2.追憶
部屋の中は、落ち着いた調度でまとめられていた。
ほんのりピンクがかったクリーム色の壁紙にカーテンは可愛らしい小花があしらわれた淡いオレンジ色。木の温もりのある家具。
少女の頃、こんな部屋にしたいなとリンディが思い描いたような部屋そのものだった。
ルンダール辺境伯はリンディを応接間にあるソファへとエスコートした。淡いピンクのラインの中に細かい花があしらわれたクリーム色の生地のソファは肌触りもよく、座り心地もよいものだ。無意識にリンディはソファの生地に手を這わせ、その肌触りを堪能していた。頬はほんのりと赤味がさし、幸せそうに目を細めた。ルンダール辺境伯が息をつめて口元を手で覆いながら、じっと見つめていることに、リンディは気が付いていなかった。
開いたままの扉を形式上ノックして、女性が二人部屋へと入ってきた。一人はお茶やお菓子の載ったワゴンを押してきている。年配の女性とリンディより年上と思われる女性だ。リンディの視線に気づくと、二人はにこりと微笑み、お辞儀をした。
「こちらは我が家の侍女頭のカーラです。」
ルンダール辺境伯の紹介で年配の女性がもう一度お辞儀をして挨拶をする。
「リンディ様、ルンダールへいらっしゃるのをお待ちしておりました。ご不自由がないよう仕えさせて頂きますので、何なりとお申し付けください。そして、こちらのエルマは、今後、リンディ様付きとなる侍女です。」
もう一人の女性、エルマがぱぁっと満面の笑顔でお辞儀をする。
「エルマと申します。リンディ様が過ごしやすいよう、精いっぱい務めさせていただきますので、気が付いたことなどありましたら何でもお話しくださいませ。
長旅でお疲れのようですので、お茶のご用意をさせていただき、一旦下がっておりますね。何か御用がありましたら、そちらのベルでお呼びくださいませ。」
エルマがお茶の用意を始めると、カーラがルンダール辺境伯も退室するように促した。「私はもう少しここに・・・。」といいかけたルンダール辺境伯を「旦那様がいらっしゃったら先ほどと同じではありませんか。リンディ様の気が休まりませんので、速やかにご退室を。」とぴしゃりと言い切った。未練たっぷりだが、しぶしぶという感じで、ルンダール辺境伯は辞去していった。
二人をぽかんと見つめていたリンディは、二人が立ち去った後、先ほどのやり取りを思い出して微かに笑みを浮かべた。エルマが躊躇いがちにリンディへと話しかけた。
「カーラ、・・・母は旦那様の乳母をしておりまして、ついついあのような感じになってしまいまして。ご不快ではございませんか?」
「まぁ。エルマとカーラは親子だったのね。では、ここには長くいるかしら。分からないことが多いと思うので、色々教えてくださいね。
・・・先ほどは、とても微笑ましくて、羨ましいと思っただけなので、不快なんてとんでもない。・・・・本当に羨ましいです。」
リンディの脳裏に母の真っ赤な唇が思い浮かぶ。本当の母ですら、リンディが『買われた』ことを喜ぶカスティナ家に比べたら、なんと、温かい環境であることか。エルマは安堵の溜息を漏らした。
「私たちは家族全員、こちらでお世話になっているのです。父は執事長をさせていただいており、兄は旦那様の乳兄弟になるのですが、旦那様の補佐をしております。」
エルマの兄という言葉で、リンディは自身の兄であるヨハンの顔が思い浮かんできた。兄の下卑た笑い顔が。
リンディはぷるりと体を震わせると軽く目を閉じた。エルマはリンディの様子を長旅による疲れだと思ったようで、お茶の準備を終えると、静かに部屋を出て行った。
カスティナ家の跡取りであるヨハンは、父の商才のなさと母の見栄っ張りなところを受け継いだ男であった。ルンダール辺境伯と比べてしまうと色あせて見えるが、それなりに整った顔であることから、女性との噂が絶えなかった。リンディとは性格も合わず、そのため、成長するにつれ、リンディは兄とは関わりをもたなくなっていった。
父からルンダール辺境伯からの求婚話をされた翌日の朝、リンディがいつものように手入れのために庭に出ようとすると、ちょうど兄が帰ってきた。お酒と香水の匂いがすることから、何をしていたのかは言わずもがなである。
普段であれば目線も合わせない兄がリンディを見遣ると、にやにやと下卑た笑いを浮かべて近寄ってきた。
「結婚が決まったようだな。我が家で今、金になる『もの』はお前くらいだからな。今までの役立たず振りを挽回できるくらいには、役目を果たしてくれて、みんな大喜びだ。
もともとは、ドーウェン家に売り払う予定だったんだが、更に高値でルンダール辺境伯が名乗りを上げてきたんだから、驚きだったぜ。おかげで借金もチャラになりそうだし、父さん諸手を挙げてお前を売り払ったよ。しかし、お前、どこであんな大物釣りあげたんだ。まぁ、どこでもいいがな、金が手に入るなら。」
リンディの肩をぽんぽんと叩きながら、「せいぜい金を返せと言われないようにあっちでもうまくやってくれよ。」と耳元でささやき、兄は自分の部屋へと歩いて行った。
父の喜色満面の顔、母の赤い唇、兄の下卑た笑い顔、それらがぐるぐると頭の中を巡り、リンディは気分が悪くなってきた。
ふと目線を上げると、エルマが準備したお茶とお菓子が目に入った。そっとカップを持ち上げると、ふんわりと甘い香りがした。こくりと一口だけお茶を口に含むと、程よい温かさで、体だけではなく、心もほんのりと温かくなるような気がした。
ここは、カスティナ家ではなく、ルンダール辺境伯領だ。リンディを『もの』としてしか見ていない家族はいない。ルンダール辺境伯をはじめ、カーラ、エルマからも歓迎された、あの幸せを感じた瞬間をかみしめ、嫌な記憶から塗り替えようと心に決めた。
部屋の掃き出し窓から入る日差しが陰りだした頃、遠慮がちに扉をノックする音がした。
「エルマです。少しよろしいでしょうか。」との声に、リンディは部屋に入る許可を出す。
「リンディ様。もしよろしければ、体を流してからお召し替えをしませんか?お嫌でなければ、マッサージもさせてくださいませ。私、マッサージ得意なのです!きっとお疲れも吹き飛びますよ!!」
エルマのにこにこした笑い顔がリンディの枯れかけた心に優しさを染みこませていく。こんなにも優しい人達となら、きっと、私も幸せになれるかもしれないと思うと、リンディの目尻に嬉しい涙がにじんだ。エルマに気付かれないように、そっと目尻を拭うと、「ありがとう、お願いします。」とリンディは花がほころぶように微笑んだ。
――――――――――その夜のルンダール辺境伯の執務室
ルンダール辺境伯であるアレンは手に決裁前の書類を持ち、執務机に向かっていた。その横には補佐である乳兄弟のミスタ、前には侍女のエルマ、扉近くには侍女長のカーラと執事長のマルクが控えていた。
アレンは微かに眉根を寄せると、書類を持っていないほうの手で机をダンっと叩いた。
「リンディが可愛すぎて食事の味が全く分からなかった・・・・」
「安定の変態ぶりで、逆に安心しますが、リンディ様の前ではちゃんと体面を保ってくださいよ。今の状態でぼろが出ると、間違いなくリンディ様にひかれます。」
やれやれと両手を天に向けながら、ミスタが呆れた目を向ける。「書類読む気がないなら、紛らわしく持つのはやめて欲しいものです。」とチクリと刺すことも忘れない。
「そうですよ。旦那様のそれ、もしかしたら、リンディ様、気が付いているかもしれません。だって、旦那様が退室された後、リンディ様、ちょっとおびえた感じがありましたから。私に見えないようにしてたみたいですけど、目元に涙も浮かんでました。きっと、何か感じたんですよ。そうに違いありません。旦那様は、お顔だけはいいのですから、ぼろが出る前に好印象をたくさん持っていただかないと!」
ぐっと握った手を高く持ち上げるエルマを見て、アレンは更に眉根を寄せる。
「涙を浮かべていたのか・・・・・。そうだ、今から部屋に行って話を聞くのはどうだろうか?」
「おやめください。」「嫌われますよ。」「鬱陶しいです。」「変態。」と四方八方から声が飛ぶ。
「では、どうしたらよいのだ・・・・。あんなにも可憐なリンディが今この時も、悲しみに打ち震えているのではないかと考えると、・・・・くぅ、居ても立っても居られないのだ。」
「ここは、私にお任せください。リンディ様に『色々教えてくださいね。』と言われたのはこの私ですからね。
リンディ様を逃したら、あんなに可愛らしい辺境伯夫人なんて、もう二度と迎えることができないですからね。旦那様と辺境伯領のいいところをがっつりお聞かせします。」
エルマが自身の胸をトンっと叩いて、自信満々に断言した。
「エルマだけ・・・。私だってもっとリンディと一緒にいたいのに。」とぶつぶつ呟くアレンをミスタは生ぬるい目で見つめていた。カーラは手で顔を覆っていた。
マルクが漏らしたかすかな溜息は執務室の喧騒に紛れていった。