第弐拾壱集
絶え間なく流れ、散り始めた花々を優しく運ぶ清流。
降り注ぐ光は、水面の揺れに合わせて踊り、木々の葉にその軌跡を映し出す。
永久に豊穣たる〈水〉に纏わる力を讃えし聖域。
ここは〈シード・オブ・アルネメティア〉。香砂が生まれ、石榴と〈取り替え子〉の儀式が行われた場所。
久しく来ていなかったが、その景色は幼いころに胸いっぱいに吸い込んだ清々しい水の香りと全く同じだった。
澄み渡る空気に、身体中の細胞が歓喜の詩を歌い、心の底に眠る小さな切なさが微笑んだ。
「そうか……。産みの母と父が住んでいるのか……」
考えないようにしていたわけではない。その事実はずっと胸の中にあった。
(両親が四人いる。そう聞かされて育ったから……。十分すぎるほどに愛されているから、何も疑問には思ってこなかった。それは今も同じ)
「え! 香砂⁉」
少し高めの声と、透き通るほど白い肌に栗毛のふわふわとした髪。
「ロア! どうしてここに⁉」
「あのねぇ、連絡もなく家の近くに妖精のゲートが開いたら誰だって見に来るでしょう」
「げ、ごめん……」
「ふふふ。なんとなく、香砂だったらいいなって思いながら走ってきたんだよ」
「本当? 嬉しい!」
「今杖は修理に出してて飛べないからね」
「え、どうしたの?」
「それが、どうやら聖域に長く住んでることで魔力が妖精のものになってきているみたいで、アルネメティア様がくださった人間用の杖だとうまく魔法が使えなくて」
「そうなの? じゃぁ、わたしも魔力が人間寄りに……」
「それはないかな」
「だよね。えへへ」
「もう。生まれてきたのが十五分しか変わらないのに」
「お兄ちゃんでいてくれてありがとう、ロア」
「僕は同等の関係で親友のつもりなんだけどなぁ」
「ふふふ」
ちょっとだけ身長の高いロアに頭を撫でられると、香砂はいつもくすぐったいような、暖かな気持ちになる。
それは連珠がくれる愛情と似ている。
「それで、どうしたの? 何かあったの? もしかして、病気⁉ 聖域でしか治せないみたいな……」
ロアの顔が青ざめ、慌てたように香砂の額に手を当てたり、脈を図り出した。
「ち、違うよ。もう。……が、学校からの宿題でさ。アルネメティア様に聞かないといけないことがあるんだ」
「はい、嘘。僕に嘘がつけると思ってるなんてびっくりする」
「……巻き込みたくないんだよ」
香砂の顔が曇る。涙が出そうなほどに。
「……兄弟なのに? 親友なのに?」
「……ロア」
「そんな顔をしてもダメ。僕たちの魂は、一部だけどとても強い力で結ばれている。そのおかげで僕は生きていられるんだ。香砂の命が、僕を病から守ってきてくれたんだよ? 今更何? 僕には香砂を助けられないっていうの?」
ロアの真剣な目と、優しくて強い声に、香砂の心は揺れ動いた。
正直なところ、ロア以上の援軍はいない。それに、ロアは二十歳までは聖域から出ることができない。安全な場所から支えてもらえるのなら、少しは安心かもしれない。
「……話すよ。あのね、実は……」
香砂はアルネメティアの居住区域に向かう道すがら、妖精の生体組織から作られる霊薬、〈仙丹〉についてロアに説明した。
その薬は強い副作用はあるが、人間の身体を強化し、病魔すら遠ざける力を持っているかもしれないこと。そのせいで葦原国の仙子族が攫われていること。ただ、〈仙丹〉があれば友人の父親が助かるかもしれないということ。でも、妖魔由来の〈仙丹〉を服用している人間を目撃した印象は殺戮マシンのようであったこと。
そして、その〈仙丹〉の製法を周波数渡航者に教えたのは〈月の妖精族〉の〈赫夜姫〉かもしれないことなど、すべてを話した。
ロアは口元を抑えながら考え込んでしまった。それもそのはず。ロア自身が〈取り替え子〉の儀式によって香砂の妖精の力と結びつき、二十年かけて病魔を身体から追い出している最中なのだから。
「妖精の力が陽に作用するのは僕を見れば一目瞭然だと思う。それでも、二十年かけてゆっくりと治しているから正常に生きていけるだけで、もし生体組織を取り込んで無理やり身体を強化なんてしたら……。だから、赫夜ってひとも愛する人間の姫に紅という形で渡し、少しずつ摂取できるようにしたんじゃないかな……」
妖精の力はとても強い。妖魔よりも、〈魔法族〉よりも、聖女を輩出する〈魔女族〉よりも、もっと強い。
魔力は身体よりも精神に影響するもの。もし妖精由来の〈仙丹〉を〈人間〉が口にしてしまったら、何が壊れるかわからない。
理性なのか、欲望なのか、倫理観なのか、愛情なのか。
それにともなって流れ始める強力な魔力を、どう制御するというのだろうか。
いい結果にならないことだけが確定事項のようなものだ。
「はやくアルネメティア様のところに行こう」
物事は『禍福』だとよく言うけれど、〈仙丹〉がもたらすものは、転じえぬ『禍』だとしか思えない。
二人は香砂の杖に二人乗りし、妖精女王が住まう区域へと急いだ。
葦原国での実験が終われば、きっとあらゆる世界戦の地球に広がっていくだろう。
それは阻止しなくてはならない。何としても。
例え、友人の父親を救えなくなったとしても。




