第壱集
(誰か代わってくれないかな。もう無理だよ、無理。疲れた。笑うのも優しくするのも明るくふるまうのも。なんで毎日毎日飽きもせず愛想を振りまきあわなきゃいけないの? なんで他人と同じ部屋に何時間もいなきゃいけないの? 家で仕事しちゃダメなの? 髪をこの小さい帽子みたいなのに入れるのもなんで? どうして髪切ったら出家扱いされるの? 階級によって着ていい色が決まっているのも意味わからない。それで誰が得をするんだよ)
蒸気機関による空調装置の音が響き渡る内裏。
現在、様々な儀式を行う紫宸殿にて、武官文官問わず、ある一定以上の功績を上げた者を表彰する善行旌表が行われている。
その最中、満足そうな笑みを浮かべる貴族たちを見ていると、余計に気分が落ち込んでいくような気がする。
脳みそが混乱し、感情が荒んでいく音が周りに聞こえていないか心配になるほど、香砂は鬱屈とした気分になっていった。
「ここに、桂 香砂の功績をたたえ、爵位の昇級、そして領地の拡大を……」
(領地も爵位もいらないから、賞金だけ受け取ってもう家に帰りたい。ちょっと強く生まれてきただけで、どうして『英雄』に祭り上げられなきゃならないんだ)
香砂は心情とは裏腹に、太陽のような暖かな笑顔を浮かべ、恭しく頭を下げると、書状と瑪瑙や水晶などの鉱物を板状に成形して作られる鍵板と呼ばれる爵位証明を受け取り、優雅な所作で席へと戻っていった。
「次の功労者は、氷川 信之……」
香砂の次に名前を呼ばれたのは、葦原国にある一番大きな寺院に属する僧兵の部隊長だ。
今回の戦いで右足を失ったらしいが、その身を挺して仲間――有力貴族の次男坊を護ったらしく、それを讃えられるようだ。
香砂は張り付けたような柔和な笑顔を保ちながら、その後も呼ばれ続ける功労者たちに拍手を送り、周囲から向けられる好意的な視線に笑顔で応え続けた。
およそ二時間におよんだ拷問のような善行旌表。
その後に行われる三時間以上かかる饗宴という名の煌びやかな自慢大会は、「体調を崩した家族が待っておりますので」と断った。
(また姉さんに怒られるな……)
香砂に病弱な家族などいない。家族全員が驚異的な健康状態を保ちながら楽しそうに生きている。
時代が違えば、姉が英雄になっていたかもしれない。
そうすれば、自分はのんびり生きられたのに、と、香砂は実家に帰るたびに毎回思う。
「人間と話さなくていい仕事につきたい」
香砂は直衣の袖にゆらりと触れる長月の夜風に目を細め、周りに誰もいないことを確認すると、盛大に溜息をついた。
口には出せないような鬱屈とした感情が、気持ちのいい夜空に溶けて消えていく。
(お見合いしたくないっていう理由だけで戦地に行っただけなのに……。たった一年で英雄に仕立て上げられた。毎回毎回毎回毎回殺したくもない、何の恨みもない相手を切り裂いて返り血にまみれて貴族の坊ちゃんたちの悲鳴を聞かされて……。戦えないなら戦場になんてくるなよな。出家でもして悠々自適に暮らせよ。わたしの邪魔をしないでくれ。お前らを護りながら戦うせいで時間がかかるんだよ。わたしは一刻も早く家に帰りたいのに。なんだったら家から出るのすら嫌なのに。ああ、もう全部捨てて実家のふわふわな布団の中で一生を過ごしたい)
顔にも声にも出さず、頭の中にぐるぐるとあれこれ恨み言を浮かべていると、いつの間にか実家についていた。
門を開け、中に入り、玄関までの長くはない道を歩く。
少しだけ、気分がよくなってきた。
「……あ、香砂じゃん」
「姉さん……」
美しい五衣唐衣裳という装束を身にまとった姉が、庭で巨大な梓鹿を宙に浮かせた包丁で綺麗にさばいている。
「あらあら、疲れた顔。今日は鍋だから、座って待ってなさい」
「うん。わかった」
香砂は次々に細切れにされていく梓鹿を横目に、家の中へと入っていった。
桂家は周波数渡航者という、魔法使いの一族の一つだ。
この世界には、別の銀河の全く違う時代の流れを持つ地球から、学術的、考古学的探索を理由に異界行をする魔法使いというのが一定数存在する。
その渡航先として人気があるのが現在において古代から中世の文明レベルの地球。
その中でも桂家が選んだのは、最も文化が入り乱れ、華やかさとその陰が同居する混沌とした慶安時代の葦原国だった。
他の地球で過去に栄えた日本国や扶桑国の平安時代とは違い、香砂たちが住んでいる地球の葦原国は、蒸気機関を含めた、諸外国から持ち込まれた文化、文明のみならず、人間以外の〈何か〉がもたらした〈摩訶不思議〉なものが数多く目撃されている。
その理由や、〈摩訶不思議〉を調査するために、桂家はここに移り住んだのだった。
「ただいま……ああ、そうか。父さんと母さんは昨日から華煉国あたりに調査しに行ってるんだった」
表向き寝殿造りの家の中はよく風の魔法が効いており、とても過ごしやすい温度に保たれている。
「おかえりなさいませ香砂さまぁ」
「ああ、ただいまエース」
単眼妖精猫のエースは父の使い魔だ。戦国真っただ中の華煉国は危険なため、連れて行ってもらえなかったのだろう。
「エースはお留守番なんだね」
「そうですぅ。香砂さまを朝ちゃんと起こすようにと仰せつかっておりますぅ」
「それなら姉さんだって朝起きてこないだろう」
「連珠さまはこの地球のこの時代では桂家のお姫様なのでよいのです。それに、今は宿下がり中。弘徽殿へお仕事にお戻りになるのは一週間後ですからねぇ」
「ぐぬぬ……」
姉、連珠は、葦原国皇帝の妻たちが住まう後宮の中でもひと際格式高い弘徽殿で、中宮を支える女房をしている。今宿下がりしているのは、香砂がどうしても戦場から戻りたくて姉に連絡したところ、「じゃぁ、体調崩したことにしてあげるわ」と、一芝居打ってくれたからなのである。
「文句言えないや」
現在、慶安の都は四方八方からやってくる妖魔の軍勢のせいで、戦国時代並みにあちこちで小競り合いが起きている。
もともとそこまで平和な時代ではないが、そこに妖魔との戦争が加わってしまっていることで、混沌がさらに闇を生み、いくつかある都はどこも油断ならない状態に陥っているのだ。
香砂は常々役人に「都ではなく集落に住んでいる庶民の竪穴式住居を全部長屋に建て直した方が護りやすい」と進言しているのだが、今のところ聞き入れられていない。
役人たちは塀の中の暮らしを守るので精一杯なのだ。
貴族第一なのだろう。庶民やそれより下に位置する人々の生活にまで気が回らない、というか、気を回したくないといった様子だ。
「うちも最初は庶民だったのに……」
桂家は移り住んできた当初は〈民間陰陽術師〉として細々と働いていたのだが、その力が評判となり、父と母はあれよあれよといううちに朝廷に重用され、気づけば貴族の仲間入りを果たしていた。
連珠はお見合いを避けるために弘徽殿の中宮付きの女房兼陰陽術師として働き始め、次に目をつけられた香砂も早すぎる結婚を避けるため、戦場へと赴くことになった、というのが一年前。
連珠は現在十七歳、香砂は十五歳。
生まれ育った地球での結婚適齢期には程遠い年齢だ。
「香砂さま、なんだかお香臭いですよぉ。お風呂に入られてはいかがですぅ? ごはんは珍しく連珠さまが作ってくださいますのでぇ」
「そんなに臭う? まぁ、占いに頼って五日に一度くらいしかお風呂に入らないような人たちと何時間も同じ場所にいたらそうなるよ。ほんと、お香で誤魔化すのやめてほしいよね」
「あららぁ、お口が悪いですよ」
「おっと、家だから油断してた。じゃぁ、お風呂入ってくる」
香砂は自身の束帯についた雅なにおいをクンクンと嗅ぎながら風呂場へと向かった。
家の見かけは寝殿造りではあるが、中はまるきり違う。
リビング、ダイニング、バスルームにトイレ、キッチンやパントリー、そしてそれぞれの部屋。
床はフローリングで、ワックスもちゃんとかかっている。
来客用に東側に少しだけ寝殿造りの部屋を用意してあるだけで、他はまるきり元居たはるかに進んだ文明の地球のもの。
お風呂も毎日入るし、トイレは魔法で水洗仕様。
光源も油を使った灯篭ではなく、光の魔法や火の魔法によるランプだ。
洗濯は全自動洗濯機を魔法で動かしている。
蒸気機関は使用していないため、家の中はとても静かだ。
そのため、香砂は香をたく必要がなく、ほぼ無臭。よく他の貴族たちから『あまり香には詳しくない素朴な青年』だと思われている。
本当なら面白みのない奴だと揶揄されるのだろうが、そこは戦場での活躍によって帳消しになっているようだ。
宮廷の女房達からの評判も良い。「少し陽に灼けた肌に大きな黒い瞳。桜色の可愛い唇から聞こえてくる桃のような甘くさわやかな声が堪らない」「他の武官と違ってちょっと華奢なのが美男子って感じで最高」などと言われている。本人はまったく気づいていないが。
香砂は羽林という最も格式の高い武官組織に所属しており、軍事警察組織の花形である。
平時は近衛として主上の側近くに控え、歌や舞などに興じる役職でもあるのだが、妖魔による攻撃の激化により、今は実働部隊として大内裏の外まで出て戦うことが多い。
内裏の内側では賀茂一門の陰陽術師たちが常に祈祷や呪詛返しで対応し、主上の御在所である清涼殿や、中宮たちが住む弘徽殿、承香殿、飛香舎などを守護している。
今夜もまだ仕事が残っている。「芍薬の君 (連珠の女房時の呼び名)の体調を確認したら、申し訳ないのだが出仕をお願いしたい」と頼まれてしまったのだ。
あのとおり、姉はピンピンしている。香砂はさすがに上司に申し訳がないと感じ、夜警につくことにしたのだった。
「あぁあ……。もっとこう……他人と接しなくても生きていけるような、便利な時代と場所に住みたいなぁ……」
香砂が外面を保ち続けるのは、すべて家族のためだ。
朝廷のみならず市井からも評判のいい両親。中宮である弘徽殿の女御からの信頼厚い姉。
両親の考古学的調査が終わるまで、あと数年は慶安時代の葦原国を拠点に生活する予定だ。
香砂は脱衣所にて慣れた手つきで束帯を脱ぎ、洗濯籠に放り投げると、鏡に映る傷一つない自分の身体を見て、そっと溜息をついた。