第拾弐集
香砂は逃げ出した。逃げ出してしまった。
その後を寧鶴と寧燕も追ってくる。涙を流しながら。
ひどい光景だった。〈人間〉の醜悪さを目の当たりにしてしまった。
知りたくなかった。知らなければよかった。
でも、知らなければ助けることもできない。
胸が苦しい。息が上がる。それでも呼吸は止まらない。
生きろ、と言っている。妖精族のこの身体が。
今はただこの目で見たものを整理したかった。
またもう一度、立ち向かう気力を取り戻すために。
香砂の心が打ち砕かれる数時間前……。
公主の容体が戻り、主上の機嫌も直ったところで、香砂は家で寝ているところを内裏から呼び出された。
公主が父である主上に伝えたらしい。「芍薬の君の弟君のおかげでわたくしは助かったのです」と。
どうやら善行旌表が開かれようとしていたらしいが、連珠に頼んでとてもとても丁重にお断りしてもらった。
公主の命を危険にさらした本人である浩龍を勝手に見逃し、その上友達にまでなってしまったことを考えると、褒美など受け取れない。
それに、夜勤がある。今回向かうのは穢土の門。民間人の犠牲者数が最も多い地域だ。
そのため、仕事を理由に断ったところ、主上はそれを「なんと真面目で謙虚なのか!」と、大層喜んだそうで、牛車に積んだ大量の褒美を贈ってくれることになったという。
(くっそう、どっちにしろお礼を言いに後日清涼殿に行かなくちゃならないじゃないか)
政治臭の強い内裏という場所はあまり得意ではない。
しかし、そこはほぼ職場と言っても過言ではない場所。行かないわけにはいかない。
取り急ぎ、お礼の書状に後日伺うことを記し、エースに持って行ってもらった。
「仕事前に余計な心労を増やされた……。わたしはコミュニケーションに使う体力など持ち合わせていないのに。姉さんとは違うんだぞ」
香砂は再びベッドに入るもやはり眠ることはできず、結局コーヒーやカフェイン飲料などで誤魔化しながら身支度を整え、動きやすい狩衣に着替えてから夜勤へと向かった。
穢土の門付近は死霊が多く、どうせ着ていたものは帰宅後すべて燃やさなくてはならない。
少しでも穢れを払うためだ。
高価で身に着ける物も多い武官束帯は不向きの地域だ。
香砂は紫紺の空を冷えた空気を切り裂くように飛び、穢土の門近くの獣道に降り立った。
今日も軍幕が張られている。明琰は別の門を担当しているようだ。今日はいなかった。
香砂は地図で自分の配置を確認すると、すぐに向かった。
「洞窟か……」
ここはかつて水晶の採掘が盛んな地域だった。穢土の門が開かれ、妖魔に悲惨な目にあわされるまでは。
この洞窟は昼間でも妖魔が出るいわくつきの場所だ。
幾人かの知能の高い妖魔が、洞窟周辺の村に住んでいた人間を血抜きして内臓を切り分けてからから干物にし、非常食として管理しているらしい。
今でも山の中で、蹂躙されたはずの村に住んでいた人間……だった残骸が見つかる。
(……幼い子供の骨だ。骨盤かな。……骨に残る傷に血の跡があるってことは、妖魔たちは子供を生きたまま食べたのか。家畜のように繁殖させているとでもいうのか?)
妖魔たちは徐々に人間の真似を始めているようだ。
捕まえた獲物はすぐに全員を食べてしまうよりも、繁殖させた方が後々食べられる量は増える。
ただ、人間は妊娠期間が長い。それを我慢できるほど、妖魔にも理性というものがあるのだろうか。いや、芽生えたのか?
頭に浮かんでくる疑問は尽きなかったが、そんなことはどうでもいい。
もしまだ生きている人間がいるのなら、助け出ださなくては。
今日は妖魔の相手で手一杯になりそうだ。
「香砂さま、ここは私たちにおまかせください」
音もなく、近づいてきたのは寧鶴と寧燕だった。
「妖魔くらいならば、我ら兄弟でどうとでも片付けられます」
「こ、今度からは話しかける前にちょっとした挨拶とかしてもらえると、心臓に負担がなくて助かります……」
「あ、ああ! す、すみません……。つい……。鞍馬閣での癖で……。次回から気を付けます」
「ありがとうございます。では、ここの洞窟はおまかせしてもいいでしょうか。洞窟内がどのくらい深くて複雑かはわからないので、気を付けてください。罠もあるかもしれません。壊滅させずとも、中で生きている人間を助け出せればいいので、無理はしないでくださいね」
「わかりました。必ずや期待に応えます。すぐ終わるようだったら、あとから追いかけますね」
「ええ、お願いします。わたしもお二人の仲間の行方の手がかりを探してきます」
「はいっ!」
香砂はその場から離れ、武官たちの様子を見に他の現場へと向かった。
自身にオパールの蜃気楼の呪いをかけ、人間からは見られないようにした。
(おお……、魔法を使っている)
四つ目の現場で、やっとその集団を見つけた。
他の何も知らない武官たちに見られないよう、現場を離しているのだろう。
生粋の魔法使いでもそうそう漂わせない禍々しい魔力で満ちている。
あの妖魔由来の合成麻薬は、やはり良いものではなさそうだ。
(動いたぞ)
現場にいる階級の低い三名が、他の武官が倒した魔物の身体を筵に包み、どこかへと運び始めた。
きっとあの工場だろう。後をついていけば、建物内に潜入できるかもしれない。
香砂は素早く戦場を横切ると、三人の後をついていった。
三人は途中で待機していた文官風の男が用意した台車に妖魔たちの骸を乗せ、戦場へと戻っていった。
あとは文官風の男たちが運ぶらしい。
(白衣を着ている奴もいるな……。女人なのか?)
文官風の男三名に、白衣の女性が二名。どうやら、指示を出しているのは女性のようだ。
男たちは文官の装束を着てはいるが、おそらく武人だ。用心棒か何かなのかもしれない。
中継地点から二時間。あの工場へと着いた。
五人は中へと入っていく。香砂も台車の音に紛れながら、閉まる寸前の扉に滑り込んだ。
(鉄製の扉にコンクリートで出来た建物……。これ、別の文明の地球から来た奴らが建てたのかも……)
建物内には微かに消毒液の臭いと、何かべつの薬品のような臭いが交じり合い、漂っていた。
香砂は廊下を見回し、あるものを探した。
(やっぱりね。監視カメラだ。少なくとも、平均して二十世紀以降の文明がある地球から来た奴らの仕業だ)
蜃気楼の呪いは監視カメラなんかには映らない。
ただ、体温に反応するような人感センサーがついていたら困るので、なるべく監視カメラの死角を狙って建物内を歩き回った。
(清浄な匂いをかすかに感じる……)
妖精族特有の体臭、とまではいかないが、魔力の片鱗が醸す雰囲気を感じた。
(誰か来る!)
香砂は急いで人気のない部屋に入ると、ドアについている小窓から廊下を見た。
スクラブを着た人間の男女が数名、妖精の気配がする部屋へと入っていった。
先ほど見た女性二人は薬剤師だったのかもしれない。
医者は白衣を着たまま外出しない、というのを聞いたことがある。
(……廊下に気配無し。行くか)
香砂は廊下へ出ると、男女が入っていった部屋の前に立ち、扉についている窓から中を覗き見た。
(……え?)
心臓が強く脈打ち、強烈な眩暈に襲われた。
たくさんの管に、透析装置。輸液。心電図。用途がわからない機械もたくさんある。
手術台のような、無機質なベッドの上にはどの一族かはわからないが、妖精が横たわっている。
スクラブを来た男女はてきぱきと数値を確認し、妖精の身体から血を採取した。
それも、検査用などではなく、大量に。
抜いた後は輸血をし出した。
(こ、これは……ブラッドファームだ……)
血液畑は都市伝説的に魔女族の間にながれている噂で、香砂が生まれ育った地球では怪談ネタとしてしか話されることのないようなもの。
魔力のない種族――非魔法族が手っ取り早く魔法を使えるようになるためには、まず、〈血〉を魔力に慣れさせればいい。
そのために、魔女から血を抜き、非魔法族の身体に輸血するのが一番だと考えた。
実験は成功。数か月ほどで骨髄が慣れ、魔力を帯びた〈血〉を作り出すようになった。
人工魔法使いの完成だ。
ただ、骨髄が魔法の力に慣れるための輸血には大量の〈血〉が必要になる。
いちいち魔女を殺していては手間だ、ということで、魔女を捕え、その身体を〈血液製造機〉にすることを思いついたのだ。
そのころ、世間では魔女狩りが横行しており、魔女が一人や二人いなくなったところで、誰も探しはしなかった。
だから非魔法族は魔女を処刑したことにして、血液畑にし、死なない程度に血を抜き続けたのである。
(今、目の前にいる奴らは、それを……妖精族の身体、で、やろうと……しているの、か……)
この地球ならば、『血が採取できる妖精族』がいるから、他の文明の地球から採取しに来たというのか。
通常、妖精族は血を流さない。煙となって霧散してしまうからだ。
しかし、天狗族や妖狐族などの混血一族は違う。
もともとの神使や大妖怪としての力も色濃く残っているために、血液が霧散するようなことはないのだろう。
その証拠が寧鶴の義手と寧燕の声帯と舌だ。
純血、または人間との混血ならば、切り離された腕は腐りきる前に見つければくっつけることができる。
舌も声帯も簡単に再生し、話せなくなるということはない。
口の端に残っていた傷跡も、妖精族ならばきれいさっぱり消えるはず。
(それに、寧鶴の義手は金属、それも〈鉄製〉だった。〈鉄〉は大体の妖精族にとって猛毒だ)
もう見ていられなかった。生きながらに殺され続けている同胞。
血の気が引き、油断すれば倒れてしまいそうだった。
いったい、あそこに横たわっている妖精族の青年は、何体目の実験体なのだろう。
都市伝説では、数千人の魔女族が血を得るために殺され、数百人の魔女が〈血液畑〉化の実験によって殺されている。
それ以外にも、臓器移植や、四肢の移植、魔法耐性の実験、あまった生体物質の有効活用法の実験……。
吐き気がした。沸き起こった怒りと悲嘆をどうすればいいかわからなくなっていた。
香砂は走った。外に出たかった。この場にいることが出来なかった。
勢いよく外へ通じる扉を開けると、寧鶴と寧燕が待っていた。
腕や頬から血が流れている。ただの妖精族ならば、霧散するはずの〈血〉が。
香砂は何をどう話したか自分でもわからなかった。
頭がひどく混乱し、心にのしかかるものはあまりに重すぎた。
話を聞いた寧鶴と寧燕は脱力し、ただただ涙を流した。
言葉にしたわけではないけれど、三人とも気付いたら京の方へと走り出していた。
言葉にできることは、何もなかった。