79 待て
ナディア視点→ヴィクトリア視点
涙を流すヴィクトリアの傍らでは、ナディアが集団の中に一人だけ異質な中年が混じっていることに気付いていた。彼だけは隊服を着ていない。
「しゃ、社長……」
気の弱そうなその男はナディアの雇い主だった。お縄にはかかっていないが、俯きがちに銃騎士隊と歩く姿はまさに連行されているといった体だった。
彼らは明らかにナディアの住居に向かっている。なぜこんなことになっているのか、ナディアには思い当たる節があった。
(馬だ)
ナディアは公園の噴水でヴィクトリアを発見した後、ひとまず自分の住居に彼女を連れ帰ったが、本来は仕事に行くはずだった。しかしこんな状態のヴィクトリアを一人にはしておけないし、馬も目立つから何とかしなきゃいけなかった。
一度出勤するけどすぐ戻るからと言ってヴィクトリアを休ませた後、ナディアは馬を連れて事務所へ向かった。急だが今日は休むことの連絡と、今日するはずだった授業の日程調整を頼むためだった。
それから、この馬がワケありなので誰にも見つからないように何とか隠しておいてほしい、と社長に無理を言って頼んできたのだが、ちょっと無茶振りが過ぎたようだ。馬からヴィクトリアの居場所に足がついてしまったのだろう。
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「姉様、逃げましょう」
ナディアがヴィクトリアの腕を引いて連れていこうとするが、ヴィクトリアは動かなかった。その場に留まり首を振る。
「ナディア、ごめんなさい…… 私このままレインと一緒になりたい。私、奴隷になる」
ナディアは目を見開いてヴィクトリアを見つめた後、窓のカーテンを引いてヴィクトリアとレインが視線を交わし合っているのを遮断してしまった。
「姉様、何言ってるのよ、しっかりして。刹那的な気持ちに流されて決めないで。将来のことを決めるのは、もっとよく考えてからにして」
「考えても答えは同じよ。私はあの人を愛している。それ以外の答えなんて出てこない。私にはレインしかいない」
「答えがそれしかなくても、人間と番になろうとするなら覚悟が必要よ」
「覚悟ならもうできてる」
「じゃあ聞くけど、あの男が姉様以外の女を愛するようになったらどうするつもりなの?」
「え……」
滑らかに動いていたはずのヴィクトリアの口が、止まった。
「人間は獣人とは違う。永遠の愛を誓った所で変わってしまうこともある。あの男の奴隷になるって言うけど本当にそれでいいの?
奴隷は伴侶じゃないわ。いつか姉様じゃない別の女を好きになって、その女と結婚することだって出来るのよ?」
「そ、そんなの嫌!」
ヴィクトリアは思わず叫んでいた。
(レインが他の女性を愛して結婚するなんて絶対に嫌! 耐えられない!)
「嫌だって言っても正式な伴侶ではない奴隷には文句を言う権利すらないわ。
生半可な覚悟じゃ駄目なの。奴隷になるなら、何があろうと、相手が女を抱きまくろうと、自分じゃない誰かと結婚しようと、そのせいで鼻を焼くことになっても、それでも心を強く持ち続けられる覚悟と揺るぎない信念が必要よ。
そうでないと、こんなはずじゃなかったって、いつか後悔してしまう日が来た時に、姉様は潰れてしまうわ。
人間社会で人間と番になろうとするなら、今私が言った程度のことはそんなの想定内くらいにしておかないと」
反論の言葉はヴィクトリアの中から出てこなかった。ナディアが時間を置いてよく考えろと言っていた意味がようやくわかった。
「もうここは私に騙されたと思って、とにかく安全な所まで逃げて。
あの男は姉様に執着しているみたいだし、どこに行ったってきっと追いかけてくるわよ。少しくらい待たせておいたっていいじゃない」