第拾玖集
ここは内裏の清涼殿。御帳の中、苦しそうな呼吸が外まで聞こえていた。
「陛下……」
公務に出ている兄の皇太子の名代として参内した明琰親王は、皇帝直属の医師に無理を言って父である皇帝の様子を見に立ち寄った。
(先月より、悪くなっている……)
日に日に立ち上がれることが少なくなり、今は起き上がるので精一杯の状況だった。
調子のいい日は絵巻を眺めることもあるようだが、公務はすべて皇太子が引き継いで行っている状態だった。
(何か……何かすぐ快復するような……そんな都合のいい薬などはないのか……)
涙など流すべきではないのに、視界が揺れる。靄がかかったように歪んで映る景色に、耐えられず、明琰は一礼するとその場を後にした。
しばらく内裏内を歩いていると、向かいから取り巻きを引き連れた明善親王が歩いてきた。
「これはこれは、明琰ではありませんか」
「……明善兄上、ごきげんよう」
「兄上だなどと……。たった一日しか生まれた日が違わないのだから、気軽に明善と呼んでください」
「いえ。遠慮申し上げます」
「相変わらずの堅物……。真面目ですねぇ、明琰は。その真面目さで父上が救えればよいのですが……」
「……今なんと?」
「いえいえ。お気になさらず。ただの戯言ですので。私は父上をお救いするための薬の調達で忙しいので……これにて失礼いたします」
明善は妖狐のような怪しい笑みを浮かべて一礼し、その場を優雅に去っていった。
明琰は固く握った拳を開き、数回深呼吸を繰り返した。
(相変わらず嫌味な奴だな……)
明琰は先ほどの会話を振り切るように建礼門へ向かって颯爽と歩き始めた。
(父上を救う薬と言っていたが……。裏でコソコソと何かをしているのはそのためなのか? 本当に? 明善が父上を救うだと? そんな殊勝な真似、するはずがない)
何か裏があるはずだ、とも思ったが、そもそも皇帝の病は重い。
それを医師でもない明善がどうこうできるとも思えなかった。
(父上のことは心が苦しいが、その分、兄上が頑張っていらっしゃる。評判もとてもいい。父上も安心だろう……)
だが、自分はどうだ。最近、妖魔に関しておかしなことが続いている。
報告にある倒した数と実際の死体の数がまったく合わないのだ。
何度調査しても、五体以上の誤差がある。
戦闘中は妖魔の死体の数など数える暇はない。
(どうすればよいものか……)
こんなとき、友人だったらどうするだろうか、と、明琰は香砂を思い浮かべ、小さく笑った。
いつも気だるげで、全くやる気を感じられない表情をしてはいるが、実際には強く、とても頼りになる存在だ。
小さな失敗を力ずくでなかったことにする様子は、見ていてとても爽快なほど。
「はやく、また出仕してこないものだろうか」
あんなにやる気のない友人でも頑張っているのだ。自分ももっと頑張れる、と、明琰は少し気持ちが軽くなった気がした。
一方その頃、香砂は本に埋もれながらうんうん唸っていた。
久しぶりに活字ばかりを視界に収めているせいか、頭が痛い。
ずっと座っているせいで腰もお尻も痛い。
気づいたら気温も下がっていて、手が霜焼け寸前。用意してくれた火鉢は本が燃えないように少し遠く、お茶は冷たく氷のようになっている。
「おお、やっと本から顔を上げたか」
「さ、寒い……」
「本を置いて火鉢に近づけ。お茶も新しいものを用意したぞ」
「す、すみません……」
楼閣の中は貴重な書物が多いので、基本的に魔法の行使は禁止。
魔法を使いたければ、楼閣の舞台か庭など、書物がない場所に行かなければならない。
「あっ、も、毛布をかけてくださってたんですね……。今の今まで気づかなかった……」
「もう夕方だぞ。ご飯も食べず厠にもいかず……」
「……言われたらトイレ行きたくなってきました」
「膀胱炎になるぞ」
「い、行ってきますぅぅ……」
香砂はトイレにて盛大に腹を下し、げっそりとした表情で部屋に戻ってきた。
「も、毛布……」
「ほら、火鉢を囲め。茶も飲め。薬を出すから手に塗れ。粥を食え」
まるで病人のような扱いを受けながら、香砂はひたすらそれを享受した。
逆らうこともないし、なにより何かを言う元気もなかった。
毛布を三枚かぶりながらお茶をすすり、手に薬を塗り込んだらレンゲをもって粥をすすり、ひたすら身体を温め続けた。
「どうだ、あったまってきたか?」
「ひゃい」
「うんうん、もう風呂に入って寝ろ」
「え、まだ夕方ですよ」
「お前が体調を崩したらご両親に申し訳ないしなにより連珠が乗り込んでくるぞ」
般若のような顔の姉を想像し、香砂は身震いしたが、引き下がることはできない。
「……お風呂は入ります。ですが、体調には十分気を付けますので、もう少し調べものをさせてください」
「……はぁ。十時が完全消灯の時間だから、それまでに寝る支度をしてエンジェリックガーデンで休めよ」
「はいっ!」
鳳雛閣の書籍は持ち出し禁止のため、エンジェリックガーデンに入ったら素直に寝るしかない。
その前に、出来るだけ読んでメモしておく必要がある。
香砂は火鉢の代わりに焼き石とお湯を入れた壺を抱きしめながら再び読書を始めた。
途中で風呂休憩を強制的にとらされたが、それ以外はずっと読みながら重要なことをメモして過ごした。
月が昇り、夜風が吹き抜け、壺の中のお湯が冷め始めた頃、ちょうど時間が来たため、香砂は机を綺麗に片づけ、本を読んだものと読んでないもの、もう少し調べが必要なものに分け、エンジェリックガーデンへと戻った。