〉でな!」
香砂は杖を太刀に変え、屋根まで飛んだ。
「なぜそんなことをする必要があるのです!」
「すべての次元に存在する仙子族を、赫夜に惨い仕打ちをした〈神〉もろとも皆殺しにするためだ!」
「そんな……!」
近づいてきた春光子の腿を蹴り、よろめいたところへ太刀をたたきつけるが、彼女はすでに〈鬼〉。身体能力は妖精以上だ。片足で踏ん張った反動を使い、香砂の首元めがけて爪を振り下ろしてきた。
香砂はそれを太刀で受けると、力ずくで跳ね返し、後方へと宙返りしながら距離をとった。
「赫夜様があなたを生きながらえさせたのはこんなことのためじゃないはずです! あなたと、長い時間をかけて美しい景色を巡るためではないのですか! 決して世界を破壊するためではないはずです!」
「あの日、あの瞬間! 赫夜が死んだ時にその幻想は捨てたのだ! いいか小僧! この身には愛しき赫夜の血が紅となり、仙丹となって流れておる……。その結果、血の持ち主がされたことはこの身体が……心が感じるのだ!」
春光子の瞳からあふれる涙は、顔に赤い筋を作りながら装束を鮮血に染めていった。
「身体から……心から……愛しい人が抜け落ちていくあの感覚を……お前になどわかられとうもない!」
春光子の言葉が耳に、胸に響いていく。出来ることならば、経験したくないと願うほどの苦痛。
二度と会えないという事実が、身体を、心を襲う。
「それでも……、生きてほしいと、希われたでしょう?」
声から力が抜けていく。いつの間にか、また涙が流れていた。
袖を裂かれ、腕に到達した爪が肉を抉っていく。
血煙が噴き出し、痛みに口元がゆがむ。
「あなたの……幸せを……願って……紅を……渡されたのでしょう……?」
痛い。腕も、心も。
「五月蠅い……、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
香砂は太刀を強く握り直し、深く息を吐いた。
「では聞きます。何と言ってその薬を、紅を渡されたのですか?」
春光子は耳をふさぎ、怨念のこもった目で香砂を睨みつけたが、少しずつ緩んだ手はだらりと身体の横に下がり、瞳からは涙があふれ始めた。
「赫夜は……、赫夜様は……わたくしに言ったわ。『あなたが美しいことを知っているひとは何百人もいるでしょう。でも、あなたの弱さを知っているのはわたしだけ。永久に愛を誓うわ。例えこの身が滅ぶ日が来ても、わたしの心はあなたのもの』って……」
「あなたは何も失ってなんかいないでしょう? 今も赫夜様の心はあなたのもの。共に過ごした思い出も、言葉も、笑顔も、香りも、記憶も、想いも……。ずっとずっと、永遠に」
香砂は太刀を構え、春光子の頭部めがけて斬り上げた。
斬り落とされた角が二つ、屋根を伝って庭へと落ちていく。
「二人の間にあった愛しい日々まで、どうか、壊さないでください……」
春光子は自分の身体を抱きしめながら泣き崩れ、その声は月が輝く夜空に響き渡った。




