第拾陸集
「それはまた、難儀な……ふむ」
香砂からもたらされた『妖精薬』とその実験体についての話に、霊凰は目を閉じながら思案した。
茶屋の二階は大通りに面してはいるが、障子を閉め、さらに雨戸も締めればとても静かだ。時折、廊下を挟んで向かいの部屋からかすかないびきが聞こえるくらい。
ただ、この静けさが少し重苦しい。香砂は障子と雨戸両方を開け、外の雑多な雰囲気と空気を呼び込んだ。
太鼓や笛、琴や琵琶の雅な音色。食器が触れ合う音。人々の笑い声。
醤油を焦がしたような、美味しい香りもしてきた。
部屋に焚き染められた爽やかな薫香の匂いが薄れていく。
(そういえば、父さんと母さん、いるんだよなぁ……)
香砂の両親は今華煉国に調査に来ている。会おうと思えば会える。でも、今は会えない。
もし息子が恐ろしいことに巻き込まれつつあると知ったら、両親はどう思うだろうか。
全力で止めるだろうか。護ろうと、調査を辞めてこの地球を去ってしまうだろうか。
泣かせてしまうだろうか、悲しませてしまうだろうか、無理に笑わせてしまうだろうか。
どんな顔を想像しても、必ず切ないことになる。そうなったら、香砂は苦しくてたまらなくなる。
〈正常呼吸〉でも、胸の痛みで上手く呼吸が出来なくなるだろう。
両親を悲しませてまで、自分が背負うことだろうか。両親を泣かせてまで、危険を冒すべきなのだろうか。
なんでも褒めて愛してくれる両親だからこそ、何も教えるべきではない。本当なら姉の連珠だって巻き込みたくはなかった。
でも、陰謀渦巻く京の、それも内裏では、誰が味方で敵なのか、正しく判断するのは難しい。
傍観者だと思っていた人物が実は間者だということだってある。
それに、他の地球の、しかも香砂と同じ周波数渡航者が関わっているかもしれないのに、この地球の人を巻き込むのは気がひける。
葦原国で唯一友人だと言える明琰にも言うことはできない。
(だから友達を増やすのは嫌いなんだ。護りたいひとが増えれば、それだけ負担も不安も増える。独りでいるのが一番なのに……)
失えば、きっと傷つく。後悔する。耐えられない。
そんなもの、最初からない方が楽に生きられるのに。
「はぁ……」
「おいおい、恩師が思案しているというのに、お前は溜息か」
「あ、す、すみません」
気づかないうちに音が漏れていたようだ。
香砂は姿勢を正し、頭に沸いては流れていく雑念を振り払うように目を閉じた。
良い考えは浮かばないが、また溜息をついてしまうよりはマシだ。
香砂は廊下から聞こえた店員の声に返事をし、茉莉花茶の入った茶器を受け取った。
翡翠色の茶器はとても美しく、温められた茶杯へ注ぐととても良い香りがした。
それを霊凰の前へと置くと、ちょうど思案を終えたのか、手に取ってさっと飲み干してしまった。
「あ、熱くないんですか?」
「大丈夫だ。で、『おそらくこういうことだろう』というものが記憶の中から見つかったぞ」
「ほ、本当ですか⁉」
「まぁな」
霊凰はもう一杯を香砂に要求すると、淹れたてをまたぐっと飲み干してから話し始めた。
「人間たちが作っている、というより、作ろうとしているのは霊薬〈仙丹〉だろう」
「仙丹って……、あの、不老不死になれるとかなんとかっていう伝説上の薬ですよね?」
「ああ、そうだ。『老いで死ぬことはない身体と魂』を手に入れられる薬だな」
「そんなもの、無いですよね……? そもそも、老いでは死なずとも、病気や怪我では死ぬのですから、意味などないような気もします。人間で病気にならないものなど……」
「かつて仙丹は人魚の生血から作られていた。もともと、人魚の肉には不死の力があるからだ。ただ、その仙丹は副作用が強くてな……。飲んですぐに霊薬の力に耐えられず身に呪を受け、常に魂を補充しなければ自我を失うという喰人鬼になってしまう者もいた。だからどの地球でも製法は封印されることになったのだ。つまり、研究は行われていないはずだった。だが、今回お前から話を聞き、もしやと思ったのだ。人魚ではなく、妖精の生体組織ならばどうだろう、とな」
「そんな……」
「妖精は古来より人間と婚姻を結んできた。別の種族との間に子をもうけられるということは、それだけ互いの身体や魂の親和性が高いということだ。一方で、人魚は人間との間に子供を作ることはできない。どうしても欲しい場合は、人魚が外法を使い、力を捨て、人間として生きる道を選ぶしか方法はない。それだけ、人魚の魂は前世の業で満たされているのだ」
「前世の業……」
「一説には、子を殺した親がその罪を償うために人魚として生まれ変わるという話があったな。他にも諸説あるが、まぁ、そういった感じだ」
「一体、誰がそんな悲しい薬を欲しがるのでしょうか……」
ここで霊凰は一呼吸置き、単刀直入に言った。
「葦原国の皇帝は息災か?」
冷たい空気が入ってきたような、そんな気がした。
背筋に汗が伝う。
「……どういう意味ですか」
「たしか、皇太子は人気が高く、とても聡明で勇敢な人物だとか。それと争っている親王の一人は表向きとても善人ぶってはいるが、裏では何をしているかわからないそうだな? もしこのまま皇帝が病気で御隠れになるようなことがあれば……。わかるだろう、香砂よ」
「陛下がご病気など、聞いたことがありません」
「そりゃぁ、市民には伏せるだろうなあ」
香砂は霊凰の言葉で察してしまった。手は動揺で冷たくなり、顔からは血の気が引いていく。
「本当にお前は賢いな」
「……もし薬のことを明善親王に問いただせば、『陛下のためだ』と言われるでしょう。そして、薬の開発を邪魔すれば、家族もろとも不敬罪で打ち首。もし薬がもたらす副作用を伝えても、無駄でしょうね。もちろん、明琰殿下は巻き込めない。父親の命と妖精族の命を天秤にかけさせるなど……わたしには出来ません」
「では、詰みか?」
「それは……」
「いいか、香砂。裏で糸を引き、明善とかいう親王を操っている奴らは、完成した薬できっと酷いことをするだろう。大勢が死に、世界は戦火に沈むような、恐ろしいことだ。それはとめるべきではないだろうか。違うか?」
「でも……」
「お前一人に背負わせたりはしない。私が愛する華煉国も巻き込まれかねんからな。それに、香砂は大事な教え子だ。手助けしたくもなろう」
「霊凰さま……」
「まずはもっとよく探ることだ。確証を得よ」
「わかりました……。もっと詳しく調べてみます」
「うむ。今日は美味いものでも奢ってやろう。明日はこの国で一番あらゆる知識が集まっている我が鳳雛閣に招待しよう」
「感謝します」
香砂はすっかり冷えてしまった茉莉花茶をすすり、ふぅと息を吐いた。
外の喧騒がまた耳に入ってくる。手足の感覚も戻ってきた。
(まだやれることはある)
香砂は机の下でそっと手を握った。
戦うと決めた気持ちが、解けないように。