第拾集
香砂がもぐりの製薬工場を見つけた日の夜、ジャスパーの強い解呪の呪いを組み込んで作った木人形のおかげで、公主は吐血が治まり、静かな安定した寝息をたてて休めるくらいにまで快復したらしい。
ただ、また巫蠱――呪術師たちが何をしてくるかわからないので、連珠はそのまま公主が住まう邸に泊まることとなった。
万が一に備え、弘徽殿には孔雀の神使である麻黄を遣わせてある。中宮にまで何かあれば、主上が怒り狂うに違いないからだ。
すでに「娘に会いに行かせろ!」と清涼殿で暴れたばかりの主上。
お目付け役の中将たちも大変だろう。
「それでさぁ、石榴。妖魔たちを攫う理由は何となくわかったんだけど、妖精族を誘拐するのはなんでなんだと思う?」
――ううん……。なんでなんだろうね? 僕の方でも調べてみるよ。アルネメティア様なら何か思いつかれるかもしれないしね。
「ありがとう! やっぱり頼りになるなぁ」
――まぁね。人間で唯一、大歓迎を受けて聖域に住んでいる身としては、これくらい朝飯前だよ。
「ああ、そうか。人間が住むには妖精族との婚姻とかいろいろ必要なんだっけ?」
――そうだよー。僕は特別ってことかな。
「当たり前じゃん! ロアは特別だよ」
――えへへへへ。
石榴は香砂の〈取り替え子〉としての兄弟である。
〈取り替え子〉とは、妖精が人間を、人間が妖精を育てることで、母親の胎内にいるときに重い病魔に侵されていたロアを救うために生まれてすぐ香砂と取り替えられ、そのまま妖精族の聖域にて暮らしながら養生を続けているのだ。
妖精族は数百年ぶりに行われた〈取り替え子〉という伝統に沸きに沸き、聖域では香砂とロアはまるでアイドルのような扱いを受けているのである。
ロアと通話を終えた香砂は、そのままベッドに倒れ込み、眠りについた。
明日は朝早くから港に向かわなくてはならない。
巫蠱たちに一級品のアステカ文明のコインを売った人物を突き止め、そこから巫蠱本人を探し出さなくてはならないからだ。
香砂には、巫蠱にもう一つ聞きたいことがあった。
(五つある太門のうちの三つ、邪水、愚者金、穢土の封印を解いたのは、きっと巫蠱たちだろう。そんじょそこらの呪術師では門に触れることすら不可能だ。陰陽術師は、閉じ方は知っていても、開け方は知らない。巫蠱しか開けられる者はいないんだ)
一体、誰に頼まれて開けたのか。金で雇われたのか。それとも、開けるよう誰かを唆したのか。
「考え出したら眠れなくなっちゃうよ……」
もともと不眠症気味だった香砂は、慶安時代の葦原国にきて本格的に眠りづらい体質になってしまった。
このことは、母しか知らない。いつだったか、深夜にキッチンでうなだれながら白湯を飲んでいるのを見つかってしまったのだ。
眠れないと、思考や不安が脳内を駆け巡り、嫌な想像が次から次へと浮かんでは消えてくれない。
自分ではコントロールができず、ただただ無理やり落ち着いた音楽を思い浮かべて消し去る努力をするしかない。
幸い、まだ外は土砂降りだ。雨の音が耳から脳に入り、思考を鈍らせてくれる。
このまま寝られますようにと、祈りながら目をつむった。
次の日、どうやら祈りは届いたようで、ぐっすりと眠ることができた。
途中で何度も起きることもなかった。きっと、雨に降られて体力を奪われていたのもよかったのだろう。
「うんと……四時か。支度してすぐ出かけなきゃな……」
香砂は身支度を整え、狩衣に着替えると、エースが用意してくれたおにぎりを食べ、お茶を一気に飲み干し、下駄を履いて外へと出た。
まだ陽が昇っていない空は紫と青が混じった澄んだ色をしている。
地平線では太陽が一筋の光になろうと上昇を始めた気配を漂わせ、雲一つない空に浮かぶのを今か今かと楽しみにしている風でもあった。
「飛んでいくか」
エースに「今日の午後から出仕するって伝えておいてくれる? 希望は夜勤で」と上司への伝言を頼み、見送られながら香砂は杖を巨大な檜扇に変え、飛び乗った。
秋の香りが濃くなってきた九月中旬。上空の空気は冷たく、頬をすべる風はとても心地いい。
しばらく飛ぶと、潮の香りがしてきた。海が朝陽の訪れに煌めき、橙色に染まっている。
「いつ見ても綺麗だなぁ……」
古代から中世の葦原国は科学力も低ければ、治安という面でも最悪だが、景色だけは本当に美しい。
高すぎる建物に空を支配されることもないし、工場から出る煙も、排出される汚水もない。
ただただ、澄み切った風景が広がっている。
「感動している場合じゃないや。さっそく、外国からの船でも見に行くか」
狙いは華煉国の荷を積んでいる船だ。
華煉国はシルクロードと呼ばれる交易路が通っており、貿易の要所でもある。
そのため、東西の珍しい品や高級品、技術や人の出入りも多く、葦原国にとっては海の向こうの国々を知るための最も大切な情報源でもあった。
香砂は木陰に降り立つと、檜扇の大きさを戻し、懐へしまった。
港町には貿易船が多数停泊し、商人や買い付けに来た人々を対象とした軽食販売の快活な声で活気があふれている。
棚にも地面に敷いた異国情緒あふれるカーペットの上にもたくさんの商品が並び、物見遊山出来ていたらつい見入ってしまいそうなものばかりだ。
香砂は目を凝らしながら呪術に関する品々を探した。
もしかすると、表には出していないだけで。船内での取引に限定されている品もあるかもしれない。
今日は狩衣だが、もっているものの中でも一番上等だが地味なものを選んできた。
貴族の坊ちゃんが変装し、お忍びで来ているような雰囲気を醸し出すために。
作戦通り、それにひっかかった商人たちが次々と声をかけてくる。
大半は「これを贈ればどんな女性も喜びますよ!」とか、「こちらの薫香はあなた様の雰囲気にぴったりですよ。文に香りを纏わせれば、どんな女性もイチコロでしょう」など、色恋を応援するものだが。
「若旦那、どういったものをお探しで?」
「そうだなぁ……。実は気になっている女性がいてね。その方の注意をひけるような、何か呪いとかないかな?」
「ほほう……。それはそれは……。予算はどのくらいで?」
「気が惹ける保証があるのなら、いくらでも出そうと思っているよ」
「ほっほう! では、ここではちょっとあれなので……。船内にいいものがございます。さぁ、どうぞこちらへ……」
見るからに怪しい男に案内され、香砂は船内へと入っていった。
おそらく、大したものは置いていないだろう。アステカのコインといった物騒なことに使う呪具を扱っているのは、大抵が一見すると普通の商人に見える奴だ。
相手に警戒心を与えない清潔感のある風貌で、笑顔はさわやか。
今目の前で「いひひひひ」と笑っている男とは正反対と言える。だが、何かしらの情報は持っているだろう。
例えば、「最高級の呪具を扱っている商人、または店を知っているか?」と聞いてみるのもいいだろう。
少しばかり怖がらせてしまうかもしれないが、それも致し方ないこと。
香砂は男がガラクタほどの価値しかない呪具を見せ始めたところで、喉に檜扇を突き付け、笑顔で先ほど思いついた質問をしてみた。
もちろん、檜扇は魔力で不気味なほどに光を放っている。
それを見れば、いくら面の皮が厚いぼったくりの商人でも、己の身の危険を察するだろう。
案の定、男は脂汗を流しながら恐怖に顔をゆがめ、情報を吐き出した。
「あああああ赤く、ぬ、塗られた、と、トウモロコシ、が、目印の、しょ、商店で、ななな、何やら、そういった、あ、あや、怪しいものが、と、取引されて、いい、いるとか、いないとか……ひぃいい!」
「へぇ、そうなんだ。ありがとうね」
香砂はニコリと微笑むと、すぐにその場を後にした。
男が身体中に焚き染めていた香の臭いがきつすぎて、頭が痛くなりそうだったのだ。
(トウモロコシってことは、マヤ文明の神様にいたよね、たしか。ううん、怪しそう)
香砂は港を歩きながら、赤いトウモロコシを掲げている店を探した。
すると、港に来た時には気づかなかった細い路地のような場所を見つけた。
なにやら誘い込まれているような気もしたが、香砂は進むことにした。
(まぁ、罠でもなんとかなるでしょ。相手は人間なんだし……多分)
香砂は細い道を進んでいった。手には杖を握りしめて。
「お探しのものはこちらですか?」
突然現れたロイヤルブルーの旗袍を来た美青年の手には、あのアステカのコインがにぎられていた。
隙がない。それに、魔力がある。ただの人間ではない。
「巫蠱に売ったのはあなたですか?」
「どちらの巫蠱でしょうか? 私は価値に見合ったものさえ頂ければ、誰にでもお売りしますからねぇ。ふふふ」
蠱惑的な笑みに、低く甘い声。細めの目は切れ長で、目尻にひかれた紅が余計に色香を増している。
「わたしにも商品を見せていただけますか?」
「もちろんです。さぁ、どうぞ」
案内された店には乾燥したトウモロコシがぶら下がっていた。
でも、あの怪しい商人の話は少し違っていたようだ。
トウモロコシにはたしかに何かが塗られているようだが、赤ではない。
いや、赤ではなくなっている、と言った方が正確だろう。
それは酸化して赤黒く変色した、何かの、誰かの血液だったからだ。