第弐集
風呂を終え、戦闘用である裾の短い闕腋袍と下襲を用いる深緋の武官束帯に着替えた香砂は、都に漂うある種の騒がしさを感じ取るために中庭へと出た。
残暑の中に香る秋の気配。重陽節もとうに過ぎ、儀式ではない登山客が増え始めた頃。
「香砂さま、出陣ですか?」
闇夜に紛れる黒橡の忍装束を身に着けた青年が、どこからともなく現れた。
音もなく、風の揺らぎすら起こさずに。
「出陣とか大げさに言わないでよ……。ただ妖魔の数体を追い払うだけだし。大したことはしないよ。眠いしね」
香砂は驚きもせず、琥珀色の瞳を持つ青年の問いかけに答えた。
すると、またどこからともなく、今度は桃染の狩衣姿の凄艶な魅力を持つ青年が現れた。
「桂の若君も大変ですね。このような……脳が大鋸屑で出来ているような者まで召し抱えなくてはならなくて」
「なんだと麻黄!」
「おだまりなさい、附子」
附子と麻黄は香砂を間に挟んでお互いに威嚇しあうように睨みあっている。
香砂は出会った当初から何年も続く二人の喧嘩に今更介入することもせず、空に浮かぶ半月を眺めた。
「ああ……、そういえば、霊凰さまは元気にしてる?」
「ええ、若君。古代の華煉国に居を構えたまま、多次元波長として毎日楽しくあらゆる世界にちょっかいを出し続けておられます」
「そうか……。麻黄は今日も偵察をお願いね」
「かしこまりました」
「それにしても、香砂さま。人間たちも大胆ですねぇ。妖魔を攫うなんて。いったい何がしたいんだか。自分たちで外法を使い、五つある太門のうち、三つも開いちゃったんですよ? そりゃぁ、妖魔の軍勢も封印が解かれたら嬉々として出てきますよねぇ」
「附子、声が大きいよ」
「すみません香砂さま」
桂家が、文明レベルが古代から中世の地球にある慶安時代の葦原国に居をおきはじめてから、三年の月日が過ぎた。
慶安時代に来た時にはすでに太門のうちの一つ、邪水の門の封印が解かれており、海や河川の近くにある村々が妖魔による大きな被害を受けていた。
現在では愚者金と穢土の門も破られている。
残っているうちの毒樹の門は僧たちが、劫火の門は陰陽術師たちが昼夜問わず守護している。
「そうそう、今日は愚者金のほうへ行ってくれって上司に言われたんだ。附子は戦いやすいよね」
「僕は毒蛇の神使ですからねぇ。金属などたやすく溶かしてやりますよ」
「頼もしいよ。じゃぁ、行こうか」
附子はまた音もなく闇に消え、孔雀の神使である麻黄も美しい羽を揺蕩わせ飛び立っていった。
愚者金の門から一番近い鉱山には、すでにいくつかの妖魔と武官の屍が転がっていた。
血と硫黄と、破裂した内臓から流れ出す体液のにおい。
人間の屍が焼ける臭いは、豚の丸焼きのようで、脳が混乱する。
「はぁ……。道教の導師からもらった札を身に着けないからこうなるんだよなぁ」
香砂は溜息をついた。
武官の中にはこの期に及んでもなお〈怪異〉を馬鹿にする者たちがいる。
『血が出るものは殺せるのだ!』というのが彼らの言い分らしい。
そのため、対人間と同じ要領で妖魔に戦いを挑み、身体ではなく無防備な魂を切りつけられてしまい、錯乱し、絶命してしまう武官が後を絶たない。
たしかに、妖魔には灰色の体液が血のように身体を巡ってはいるが、彼らのそれは魂と魄を繋ぎとめるだけの呪であって、人間のように失ったら死ぬというわけではない。
灰色の体液がすべて流れ出れば、ただただ魂魄が分離し、実体のない鬼魂と、秩序無く暴れまわる鬼魄に変化するだけ。
暴れまわるだけの鬼魄はまだ切り刻めばなんとかなるが、鬼魂は人間の屍や動物の屍に乗り移り、再び生者を襲い始めるため、とても厄介だ。
分離してしまった鬼魂は札や人形などに封印してお炊き上げするしか消す方法がない。
そのため、可能な限り魂魄が繋がったまま妖魔を絶命させる必要がある。
「普通の人間さんたちはちゃんと魂護らないと戦えないのに……。意固地になるのはやめてほしいね。その点、貴族の坊ちゃんたちは占いやらもろもろを信じているから、扱いやすくていいんだけど」
その証拠に、高貴な出の武官や軍侯、軍を持つ親王や郡王 (親王より位の低い皇子)、郡主 (親王の娘)は妖魔と対等以上の戦いを見せている。
「香砂! やっと来たか」
今夜の配置場所を教えてもらおうと、護衛についている兵士に挨拶し、軍幕の中へと入ると、そこにはちょうどよく見知った顔があった。
幼いころはよく姫に間違えられていたようだが、どういう遺伝子の変化か精悍な美丈夫へと成長した尊き身分の友人。
「明琰親王殿下ではありませんか……。本当に戦場がお好きですね。これでは弘徽殿の中宮様も心配しましょう」
「誰が戦好きだって? それはお前だろう。芍薬の君は母上の……中宮様のお気に入りの有能な女房だ。お前こそ、自身の姉上に心配ばかりかけるでないぞ」
「はいはい。そうできればいいんですけどね。そういえば、主上の護衛はどうなっているのでしょうか」
「兄上がとっくに手配しておる。戦の経験こそないが、皇太子である兄上はまさに賢王。兄上にお任せすれば陛下の身も安心だ」
「わぁ、ブラコン」
「何か言ったか?」
「イイエ、言ッテマセン」
香砂は傷だらけの鎧を身に着けた友人の疲れた笑顔を見て少し心配になりながらも、本人に傷がなければいいか、と小さくため息をついた。
「いつもよりも静かですね」
「ああ、それは新しく開発された蒸気機関のおかげだろう。なんでも、優秀な燃料を使っているらしい。この松明もそれでついている」
「へぇ……」
たしかに、以前のものよりも明るいが、蒸気機関特有の音も小さければ、排出される蒸気も少ない。
「それで……、今夜お前に頼みたいのは……すまない、ここだ」
雑談もそこそこに、明琰に配置場所を地図で示してもらい、香砂はその場所へと向かった。
そこは今回の戦いで一番の激戦区。兵士の屍の数も桁違いだ。
「わたしがとても強いということは知っているのだから、あんなに悲しそうな顔をしなくてもいいのに……。殿下は心配性だなぁ」
香砂は腰に下げている小型の鎌を手に持つと、妖魔たちの前に出た。
「これはね、本来なら薬草の採取に使うものなんだけど……妖魔退治もできる優れモノなんだよ」
香砂が鎌の背を撫ぜると、ぼうっと薄荷色に光出し、身長を超えるほどの大きさに巨大化した。
刃は銀色に輝き、片刃だったものが両刃に変化した。
「さぁ、首を刎ねる時間だ。わたしは早く帰って寝たいんだ。みんな、おとなしく首を差し出してくれればいいのだけれど」
大きな鎌を自由自在に振り回す香砂の姿を見た妖魔たちの目に、恐怖が浮かんだのはたった数秒。
瞬きする間に、その首は宙に浮き、次々に地面へと落下していった。