80 籠城からの脱出
「ヴィクトリア! いるんだろう?! 出てきてくれ!」
レインの声と玄関の扉を叩く音、それから扉に体当たりをするような音まで聞こえてくるが、扉は開かない。
なぜならナディアが寝台やテーブルを玄関前に移動させて、その重さで扉が簡単には開かないようにしてしまったからだ。寝台は扉を覆い隠すように立てられるという本来の役目を成さないようなおかしな向きに置かれ、次にテーブルが続いてその上に重厚感のある鏡台が乗せられていた。
ナディアに説得されてとりあえずこの場はレインから逃げることにしたヴィクトリアだったが、いざ逃げようとするとなぜかナディアに止められた。
「昨日追いかけてきた人数より規模が多い。あれを巻くのは結構大変よ。私に考えがあるわ」
ナディアはそう言って玄関近くにバリケードを築いていったのだった。鏡台の次に手をかけたのは本棚だったが、ナディアはそれを持ち上げると玄関先には持って行かずに少し離れた床の上に置いた。
「これは……!」
ヴィクトリアは驚く。大きめの本棚が退かされた床の上に、赤いインクで幾何学模様のような絵が描かれていた。昔読んだ魔術書に、似たような絵が載っていたことを思い出す。これは魔法陣だ。おそらく転移用の。
「こんなことになるなんて思ってなかったからさっきは言ってなかったけど、ほら、私を助けてくれた闇医者夫婦がいたって話をしたでしょ? 実はその奥さんの方が魔法使いだったのよ。でも彼らも命がかかっているから、そのことは秘密にしておいてね」
ヴィクトリアは先程のナディアの話を思い出す。ナディアは首都から逃げ出した後にとある医師とその妻に保護され、この街に来る前までそこで匿われて静養していたらしい。医師の名はロイ・クロムウェル。妻はマリアだ。
ナディアは、闇医者――医師免許を持たずに医療行為をしている――と言っていたけど、『信用できる人たちだから、姉様も何か困ったことがあったら頼って』と言っていた。
「この魔法陣の先が彼らの家の屋根裏部屋に繋がっているの」
その魔法使いの女性はナディアを心配して一度訪ねて来たことがあり、その時に、『もしもの時はこれを使って逃げて来なさい』と言ってこの魔法陣を描いていったそうだ。
魔法陣があれば魔法使い以外の者でも転移魔法を使用できたはずだが、必要なものがあったはずだ。
「ええと、アレはどこにしまっておいたっけ……?」
ナディアは家具が大きく移動した部屋の中で何かを探し始めた。その間も玄関の扉の外からヴィクトリアを呼ぶレインの声がする。
「ヴィクトリア! ここを開けてくれないか! 昨日のことなら俺が悪かった! 土下座でも何でもするから許してくれ! 何度でも謝る! 土下座し倒す! とにかく俺は君に会いたいんだ! 君と話がしたいんだ! 一目でいいから君の姿を見せてくれ!」
「レイン……」
ヴィクトリアはレインの必死な声に吸い寄せられるかのようにふらふらと玄関に近付く。
「あったわ!」
キッチンの戸棚の奥の方で目的のものを発見したナディアがそれを引っ張り出したが、笑顔で振り返った彼女は視界に入った光景にぎょっとして目を丸くした。
「えーっ! ちょ、ちょっと待って!」
見れば、何とヴィクトリアがテーブルの上に乗っていたはずの鏡台を退かしていた。扉を押さえていた重りが軽くなり、ドン、ドン、と押された扉が内側に開きかける。
慌てたナディアがバリケードに近寄ってテーブルを掴み、ぐぐぐ、と押し返した。
しかしどこから持ってきたのか、わずかに開いた隙間には既にバールのようなものが差し込まれており、扉は完全には閉じなくなってしまった。
「ね・え・さ・ま!」
ナディアにくわっと怒りの形相を向けられてヴィクトリアはハッとした。いけない! ついレインに会いたい一心で気付いたらバリケードを崩していた! ナディアに怒られる!
ヴィクトリアは鏡台を元の場所に戻した。
ヴィクトリアもナディアと一緒に鏡台が乗ったテーブル押すと、ガタついていた扉はピタリと動かなくなった。
「なぜだヴィクトリア! なぜ俺を拒む?! 俺たちの気持ちは一つのはずだろう?! 愛しているんだヴィクトリア! 君は俺の運命だ! 俺の全てをかけて君を愛し抜く! 俺は何があっても絶対に諦めない!」
ドン、ドン、と扉を押す音が先程よりも強くなる。ヴィクトリアは他の人が聞いているのに愛してるとか運命だとか叫ぶのは恥ずかしいからやめてほしいと思った。
ヴィクトリアはナディアに手を引かれてバリケードから離れた。
「ごめんねナディア……」
「『番の呪い』でおかしくなってるからしょうがないわ。とにかく早く逃げましょう」
ナディアは魔法陣の前に立つと、探していたアレ――紋様のような文字が書かれた紙札を一枚、ヴィクトリアに手渡した。札を持ったまま魔法陣の中に入れば転移できるが、魔法陣は人が一人入れるほどの大きさしかないため、一度に一人しか転移出来ない。
「後から私もすぐに行くから」
「わかったわ」
ヴィクトリアは頷いて足を踏み出そうとした、が――――
「ヴィクトリア!」
レインの声がする。ヴィクトリアの身体の動きが止まってしまった。ヴィクトリアは悲しそうな顔で玄関の方を向いた。
「姉様……」
ナディアもまた、悲しそうな顔をしていた。
ヴィクトリアは一つ頭を振った。
「大丈夫よ。行くわね」
これで永遠に別れるわけじゃない。自分の気持ちを整理して、覚悟を決めて、またレイン会いに行こう。
決意を新たに魔法陣の中に足を踏み入れた。しかし――――
「……」
「……」
何も起こらない。
「……え? 嘘? 何で?」
ナディアが慌て始める。もう一回やってみてと言われたので、一度魔法陣から出て入り直してみたが何も起こらない。新しい札で試したり、代わりにナディアが入ってみたりしたがやはり何も起こらなかった。
「もしかして…… 札の魔力が消えちゃったのかもしれないわ」
ナディアが青褪めている。
ヴィクトリアも昔読んだ魔術書の中に、札――つまり魔法使いの依り代は、時間と共に魔力が抜けて使えなくなってしまうという記述があったことを思い出す。
「しまった……! 完全に危機意識が下がってたわ……! しばらくすると魔力が抜けて使えなくなるから、定期的に帰省して新しいの貰いに来てって言われてたけど、忙しくてすっかり忘れてた……!」
ナディアは頭を抱えてその場に蹲ると自己嫌悪からなのか唸り始めた。ヴィクトリアはナディアの背中にそっと手を置く。
「ナディア…… 大丈夫よ。今度は私が囮になるから、ナディアはその隙に逃げて。
私は捕まってレインの奴隷になっても構わないから」
「そんなの駄目よ!」
ナディアはガバッと立ち上がった。椅子の上に置いていた残りの札の束を掴むと、その全てをヴィクトリアに握らせた。
「姉様、これ全部で試してみて」
「え?」
「魔力が抜けたって言ってもまだちょっとぐらい残っているかもしれないじゃない。全部の札を使えば魔法が発動する魔力量に足りるかもしれない」
「でもそれじゃ一人しか助からないわ。ナディアが試して。私はいいから」
「札ならまだある。私なら大丈夫だから先に行って」
はったりだった。魔法使いに貰った札はヴィクトリアの手の中にあるだけで全てだった。
「ならナディアが先に行って。私が後から行くから」
ヴィクトリアは納得せずに食い下がる。玄関からは、せーのっ、という掛け声と共に一際派手な音が響くようになっていた。
「もたもたしてたら捕まっちゃう! もういいから行って!」
最後はナディアに押される形で魔法陣の中に入った。ヴィクトリアは踏み留まろうとしたがナディアの方が力が強かった。
ヴィクトリアの身体が全て魔法陣の中に入った所で、彼女の身体は音もなく消えてしまった。