82 『真眼』の魔法使い
「ああ、そっか。ヴィーと最後に会ったのはヴィーがまだ一歳くらいの時だったし、それに見た目だってその時とは違うからわかるわけないよな」
男は先程までの困惑したような顔ではなく、優しく朗らかな印象を持つ表情になり、ははっと笑う。その笑い方が、誰かに似ている。
「おーい、マグー? マグちゃん? いるー?」
男は今自分が上がってきた四角い穴に向かって誰かを呼んでいる。
「とにかくこんな所で話をするのも何だし、ヴィーも下に降りておいで」
階下に繋がっているらしき梯子を降りながら、男が手招きしてヴィクトリアにも来るように促す。
ヴィクトリアはその気安い態度と優しい声音に戸惑った。彼にしてみれば突然自宅の屋根裏部屋に現れた不審者だろうに、警戒されるどころかむしろ歓迎されているらしい。
「マグちゃーん?」
男は完全に下の部屋に降りて誰かを探しに行ってしまった。男の正体はわからないままだが、悪い人ではなさそうだ。ヴィクトリアは彼の言う通り下の部屋に行くことにした。
梯子に足をかける前に、ヴィクトリアは背後を振り返った。
ナディアは、まだ来ない。
男を追ってヴィクトリアは一階まで降りてきていた。二階建ての家は二階が居住用で、一階の一部が小さな診療施設になっているようだった。
一階まで来る途中で見た窓の向こうには小麦畑や牧場といったのどかな景色が広がっていて、民家はちらほらと点在しているだけだった。
「ありゃー、こりゃまたえらい別嬪さんじゃのう。新しい看護師さんかい?」
男の匂いを辿り目の前の扉を開けると、白い壁に囲まれた診察室らしき部屋で、杖を持った一人の白髪の老人が診察用の椅子に座っているのに出くわした。
「クロさんにいつもの薬を出してくれと言ってくれんかのう? あの人話も聞かずにどこかへ行ってしまって、戻って来たと思ったらまたどこかに行ってしまったんだよ」
「クロさん?」
「クロムウェルだからクロさん」
(ああ、なるほど)
「マグさんを探しに外に行ったみたいだから連れてきてくれんかの? 儂は足が痛くて追いかけられん」
「マグさん?」
「奥さんのマリアさんのことじゃ。クロさんがマグさんって呼ぶからこの村じゃみんなそう呼んどるよ」
(マリアの愛称ならミアとかマリとかマリーとかだと思うのに、少し変わった愛称ね)
「この医院の手伝いはいつもマグさんだけでなあ。誰か雇った方がいいっていつも言っとったんだけど、前の人が辞めてから誰も雇わなくて心配しとったんだよ。新しい看護師さんが来てくれてよかったよかった。こんな田舎によく来てくれたなあ」
「いえ、私は看護師さんじゃ……」
否定しようとすると、ヴィクトリアが部屋に入ったのとは反対側の扉が開いた。
現れたのは「クロさん」ことロイ・クロムウェルと、それから横にいるのは、金色の長い髪に茶色の瞳をした二十歳前後くらいの女性だった。
女性はロイと同様に顔の造りは平均的な容貌をしており、髪や目の色以外にこれといった特徴は見当たらない。一目見ただけなら数歩歩けば忘れてしまいそうな容姿をしている。
ただ、女性の瞳の奥は凪いでいて、どことなく何かを達観したような雰囲気があった。
(おそらく彼女がロイの妻の「マグさん」だろう。つまりは、彼女がナディアの言っていた魔法使い……)
彼女は腕に二、三歳くらいの女の子を抱いていた。
女の子は金髪に黒い瞳をしていてとても美しい子供だった。
「カルロさん、待たせて悪かったな。その子は看護師さんじゃないよ。俺の親戚の子だ。ヴィーもいきなりほったらかして悪かったな。俺はまだ仕事があるから、しばらく彼女と一緒にいてくれないか?」
ロイはそう言って隣の女性の肩に手を置いた。二人の間には親密そうな空気感が漂っていた。
女性は現れた時から冷静さを保ったまま表情を変えずにじっとヴィクトリアを見ている。
「こちらは俺の奥さんで、名前はマグ…… マリアだ。マグって呼んでやって。こっちは娘のカナリアだ。俺たちはカナって呼んでる」
ロイは家族を紹介しながらこちらに微笑みかけてきたが、ヴィクトリアを見つめるその瞳に少し戸惑いの色が見えたのが気になった。
ヴィクトリアはマリアに案内されて二階のリビングまで来ていた。
ヴィクトリアは聞きたいことがたくさんあったので、移動の途中で彼女に話しかけようとしたが、マリアは口を開きかけたヴィクトリアの唇に人差し指を押し当てて黙らせてしまった。
「誰かに聞かれるとまずい話が色々あるから、周りに誰もいない所に行ってからにしましょう」
ヴィクトリアが話そうとするのをやめた後もマリアは指でぷにぷにとヴィクトリアの唇の感触を確かめている。
何だろうと小首を傾げながら瞬きをしているヴィクトリアを見たマリアは、ふふふ、と妖しく笑ってから指を離した。
ヴィクトリアは促されてリビングにあったテーブルの椅子に座った。すると、隣の椅子を引いてカナリアが椅子によじ登ってくる。椅子に座ることに成功したカナリアはヴィクトリアを見てニコニコと笑っていた。
「お姉ちゃんすごく綺麗。お姫さまみたい」
ホットミルクを入れたカップをヴィクトリアの前に置きながら、それを聞いていたマリアが笑っている。
「あらあら、懐かれたわね。この子は美人が好きなのよ。誰に似たのかしら」
そう言いながらマリアはカナリアの身体を椅子から抱き上げると、少し離れた子供用の小さなテーブルの椅子に座らせた。
「ママはお姉ちゃんと大事な話があるから、カナはお絵描きやお遊びをして少し待っていてくれる?」
「うん!」
カナリアは素直に頷くと、テーブルの上にあったクレヨンを掴んで白い紙に絵を描き始めた。
マリアはヴィクトリアの正面の椅子に座った。
「ナディアからどこまで聞いてる?」
そう言いながらマリアは湯気の立つカップを手にして中のお茶を一口飲んだ。ヴィクトリアに用意した飲み物とマリアが自分用に用意した飲み物は中身が違う。
おそらくマリアはヴィクトリアが獣人であることを承知しているのだろう。
「あなたたち夫妻が以前ナディアを助けたということと、あなたが魔法使いであること。それから魔法使いのことは他言無用であること。あなたたちの命がかかっているからと。それくらいだわ」
ヴィクトリアの言葉を受けてマリアは大きく頷いた。
「そうね。私が魔法使いであることは誰にも言わないでいてほしいの。私たち家族は私が魔法――――『真眼』という特殊能力を持っているせいで、以前殺されそうになったことがあるから」
「誰に?」
その問いかけに、マリアはすぐには答えなかった。視線を落とし何かを考え込む様子のマリアは、慎重に言葉を選ぶかのように少しの間を置いてから話し出した。
「言えないの。私とロイはある禁呪――古の魔法使いたちが禁断魔法と呼んでいた、術者が禁じた行為を行うと死んでしまう魔法がかけられているの。
禁を破れば私たちだけではなく術者までも死ぬようないわく付きの魔法よ。魔法じゃなくて呪いって言った方がいいかもしれないけど。
私とロイのどちらか一方でも相手のことを誰かに話したら私たちは死ぬ。
呪いにかかっているから話せないことがあると伝えること自体は大丈夫みたいだけど、詳しいことは何も教えてあげられないの。ごめんなさい」
「それは…… 大変な目に遭ったのね」
ヴィクトリアは子供まで儲けて幸せそうなこの夫妻がそんなものを背負っていたことに驚く。それから、禁断魔法という存在にも。
里にいたころ何冊か魔法書に触れたことはあるが、禁断魔法というものがあることは今知った。
「話せる範囲で構わないのだけど、魔法使いというのは世の中にたくさんいるの?」
銃騎士隊が抱えている魔法使いの規模がヴィクトリアは気になっていた。
「魔法使いなんて存在するはずがないというのがこの世界の常識だけど、それは間違い。私のような存在は確実にいるわ。
だけどそのことが広まらないのは魔法使いの数が極端に少ないからなのよ。存在を隠そうと思えば隠し通せて、秘密が広まることがないくらいには少ない」
ヴィクトリアは銃騎士隊に所属している魔法使いは最低五人はいるだろうと推測していたが、もしかしたらそれが最大値なのかもしれない。
「大昔は魔法使いの存在も広く認知されていたらしいけどね。彼らは次第に自分たちの存在を隠すようになっていったみたい。
魔法使いの素養は遺伝するようだけど、魔力が発現しないまま終わる者の方が圧倒的よ。魔法使いの力が使えることは奇跡に近いわ。
私も実家の家族で魔法が使えたのは私以外誰もいないし、ご先祖様にそんな人がいたという話も聞かない。ただ、ご先祖様の方は隠していたということも考えられるけど」
マリアはそう言って、絵を描いているカナリアを指差した。
「カナの絵を見て」
カナリアを見ると、彼女はこちらを向いていた。視線が合うと彼女はまたニコニコと嬉しそうに笑った。
カナリアは白い紙に二人の人物を書いていた。丸と線を繋いだだけの拙い絵だが、人を描いているのはわかる。
「カナ、誰を描いているの?」
「こっちがママで、こっちがお姉ちゃん」
マリアが尋ねると、カナリアは黒いクレヨンで髪の毛と目を描いた人物をママだと指し、灰色のクレヨンで髪の毛を描き、水色のクレヨンで目を描いた人物の絵をヴィクトリアだと言って指した。
「私の今の姿は姿変えの魔法で本当の姿ではないの。だけどあの子は…… 『真眼』の力を受け継いでしまったあの子には、私の本来の姿が見えているのよ。
私は本当は黒髪に黒眼なの。『真眼』はまやかしを打ち破って真実を見極められる魔法使いの能力の一つよ。
普通、魔法は先に発動した力の方が優先で、後から術者以外がその魔法を無効化することはできない。でも『真眼』は全ての真実を見抜くことができる。
『真眼』の力を持っているのは世界でおそらく私とカナだけ。カナは『真眼』以外の魔法はまだ使えないけれど、そのうち使えるようになってしまうでしょうね」
マリアは魔法なんて使えない方がいいというような口振りだった。
「魔力なんて滅多には発現しないのだけれど、私とロイの組み合わせだと子供に魔力が宿りやすいのかもしれないわ。一人しかいないからまだ何とも言えないけど」
「そうなのね」
「……ねえ、ロイと会って、何か感じることはない?」
今度はヴィクトリアが逆に尋ねられたが、マグノリアの質問の意図が、ヴィクトリアはわからない。
「ロイって彼の本当の名前じゃないのよ。私たちは二人とも偽名を使っているの。彼の本当の名前は、ロータス」
その名を聞いてヴィクトリアははっとした。ロータスという名前に聞き覚えがあったからだ。
脳裏に浮かぶのは赤髪の少年。
ロータスは、リュージュの育ての兄だ。