第拾捌集
紙と墨の香りに、糸をつむぐカラカラとした音。通り抜ける風は季節の花弁を運び、そばを流れる清流は、水面に太陽のきらめきを映し出す。
ここは仙境にある知識の館、鳳雛閣。
多様な種族がよく学び、よく働き、よく生きている場所。
身分に貴賤などなく、皆が等しく生徒であり、先生。
谷間に建てられたこの楼閣は地下五階、地上八階にも及び、この世のすべての知識が集う場所としても有名である。
まだ十歳かそのくらいだった香砂が一年を過ごした場所も、美しい楼閣だった。
「学問とは、求めに応じて誰にでも開かれるべきものだ。そうだろう?」というのが、霊凰の口癖のようなものだった。
――身に着けた知識は常に味方でいてくれる。時にお前を助け、間違った〈真実〉から救うだろう。〈事実〉とは、知識が導く生きる糧だ。何もかもを〈真実〉で固める必要はないのだよ。
ここもきっと居心地がいいのだろう。そう、思えた。
「おお! 来たか、香砂」
二階にある広い舞台の欄干から身体を乗り出し、手を振る霊凰は、とても無邪気で美しい小手鞠の花束のよう
「新しく学びを求める子供たちを案内してまいりました」
「むむ、それは興味深い。さっそく部屋と書物を用意しよう。あたたかい茶もいるな」
香砂は子供たちをエンジェリックガーデンから外へ出るよう優しく誘うと、みな恐る恐るあちこちに視線を移しながら出てきた。
そして、目の前に建つ巨大な楼閣に目を丸くし、可愛い顔をほころばせた。
「今日からしばらく、ここが君たちの家だよ」
楼閣から香砂と同じくらいの齢の少年が子供たちを迎えにやってきた。
香砂の説明で少年は事情を察すると、すぐに懐から筆を取り出し、空中に文字を書いて見せた。
『ようこそ ほうすいかく へ』と。
子供たちは初めて見る不思議な力、〈魔法〉に頬を赤く染めながら喜び、すっかりとりこになったようだ。
少年の案内についていきながら、時折振り向き、香砂に大きく手を振ってくれた。
香砂は子供たちが中へ入っていくのを見届けたあと、杖に跨り、五階で旗を振る男性の元へと向かった。
「ここまでお疲れ様でございました。こちらで休憩なさってください。もうすぐ閣主が参りますので」
「わかりました。ありがとうございます」
霊凰はさっそく子供たちの様子を見に行ったのだろう。いくつか質問をし、一番食いつきがよかった分野の本を用意するのだ。
今回保護した子供たちは身なりがきれいで、髪も整っていた。良い家の子なのだろう。
いつもならば、文字が読めない子供には絵巻を用意するが、あの子供たちならば、簡単な書物なら理解が可能だろう。
「墨の匂いだ……」
血に魔力が無くても魔法が使える墨、〈霊墨〉。
妖精族の香砂は使わずとも魔法が使えたからか、霊墨を与えられたことはなかったが、いつもその澄んだ香りに癒されていた。
(楼閣のことも、けっこう忘れていたんだなぁ)
墨の香りをかぎ、徐々に思い出してきた。
(図書室で本に埋もれたまま寝ちゃって……。何度も先輩たちに部屋に運んでもらったっけ……)
とても仲の良い友達、というわけではないが、困っていたら出来る範囲で助け合う。
自分では無理だったら、誰か他の人に声をかけて任せる。自分一人で背負わない。
そんな当たり前だけれど、香砂には難しかった普通のコミュニケーションを教えてくれたのは、全部たった一年しか通っていない楼閣だった。
「なんだ、黄昏ているのか?」
「え、あ、ち、違いますよ」
晴天を眺めながら立ち止まっていた香砂をからかうように、霊凰はニヤニヤと笑った。
「あの子たち、ある程度の教養はありそうだ。見込みがある。きっと好い人間になるぞ」
「そうですか。それはよかったです」
深くは聞かない。霊凰はいつもそうだった。
こちらから助けを求めるまでは、見守ってくれる。常に手を差し伸べる余裕を持ちながら。
「さて、さっそくだが、霊薬〈仙丹〉に関することが書かれている書物を百五十冊ほど見繕っておいた。これ以外にもあるやもしれないが、まずはここから調べるといいだろう」
「ありがとうございます」
「私も自分の記憶を再度たどってみたが、やはりどの世界のどの国のどの時代でも、仙丹は封印されるか、すでに製法は廃れていた。ただ……」
「なんですか?」
霊凰は眉根を寄せながら話した。
「どの記憶も、最後に仙丹の知識を持った者が死んでいるのが〈日本〉なのだ」
「そんな……」
〈日本〉という国も例外ではなく様々な世界でそれぞれ独自の進化を遂げながら文明を築き、文化を構築している。香砂が住んでいる〈葦原〉もその一つだ。
「私が確認しただけでも、〈日本国〉〈大日本帝国〉〈葦原国〉〈扶桑国〉〈日百合国〉〈日本皇国〉〈大和国〉〈武蔵国〉〈月照国〉〈金烏国〉など……。それらすべての国が〈仙丹〉の終着点だったのだ。シルクロードを巡り、華煉国のような大国を通り、行きつく先は……」
「同じ……。それらの世界の中で、もっとも文明が遅れているこの地球の……葦原国が選ばれたのは、偶然ではないのですね」
「ああ、そうだ」
香砂は大きな低い机に積まれた書籍の山の前の床に座布団を敷き、さっそく片っ端から読み始めた。
なんでもいい、何か、何か手がかりが見つかりますようにという願いと、すべてが夢だったらいいのにと、思いながら。
もし仙丹の製造を止めることになれば、作られた理由が邪なものであったとしても、明琰から父親を奪うことになる。
もし本当に皇帝が重い病気なら、その薬の出所が何であろうと、子供たちは使いたいと願うだろう。
その気持ちは痛いほど、胸が苦しくて涙がにじむほど、わかるから。
香砂は感傷を振り切るように本を読み進めた。時間も忘れ、手の甲が寒さで赤くなっていることにも気づかないまま。