73 別れと再会
浴室から出たヴィクトリアは身体にタオルを巻いた状態でしばらく床に座り込んでいた。
自分の身体からは付けられたばかりのリュージュの匂いが濃い。ヴィクトリアは何も考えられずにただ呆然と時を浪費するだけだった。
シャワーを浴びた身体は既に冷えきっていて、彼女は一つくしゃみをした。
ヴィクトリアはどちらかといえば暑さが苦手で寒さにはそこそこ耐性があった。自分では冬生まれのせいなのではないかと思っていた。
それでも湯上がりで身体もよく拭かずにほぼ裸のままでずっといたら風邪をひく。流石にいつまでもこのままこうしているわけにはいかない。
(こんなところでずっと座り込んでいては駄目だ)
ヴィクトリアは立ち上がった。
ヴィクトリアは脱衣所の床に置かれたままになっていた手提げバッグに手を伸ばした。
中にはリュージュがヴィクトリアの部屋から持ち出してくれた服や下着が入っている。
ヴィクトリアは新しい服を着込みながら、やっと、これから自分がどうするべきなのかを考え始めた。
(とにかく、朝になったら里から出てレインに会いに行こう)
リュージュには本当に申し訳ないことをしてしまった。けれどヴィクトリアとしては、もう一度レインに会って自分の気持ちを確かめない限りは誰とも番になれないと思った。
もし、自分が本心からレインを望んでいて彼と番になりたいのならば、レインの自分への憎しみも酷い所も全部引っくるめて彼を受け入れなければならないと思う。
そして何より自分の罪と向き合い、何某かの禊を済ませる必要があるだろう。
まずはレインに会って謝罪がしたい。謝った程度で簡単に許されることではないし、奴隷になるしか贖罪の道がないのなら、誰にも束縛されずに自由に生きていきたいという自分の望みを犠牲にしてでも、それを受け入れなければならないと思った。
本当にそれでいいのかどうか、自分の一生をレインに捧げて尽くす覚悟があるかどうか、もう一度レインに会って確かめたい。
罪を告白すれば、レインに家族を見殺しにしたことを許してもらえず、拒絶されて二度と会うことができなくなる可能性もある。
叶わぬ思いを抱えて長い間アルベールのように耐えなければならなくなるかもしれない。
でも、それが罰だというなら、それでもいいのかもしれない。
(レインのことを思ってずっと生きていく)
本当は、レインに許された上で奴隷にならずとも彼と番になる方法があれば、ヴィクトリアにとっては一番いいのだが…………
ヴィクトリアが半ばレインと番になることを決めたような考えを巡らせながら服を着終え、最後に短剣が収まったガーターホルダーを装着しようと脱衣カゴの中へ手を伸ばした時だった。
ノックもなくいきなり脱衣所の扉が開いた。思考に没頭していたせいかリュージュの匂いにも足音にも全く気付かなかった。
「ヴィクトリア、さっきはごめん」
「ううん、謝らないで。悪いのは私なんだから」
さっきまでしていたことが脳裏をかすめ、恥ずかしくてリュージュの顔が直視できない。
「『番の呪い』にかかっているんだから、仕方ないよ」
「リュージュ、私、明日レインに会いに行ってくるわ。ちゃんと話をしてくる」
リュージュの顔から視線を外してやや俯きがちに話すヴィクトリアは、リュージュが驚きに目を見開いことに気付かない。
「…………行かないでくれ」
ヴィクトリアはその言葉に驚いてリュージュの顔を見た。
「でもさっき……」
リュージュもレインに会いに行った方がいいと言っていた。
「さっきは気落ちしててついあんなことを言ってしまったけど、本心じゃない。俺は別れるつもりなんかない。別れたくない」
今度はヴィクトリアが目を見開く番だった。まさか引き止められるとは思わなかった。
それに――――
(「別れたくない」って…………)
リュージュはヴィクトリアの告白を受け入れてくれて、自分と番になることを了承してくれた。
お互いの思いも打ち明け合っていて、ヴィクトリアも一度は決意したはずだったのだから、今リュージュとは友達ではなくて、恋人同士ということになるのか…………
「ごめんなさい、私から言い出したことだけど、『番の呪い』を解かない限り、リュージュとは一緒になれないわ」
「『呪い』を解く方法ならこれから二人で探していこう。時間がかかってもいい。俺は待つ。必ず解けるよ」
「だけど、だけど…… 私、もう一度レインに会いたいの。会って自分の気持ちを確かめたい」
その言葉を聞いたリュージュが顔をしかめた。
「会わなくたって『番の呪い』にかかっているお前の気持ちの在り処は一つしかない。行っても行かなくてもお前はそいつを選ぶ。確かめに行く必要はない。むしろ行ったらそいつに捕まってお前は帰って来ない。
お前を奴隷になんてさせられない。行かないでくれ。俺のそばにいてくれ」
「でも、私、リュージュとは番になれない……」
絞り出すように言うと、リュージュは悲しそうな顔をした。
「一回駄目だったくらいで諦めないでくれ。次は大丈夫かもしれないじゃないか」
ヴィクトリアの顔色が見る間に悪くなっていく。
(リュージュとまたあの一連の行為をすることになるのか……)
リュージュに身体を触られてもアルベールにされたほど嫌だとは思わなかったし、鼻をつまんでさえいれば大丈夫だった。
だけど最後の最後は身体が震えて全身全霊で拒んでしまった。嫌悪感が酷すぎて、リュージュを嫌いになってしまいそうだった。
『番の呪い』を解かない限り、リュージュとそういう行為はしたくない。
(リュージュのことは好きだけれど、レイン以外の人とはもうできない)
「無理、できない…… もうできない」
身体を強張らせて震え、涙を浮かべ始めたヴィクトリアを見たリュージュもまた、悲痛な表情を浮かべていた。
「俺、頑張るから。お前に一番に好きになってもらえるように頑張るから。だから俺たちのことを諦めないでくれ。どうかそいつのことは忘れてほしい。俺を選んでくれ……」
リュージュが距離を詰めてくるが、ヴィクトリアはその分下がって距離を取る。
「ヴィクトリアが好きなんだ。ずっと好きだった。お前を心から愛している。やっと自分の気持ちを解放できたんだ。その男じゃなくて俺を選んでほしい。
今度は上手くやる。だから……」
リュージュが手を伸ばしてくるが、ヴィクトリアはそれを拒むように首を振った。リュージュの手がヴィクトリアに触れずに止まる。
「リュージュ、お願いよ…… 私、レインに会いたいの。今行かなかったら一生後悔する。お願い、レインの所に行かせて」
「行かせたくない…… ヴィクトリア、俺はもう失いたくない」
ここで離れたら、サーシャとの失恋で傷付いているはずのリュージュの心を、さらに傷付けることになる。
リュージュのことは守りたい。傷付けたくない。
でもここで胸につかえた思いを残したままリュージュを受け入れてその手を取ったら、この先きっと後悔することになる。それは巡り巡っていつかリュージュとの間に影を差すのではないか。
「リュージュ、ごめんなさい……」
リュージュは俯いて沈黙している。ヴィクトリアが緊張したままリュージュを見つめていると、彼の手が再び動く。
リュージュはそばにあった脱衣カゴから、ガーターホルダーに収まっていたヴィクトリアの短剣を掴むと、鞘から抜いた。
「リュ、リュージュ……!」
ヴィクトリアは刃物を手にしたリュージュを信じられないものを見るような目付きで見ていた。身体に戦慄が走る。
リュージュは短剣を逆手に持つと、それを振り下ろした。
「リュージュ!」
ヴィクトリアは驚いて悲鳴に近い声を上げた。リュージュは自分の太ももに短剣を突き立てていた。痛みでリュージュの顔が歪んでいる。
「何てことを!」
「触るな!」
リュージュに近付いて足元に座り込み、短剣を掴む手に触れようとすると、リュージュが叫んでそれを阻止してきた。
「俺に触るな。俺はお前が欲しい。俺もシドやアルベールと同じだ。お前を誰にも渡したくない。俺のものにしたい。別の男の所になんか行かせたくない。だからこうするしかないんだ。今のうちに早く行け!」
リュージュは短剣を根元まで強く押し込んで苦悶の表情を浮かべている。
「リュージュ……」
リュージュの行動に、ヴィクトリアは何も対応を取れずにいる。
「ヴィクトリア、このままここに残るなら俺はお前を抱くぞ。嫌がっても次は止めない。だから早く行け。
泣くな、立て。
お前は自分の思うように生きろ」
リュージュはヴィクトリアの意志を尊重してくれている。リュージュはいつも、いつだって、ヴィクトリアの味方でいてくれた。
「リュージュ、ごめんなさい…… こんなことになっても、私は今でもあなたのことを大切に思っているわ」
「いいから行け!」
ヴィクトリアは弾かれたように脱衣所から飛び出して走り出した。涙が次から次へと溢れて止まらない。
新居を出たヴィクトリアは馬が入れられた牧場まで走った。
塀を飛び越えて、眠る馬の元まで走る。馬のすぐそばまで行くと、気配で気付いたのか馬は目を開けて、泣いているヴィクトリアの胸元まで自分の顔を近付けてきた。
馬に抱きつくと、レインが騎乗した残り香が漂ってきて、少しだけ落ち着いた。
「お願い、私をレインの所まで連れて行って」
ヴィクトリアは夜闇の街道を馬に跨り疾走し続けた。一睡もせずに馬を走らせながら朝を迎え、やがてレインと別れた街まで戻って来ていた。
シドが処刑される旨の号外が配られた公園までやって来ると、ヴィクトリアは馬から降りた。一度も休憩をしなかったので身体が鈍く痛み、地面に降りた途端に少しふらついてしまった。
ヴィクトリアは噴水の縁に腰掛けた。馬が噴水の水を飲んでいる。公園から通りを挟んだ斜め向かいには銃騎士隊の駐在所が見えた。
(ここにいればレインに会えるかしら)
公園の中を街の人間たちが時折歩き抜けていく。ちょうど通勤の時間帯と被っているのか、足早に歩く人たちの中でちらちらとこちらを見る者は何人かいたが、声をかけてくる者は誰もいなかった。
ヴィクトリアは目を閉じた。一睡もしていない身体はとても疲れていて、このまま寝入ってしまいそうだった。
ヴィクトリアは見知った人物の匂いを嗅いだ。コツコツと小気味良い靴音が真っ直ぐこちらに向かってくる。
ヴィクトリアは目を開けてその人物を見た。
彼女はヴィクトリアと目が合うと、はあ、とため息を吐いた。
「せっかく逃したのに、一体何をやってるのよ。こんな所にずっといたら、またあの銃騎士に捕まるわよ」
ヴィクトリアはナディアの姿を視界に認めた途端涙腺が緩み始め、飛び付くようにして彼女に抱き付いた。
「色んな男の匂いが混ざってる…… 最悪ね、ヴィクトリア姉様」
ヴィクトリアを抱きしめたナディアは、子供のように泣きじゃくるヴィクトリアの頭に手を置いて、よしよしと撫でた。




