59 異端 2
「血を飲んだ、とかね」
その言葉を聞いた途端、ヴィクトリアは強張っていた顔を青褪めさせた。
「まさか、そんな……」
アルベールがヴィクトリアの疑念を肯定する。
「ヴィーは俺の番だ。これから番になるんじゃない。俺にとってはずっと番だった。ヴィーは俺の最愛の人だ」
ヴィクトリアは絶句したままだった。アルベールも『番の呪い』にかかっている。しかも、ヴィクトリアへの……
「本来、獣人が番を得るための行動は単純明快だ。肉体関係を結べばいい。それはどの獣人でも変わらないはずなんだ。
でも中にはおかしな奴もいる。獣人の本能以外の行動で番だと思うなんておかしいんだ。普通じゃない。
でもそういうあるべき姿から外れた奴も確実にいるんだよ。俺たちみたいにね。
たまにシドみたいに逆方向に振り切れてる奴もいるな。
誰と寝ても、誰のことも番と思えない」
アルベールが嬉しそうに笑う。
「まさかヴィーも『番の呪い』にかかる体質だなんて思わなかったよ。俺たち、似た者同士だね」
「……アルは、七年前に私の血を飲んだ時からずっとそうなの? 七年もの間、ずっと『呪い』が解けなかったっていうの?」
「そうだよ」
ヴィクトリアはふらりと目眩を覚えて崩折れそうになるが、アルベールの腕が伸びてきてよろけた身体を支えられる。アルベールに掴まっていないと立っていられないほどの衝撃を受けた。
アルベールは七年間も実ることのない思いを抱えていたのか。
それではヴィクトリアのレインへの思いだって長い間解けないかもしれない。ヴィクトリアはせいぜい半年か一年ぐらいだろうと思っていた。
(七年なんてそんな長い間『番の呪い』にかかり続けることがあるなんて……
いえ、アルは今も尚『番の呪い』に囚われているのだから、私だって下手をしたら、自然と呪いが解けるのにはもっと時間がかかるのかも……
今だってレインに会いたくてどうしようもなく苦しいのに、そんなに長い時間、心を殺して耐えるのは無理よ)
「アルは自分から『呪い』を解こうとはしなかったの?」
「無理なんだ」
アルベールは言い切った。
「試しに他の奴の血を飲んでみたこともあったけど駄目だったし、他の女を抱こうとしたこともあったけどできなかった。
俺はヴィーじゃなきゃ駄目なんだ。ヴィーしか愛せない」
身体を硬直させているヴィクトリアの身体にアルベールが腕を回してきて、抱き締められる。
「ヴィーはシドに苦しめられている間俺が何もしなかったから怒っているんだろう? ごめんね。本当にごめん。何とかしてやりたかったけど、俺の力じゃあいつには勝てなかった。
ヴィーに会いに行こうとする度に何度も殺されかけて、死の淵を彷徨ったよ。ヴィーは知らないだろう? ヴィーと会えなくなった直後から、俺はシドに暴力を振るわれ続けて、ずっと入院していた。
退院したらヴィーに会いに行こうと考えただけで、考えただけでだぞ? まだ何も行動を起こしていないうちからあの男がやってきて、俺に絶望を与えていくんだ。
いつでも殺せたのにシドが俺を殺さなかったのは、俺が自分の番に全く会えずに、奪われる様をただ感じていることしかできなくて苦しんで絶望して嘆いている様子を、観察するのを楽しんでいたからだ。
俺も散々人間を殺してきたけど、あいつは俺以上に性格のねじ曲がった、どうしようもない悪党だ。
俺はいつしかヴィーに会いに行くと考えることさえできないようにされた。シドは俺にとって恐怖そのものだった。あの男の意に従うこと、それだけが俺が生き残る唯一の方法だった。
ヴィーがリュージュと仲良くしているのを知った時は驚いたよ。もしかしたら、シドはもうヴィーに男が近付いても気にしなくなったのだろうかと思って会いに行こうとしたけど、でもやっぱりまたあいつがやって来て、同じことの繰り返しだった。
俺はずっと、ヴィーに触れることも話しかけることも許されなかったのに、何でリュージュだけは許されていたのかがわからない。結局あのシドも、自分の息子は特別だったってことなんだろうな」
ヴィクトリアは首を捻った。
(リュージュがシドの特別?)
その考えにはヴィクトリアは同意できなかった。
リュージュはシドに殺されかかったことがある。
リュージュはシドを嫌っていたし、二人の間に親子の絆のようなものはなさそうだった。
シドがリュージュを特別扱いしたことは、ヴィクトリアの知る限り一度もない。
なぜシドがリュージュを追い払わなかったのかは、ヴィクトリアにもよくわからなかった。
「アルは、リュージュがシドの息子だって知っていたの?」
ヴィクトリアは、アルベールがリュージュの出自を知っていたことに引っ掛かりを覚えた。
(私は最近まで全く知らなかったのに)
「ヴィーがシドの娘じゃないことも知ってるよ」
「……言ってくれたら良かったのに…………」
ヴィクトリアはがっくりと項垂れた。アルベールがヴィクトリアと会話もできない状態だったことは理解したが、手紙をしたためるとか何か別の方法でこそっと教えてくれていたら、自分はシドのことであそこまで苦しまずに済んだのではないかと思ってしまう。
ヴィクトリアの苦しみは、実の父親からおかしなことをされているという所が根幹だったわけで。
「言うわけないだろ。何? 血の繋がりがなかったらシドと番になっても良かったの? ヴィーはシドが父親じゃないと知ったら絶対に絆されると思っていたけどやっぱりな。最後の方なんてシドに心を許しかけていただろ? 駄目だよ、あんなクズみたいなクソ変態鬼畜野郎を受け入れたら…… ヴィーが何も気付かないままで本当に良かった」
アルベールにため息を吐かれた。
ヴィクトリアは、自分がもし真実を知っていたらどうしていただろうと考えてしまった。アルベールが言うようにシドに押し切られて受け入れてしまっていた可能性が無きにしも非ずで、その先にシドとの間で起こるであろう出来事を思い浮かべるのが怖くなってきた為、考えるのをやめた。
シドはヴィクトリアが幼い頃からずっと、母と濃厚に関係していたのだ。考えたくない。
「シドの話なんかもうやめよう」
雰囲気を変えたアルベールが迫ってくる。二人の身体は密着したままだ。
「本当はヴィーが俺への恐怖心を少しでも和らげてからにしようと思ってたけど、もういいや」
『何がもういいの?』と質問しそうになったが、ヴィクトリアは口を閉じた。藪蛇になりそうで怖くて聞けない。
「『番の呪い』は思い込んでいるだけだって言う奴もいるけど、確かにほとんどはいずれ消えて無くなるような思いなんだろうけど、たまに本物があるんだ」
「本物?」
「そう、本物。何したって消えやしない。『呪い』を超えた強い愛を持つ、従来の番の絆と同等のものだ。俺のヴィーへの気持ちも本物だよ」
ヴィクトリアはアルベールに唇を寄せられたので悲鳴を上げ、両手で口元を覆い、口付けを強く拒んだ。
(駄目! これだけは! キスしたらまたレインの時みたくアルベールのことを好きになってしまう!)
ヴィクトリアはレインと口付けるまでは、恋心はなかった――――と、思うのに、彼は敵で自分を襲ってくる危ない男だと最大限警戒していたはずなのに、口付けた途端に好きになってしまった。
リュージュを押しのけて最愛の人だと認識するのに少し時間はかかったが、正直自分の元々の気持ちは置いてけぼりにされてしまうわけで、また気持ちが変わって振り回されるのは御免だ。
それに相手があのアルベールだなんて、全く望んでいない。
閉じた貝のように身体を硬くして一向に手を退かそうとしないヴィクトリアを見て、アルベールが嘆息する。
「七年だよ? ヴィー…… 少しくらい俺にいい目を見させてくれてもいいだろう?」
(良くない!)
ヴィクトリアは首をブンブンと左右に振っている。
「じゃあ口じゃなくてもいいよ。頬にするから手を退けて?」
ヴィクトリアはまた首を振った。レインにそう言われてまんまと騙されてしまったことがある。
(同じ過ちは繰り返さない!)
ヴィクトリアは必死だった。必死すぎたのかもしれない。
「そう…… 『キスでなった』んだね?」
言われたヴィクトリアは目を白黒させてしまった。
(どうしてアルは私の考えていることがわかるの? これじゃまるでシドみたい)
驚愕しているヴィクトリアの態度は、アルベールの言葉を肯定しているようなものだった。
そこからのアルベールは素早かった。
口元を覆うヴィクトリアの手が掴まれて外される。ものすごい力で抗えなかった。
抗議しようと開きかけた口を塞がれる。
目を見開いたヴィクトリアの時が止まった。
ヴィクトリアはアルベールと口付けていた。




