44 協力者
外からの空気が入り込んできたことで、感度の落ちた嗅覚でも窓の外にいる人物の匂いを拾うことができた。
まさか、何故彼女がここにいるのか。
ヴィクトリアは驚きの表情で窓を見続けていた。
現れた白い手が、窓を解錠する。スーッと音を立てないように窓が開かれて、その人物が軽やかに床に降り立つ。
嗅いだことのあるその懐かしい匂いは、紛れもない、二年前に里から出奔したはずの――――
(ナディア!)
猿ぐつわをしていなかったら、もしかしたら驚きでその名を叫んでいたかもしれない。
二年前よりも背が伸びていたし、長かった茶色の髪はバッサリ切られているが、顔立ちも匂いも間違いなく異母妹のナディアだ。いや、『元』異母妹と言うべきか。
ナディアは化粧をしてとても綺麗になっていた。服も薄桃色のシャツに花柄のふんわりスカートを履いていて、以前は暗い色の服ばかり好んでいたのに雰囲気が随分と明るくなっている。
ナディアの表情は険しい。眉間に皺を寄せたナディアは、人差し指を唇に当ててヴィクトリアに静かにするよう促してから、口元の猿ぐつわを取ってくれた。次いで手枷を破壊してヴィクトリアの手首を自由にしてくれる。
(ナディア…… 助けてくれるの…………?)
彼女の行動からその意図を理解したヴィクトリアは、安堵と感謝から胸が震えぼろぼろと涙を流した。
『泣かないの』
ナディアが声を出さずに口の動きだけでそう告げた。ヴィクトリアは頷いて涙を拭った。
ナディアが首輪も壊そうとするが、手枷よりも厚みがあり彼女の力では壊せなかった。ナディアは仕方なく鎖の部分を根元から引きちぎった。こうしておけば鎖が逃走の妨げになることはない。
ヴィクトリアはナディアの手を借りて寝台から床に降りた。薬のせいで身体が鉛のように重く感じたが、歩けないほどではない。
ヴィクトリアは床に転がる母の形見の短剣を、ずっと空っぽだったままの太もものガーターホルダーに収めた。あるべきものがあるべき場所に戻ってきて、萎えかけていた心が少しだけ持ち直す。
部屋の入口ではレインと銃騎士隊員の男二名が話している声がする。二人は音を立てないようにして窓に歩み寄った。小窓は壁の上部にあり、手を伸ばしても下の窓枠に指先が触れる程度だ。ナディアが椅子を持ってきてくれたので、それに乗るとちょうど窓の外が見渡せた。
部屋があるのは二階だ。普通だったらこのくらいの高さを飛び降りるくらい何てことはないが、今やったら間違いなく怪我をする。どうしようとナディアに視線を向ければ、彼女は心得ているとばかりに微笑んだ。
小窓は人一人が通れるくらいの大きさしかない。ナディアに場所を空けると、彼女は躊躇いなく足を窓の外に出し、外壁の目地に足先と手を置いて器用に降りていく。僅かに突出した幕板の上に立つと、手を離してヴィクトリアに合図した。
ヴィクトリアがナディアを信じて窓枠から飛び出すと、彼女が抱き止めてくれた。ナディアはヴィクトリアを抱えて地面に着地すると、そのまま走り出す。建物の角を曲った所でヴィクトリアを下ろしてくれた。
「ナディア、助けてくれてありがとう。でも、まさかあなたが現れるなんてすごく驚いたわ」
「それはこっちの台詞よ」
ナディアは再び険しい顔になって眉間に皺を寄せている。
「まさかヴィクトリア姉様が里から抜け出せていて、それはいいけどよりによって何で銃騎士なんかと一緒にいるのよ! キスなんて許したら駄目でしょう!」
ナディアは小声だが、ずいっとこちらに身を寄せて勢い込んで話してくる。
レインと路上で口付けた時に感じた視線はナディアのものだったようだ。あれを見られていたのかと恥じ入った。
「……でも、どうして来てくれたの?」
「たまたま、本当に偶然街で姉様を見かけて、でも隣にはあの男がいたから…… 姉様は箱入りだから騙されているんじゃないかと思って、後を付けていたのよ。
途中から首輪を着けられるわ、何か変なものを飲まされたせいで身体の自由が効かなくなってるわで、もうこれは絶対おかしなことになるって胃が痛くなったわ。
どこの宿屋に行くのかわかった時点で、銃騎士隊の詰め所に銀髪の獣人を連れた怪しい男がいるって通報したのよ。まず間違いなく捜索に入るだろうから、その隙に姉様を連れ出そうと思ったの」
銃騎士隊が訪れるように仕向けたのはナディアだったらしい。
「本当にギリギリ! 手籠にされる寸前だったじゃないの! 銃騎士の男なんか信じたら絶対駄目!」
ずずいっと踏み込まれて、ヴィクトリアは反論できない。レインのことを信じた結果、酷いやり方で身体を奪われそうになったのは事実なのだから。
「でも、レインは本当は優しくて、いい人で……」
ナディアはぎょっとした顔をすると、ヴィクトリアの肩を掴んで揺さぶり始める。
「姉様しっかりして! 女の子に薬を飲ませて乱暴しようとするような奴は決して優しくもないしいい人でもないわ! だいぶあの男に毒されてるみたいだけど、大丈夫?」
ナディアに指摘されて、ヴィクトリアは今更ながらはっとする。レインへの好意から盲目的になっていたかもしれない。
ヴィクトリアはレインに首輪をかけられた時の冷たい瞳を思い出す。ヴィクトリアを『犬』呼ばわりした時の冷たい声を。
砦から共に逃げた後のレインからは、やや暴走気味な時もあったが、ことあるごとに愛情を感じ取っていた。
しかし馬を取りに行くと言って帰ってきてからは、どこかヴィクトリアを拒絶しているような雰囲気を滲ませていた。
宿屋に戻ってきてからはそれが顕著だった。先程のレインは、ヴィクトリアを好きだと言いながら、その顔には憎しみが溢れていた。その思いがレインの真実だとするなら、彼はヴィクトリアのことなど愛してはいない。
レインがヴィクトリアに執着しているのは確かだろう。だが、果たしてそれは愛なのか。
本人ですら、愛と勘違いしているのではないだろうか。
レインの「好き」は、おそらく支配欲からくるものだ。ヴィクトリアを自分の支配下に置くことで、心の安寧を得ようとしている。
それを、「好き」だと勘違いしている。
下唇を噛み締めたヴィクトリアの目に涙が浮かぶ。
(レインが私のことを愛していなくても…… でも、それでも私は……)
「ヴィクトリア!」
レインの焦ったような声が響いてくる。部屋を抜け出したことに気付かれたらしい。
(まずい。こんな所で悠長に話をしている場合ではなかった)
ヴィクトリアはナディアと共に逃げようとしたのだが――――
どさり、と何かが落ちた音と、次いで呻き声が聞こえてくる。
考えるよりも先に身体が動いていた。嫌な予感がする。重く感じる身体に鞭打って来た道を戻った。
「姉様! 駄目!」
ナディアの制止の声も聞かず、ヴィクトリアは建物の角を曲がりかける。ナディアが追い付いてきて止めだが、ヴィクトリアの身体の大部分が角の向こうに出てしまった。
ヴィクトリアの目が驚愕に見開かれた。
レインが地面に倒れている。レインは足を抑えながら苦悶の表情を浮かべていた。
「レイン!」
飛び降りた。レインが、あの窓から。
人間があんなところから落ちたらただでは済まない。
「ヴィクトリア……」
レインは現れたヴィクトリアに視線を固定していた。倒れたままのレインは顔を歪めながらも、ヴィクトリアの名を呼んで彼女に手を伸ばしていた。
ヴィクトリアはレインの元まで行こうとしたが、ナディアに腕を引かれて押し留められる。
「獣人姫が逃げたぞ! 捕まえろ!」
部屋の窓から銃騎士隊員がこちらを覗き込んで叫んでいた。銃騎士隊員はすぐに姿を消したが、玄関を回って捕まえに来るつもりなのだろう。
「姉様!」
レインを見つめたまま動かないヴィクトリアに、ナディアが焦れたように声をかける。後ろ髪を引かれる思いではあったが、ヴィクトリアは踵を返して角の向こうに消えた。
「待ってくれ! 行かないでくれ! ヴィクトリア!」
レインは叫ぶだけで追いかけては来ない。きっと怪我をして動けないのだろう。心配だけど、助けには行けない。戻ったら、また彼に酷い事をされてしまう。もうレインに近付いてはいけない。
ヴィクトリアは泣いていた。レインのことが好きだった。
(あんなことをされてもまだ好きで、好きで、好きで……)
ヴィクトリアは思いを振り切るように首を降った。
(このまま逃げよう。レインの奴隷にはなれない)
ヴィクトリアはナディアに引っ張られるようにして走ろうとするが、レインの元に引き返そうとした時の動きが嘘のように、ヴィクトリアの足運びは遅い。
路地裏を移動する二人に銃騎士隊員たちの足音が段々と近付いてくる。
「掴まってて!」
ナディアがヴィクトリアを抱えて走り出す。
ヴィクトリアは大人しくナディアの言う通りにした。
「レイン……」
ヴィクトリアが泣きながら彼の名を呼んでいる。
それを聞いたナディアは顔を強張らせ、諭すような声をかけた。
「駄目よ、銃騎士なんて絶対駄目…… 殺されてしまうわ……」




