69 初恋の行方 3
一部R15
ヴィクトリア視点→リュージュ視点→ヴィクトリア視点
リュージュに手を取られて歩きながらヴィクトリアはしきりにリュージュの怪我の具合を心配していた。
その度にリュージュは大丈夫だと返していたが、アルベールと戦う前だって同じことを言っていたのに、本当は手や足まで痛めていたことは教えてもらえなかった。
ヴィクトリアはリュージュが無理をしているのではないかと心配になった。
「そんなに言うならヴィクトリアが俺のこと看病して。入院するよりそっちの方が早く治りそうだ」
リュージュがこちらの顔を覗き込むようにして距離を詰めてくる。こちらを見つめながら微笑む顔が大人びていて妖しく見えてしまい、虚を衝かれたようにヴィクトリアはリュージュを見返した。
(いつもと雰囲気が違うような…… 上手く言えないけど)
「リュージュの看病ならいつでもするわよ? むしろさせてほしいもの」
「ありがとう。じゃあ俺もヴィクトリアが具合が悪くなった時は看病でも何でもするよ。してほしいことがあったら遠慮なく俺に言って。
俺、ヴィクトリアのためなら何でもするからさ」
こちらをじっと見てくる視線に真摯なものを感じる。優しい微笑みと声音はいつものリュージュなのに、胸がざわざわする。
「私のお願いなら何でも聞いてくれるの?」
「そうだよ」
「じゃあまずは身体をよく治して頂戴。入院をしないんだからその分無理をしないで意識してよく休んでね」
リュージュは破顔する。
「わかったよ。無茶なお願いでもよかったのに、ヴィクトリアのそういうとこ優しくてすごく好きだよ」
リュージュが朗らかな笑みを浮かべながらそう言ってくれるので、ヴィクトリアも自然と笑顔を返す。
リュージュと繋いでいる手が温かくて、心まで温かくなってくる。
ヴィクトリアにとってリュージュはこの里で頼れる唯一の、かけがえのない存在だった。これから先もずっとリュージュと一緒にいたいと思う。
(『番の呪い』さえ解ければ……)
ヴィクトリアはリュージュに連れられてウォグバードの家まで戻って来ていた。新居はサーシャとのことを思い出すからあまり行きたくないのだとリュージュは言う。
けれどウォグバードの家はアルベールのせいで玄関の扉は壊れているし、浴室の窓だって破られて破片が散らばっている。
リュージュは玄関については「もし誰か来ても俺が追い返すから大丈夫だ」と言うものの、浴室はすぐには使えそうにない。
「ねえ、泊まるのはここでもいいけど、お風呂だけでもリュージュたちの家の浴室を使ってもいい?」
「駄目だ」
即答だった。
「何で?」
リュージュは理由を言わない。少しくらいなら新居に行っても構わないだろうと説得しても、口を硬く引き結んだままで態度は頑なだった。
「お前は新居には立入禁止だ」とまで言われてしまった。ヴィクトリアだって積極的に新居に立ち入りたいわけではないけれど、アルベールに身体を舐められているので、シャワーでもいいから身を清めてからでないと寝たくなかった。
ヴィクトリアは仕方なく苦肉の策を口にする。
「なら、いいわ。私の部屋の浴室を使うから」
「自分の部屋で寝るのか?」
ヴィクトリアは首を振る。
「ううん、シャワーだけ使ったらすぐにここに戻るわ。一緒に来てくれる?」
「え、俺も行くの?」
「だってリュージュは私の護衛でしょ? 入浴中の無防備な時に誰か来たら嫌だもの。お風呂に入っている間も近くで待ってて」
「あ、ああ……」
リュージュはやや狼狽えながらも付添いに同意した。
******
リュージュはヴィクトリアと共にシドの館の前まで辿り着いていた。
ヴィクトリアの部屋の扉は鍵がかかったままだそうなので、破られている窓から入るしかないという。
ヴィクトリアは鉄格子が破壊されている部屋の窓を見上げながら強張った顔をしている。
「様子を見てくるからちょっと待ってろ」
まずリュージュが一人で窓からヴィクトリアの部屋に入り、危険がないかを確認する。
部屋の中には誰もいなかったが、ヴィクトリアがシドに襲われた時の匂いがまだ残っていた。
あの時、ヴィクトリアが何をされていたのか、その断片をリュージュも嗅ぎ取る。
「…………あのクソ野郎」
眉根を寄せて吐き捨てるように言ったリュージュは、ここにヴィクトリアを来させるべきではないと判断した。
リュージュはクローゼットや引き出しを開けると、ヴィクトリアの服や下着をいくつか見繕った。適当な手提げバッグに服を突っ込んでからヴィクトリアに声をかけるべく窓に寄る。
窓から外を見下ろすと、ヴィクトリアが地面に蹲って泣いていた。
「ヴィクトリア!」
リュージュは慌てて飛び降りた。
******
リュージュが部屋に入るために飛び上がっていなくなった後、ヴィクトリアは辛うじてその場に立っていた。
大丈夫だと思っていた。ジュリアスに励まされて、シドとのことは吹っ切ったつもりだった。
実際、シドの館の前まではリュージュがいてくれたこともあり、それほど不安を抱かずに来ることができた。
けれど、部屋の窓の中から敏感にも自分とシドが絡み合った匂いを感じ取ってしまい、あの日の出来事が今まさに目の前で繰り広げられているかのように錯覚する。
『――――――絶望して、鳴け』
赤髪の男が嘲笑うかのようにヴィクトリアを見下ろしている。幻覚と幻聴が起こっていた。
耳を塞いで目を閉じたヴィクトリアはその場に蹲まって震えていた。
(怖い)
全てを奪われてしまいそうになったあの日の恐怖が蘇る。
ヴィクトリアは震える手でポケットを探り、中からナディアの帽子を取り出した。折り畳んだままの帽子をハンカチ代わりにして鼻を覆い、匂いを遠ざける。
あの日の匂いなど嗅がなければいい。
目を閉じた暗闇の中では、金色の瞳がこちらを見ていた。
耳元でアルベールの吐息と、血を飲み下す音が響き始めた。自分という存在がどんどん失われていく。
『服を脱げ、ヴィー』
(やめて……)
心からの懇願はレインのことを思い口にすることができなかった。アルベールに襲われた時に感じた絶望は、自分の部屋でシドに襲われた時と同等のものだった。
こんなことになるのなら、あの宿でレインに全てを許してしまえばよかったとさえ思った。
レインに無性に会いたくてたまらなくなった。その途端、ジャラリ、と鎖が鳴る音がする。
いつの間にか自分の首に首輪がかけられていた。首輪から繋がる鎖の先を、黒髪に黒曜石の瞳を持った銃騎士――――レインが握っていた。
レインは憎しみに満ちた視線と声音でヴィクトリアに言い放つ。
『君は今日から、俺の「犬」だ』
ヴィクトリアは泣き出した。
(信じていた。愛していた。なのにレインは私を手酷く裏切った。
私がレインの家族を見殺しにしたから。
私にレインを好きになる資格はない)
こんな恋心は、早く殺してしまった方がいい。
「ヴィクトリア!」
リュージュの声がする。
(リュージュにそばにいてほしい。でも、リュージュは私ではなくて、別の人を愛してしまった)
目の前の光景が変わる。光り輝くような祝福された場所で、リュージュが微笑みながらサーシャのベールを上げて――――幸せそうに口付けた。
(リュージュが求めているのは私ではない…………)
寂しくてたまらない。真っ暗になった心の中を孤独が支配する。
泣いていると、誰かが抱きしめてくれた。
リュージュだった。
リュージュの温もりが心地いい。心にぽっかりと空いた空洞を満たすように温かさが染み込んでくる。
「ごめんな、俺が悪かった。こんな所に近付けさせるべきじゃなかった。風呂なら新居のを使えばいいよ。早くここから離れよう」
リュージュは涙するヴィクトリアを抱え上げて足早に移動し始めた。
リュージュの結婚式があったのは数日前のことだ。今目の前で起こっている出来事ではなかったと思い出したヴィクトリアは、リュージュの腕の中で安堵するように息を吐き出していた。
ヴィクトリアが見ていたのは全て幻だ。シドもアルベールもレインもここにはいない。ただ、リュージュだけがそばにいる。
「大丈夫だ、これからは俺がちゃんとお前を守るから、ずっと一緒にいるから、しっかりしろ」
心配そうな顔で励ますリュージュを、ヴィクトリアは見上げていた。
「本当に、私とずっと一緒にいてくれる?」
「ああ、もちろん」
ヴィクトリアはリュージュを、じっと見つめる。
「リュージュ、お願いがあるの」
「何だ?」
「抱いてほしいの」
リュージュは足を止めた。驚いた顔をして腕の中のヴィクトリアを見返す。
「私たち、本当は姉弟じゃないのよ」
「……ああ、さっきウォグから聞いた」
「ずっと言えなかった。言いたくても言えなかった…… 私、ずっとリュージュのことが好きだったのよ」
「……」
「全部忘れたいの。シドにされてきたことも、アルにされたことも…… レインとのことだって…… 全部忘れたい。忘れさせて」
涙を流すヴィクトリアはリュージュを見つめるが、リュージュは硬い表情をして押し黙ったままだった。
沈黙が周囲を包む。
(やっぱり駄目なの……)
リュージュの胸にはまだサーシャがいるのだろう。当たり前だ。別れたばかりなのだから。結婚式まで挙げて永遠の愛を誓った相手だ。リュージュはサーシャとの別れを、あんなに嘆いていたのだから。
ヴィクトリアが「降ろして」と、そう言おうとした時だった。
「いいよ」
ヴィクトリアは一瞬また幻聴を聞いたのかと思った。
リュージュがヴィクトリアと視線を合わせてくる。
「いいよ。俺と番になろう」
リュージュはもう顔の緊張を解いていた。
ヴィクトリアを見つめる赤みがかった瞳は決意に満ちていて、それでいて、慈しむような優しいものだった。
「俺もずっと好きだったよ。でも姉だと思っていたから、お前への気持ちは外に出してはいけないと思って、自分の中で押し殺して、気付かないふりをしてた。
でも、本当はずっと好きだった。本当はずっと、愛してた」
驚きすぎて固まっているヴィクトリアの唇に、リュージュは優しい口付けを落とした。




