43 危機一髪
R15
襲われているのでご注意下さい
自分がシドの娘ではなかったという衝撃に戸惑うヴィクトリアは、ほとんど抵抗らしい抵抗も出来ずにレインに抱き上げられたまま宿屋まで戻って来ていた。出掛ける時も抱き上げられていたし、宿屋の主人はこの光景に慣れたのか、戻ってきた二人におかえりなさいませと会釈をしただけだった。
部屋に向いながらヴィクトリアは焦っていた。レインはじっとりと絡み付くような視線をヴィクトリアに向けている。これからどうなるのかなんてわかる。レインはヴィクトリアを――――
部屋に入るとレインは寝台に直行した。寝台の端に下ろされると、同じく腰掛けたレインに見下される。
ヴィクトリアは距離を取ろうと動くがレインに鎖を引っ張られて離れられない。
レインはヴィクトリアを抱き寄せて、頬に手を置いた。指の腹でヴィクトリアの唇を撫でながら彼女をじっくり眺めている。眼光を鋭くしながらも微笑むレインには危うさしかない。
「ねえ、あれ、また言ってくれない?」
緊張してレインから目が離せなくなっていたヴィクトリアは、問い掛けられても何の事を言われているのかわからなかった。
「抱いてって、また言ってほしい」
シドに妙な事を言わされるのには慣れていたが、レインにまで屈したみたいで言いたくなかった。
「最初に言われた時、やっぱり俺たちは引き合う運命なんだって思ったんだ。君も俺を好いてくれているんだって思ってすごく嬉しかった。必死な君が愛おしくてたまらなくて、あの時は本当にそうしてしまおうかと思った。すごく我慢したんだよ。今度はもっと可愛く言ってほしい」
「そんな事、言えないわよ」
こっちは裏切られた気持ちでいるのに、そんなこと言えるはずがない。ヴィクトリアは顔を強張らせていた。
「そう、残念。まあ、言わなくても、ね」
レインはヴィクトリアを寝台に押し倒した。
レインが口付けようとするが、ヴィクトリアはそれを拒んだ。レインは怒るのだろうかと思ったが、戸惑うヴィクトリアの顔を眺めている。
「本当は、ヴィクトリアだけを手に入れても駄目なんだ。あのクソ野郎をブチ殺さない限り、俺の復讐は終わらない」
言葉の後半から低く唸るように言うので、ヴィクトリアはレインを怖いと感じた。
「元々、君と結ばれるのは奴の処刑後に君を奴隷にしてからのはずだったんだ。シドが死んでからにしろって、うちの隊長代行あたりからも口煩く言われてた」
レインとジュリアスの間では、ヴィクトリアがレインの奴隷になることは決定事項だったのだろう。
ジュリアスはレインがヴィクトリアに強く執着していることを当然知っていたと思うし、奴隷にした後ヴィクトリアを監禁するつもりだったことも知っていたはずだ。
全部わかっていて、その上でヴィクトリアにレインと番になるよう勧めていたのかと思うと憤りを感じる。
(ジュリアスは何でこんな危ない相手と私をくっつけようとしたのかしら! やっぱり銃騎士隊員なんてみんな敵よ!)
ヴィクトリアはむっとした顔になっていた。
「でも、俺は早くても構わない。こうなったら奴の処刑前にヴィクトリアが俺のものになったと示してやるのもいいな。予定は変わったけど、その前に君を貰うことにする」
レインがヴィクトリアの服に手をかけてくるので、今ここにいないジュリアスに怒っても仕方がなかったとはっとする。
ヴィクトリアは服を掴むレインの手を押しのけようとするが、いつも通りの力が入らず安々と押さえ込まれてしまう。
「レイン! やめて!」
奴隷にすると言われてもレインのことはまだ好きだし、瞬間的にそうなりたいと何度か思ったことがあるのも事実だ。
でも、こんな無理矢理は嫌だ。
こういうのは、お互いの気持ちを高め合ってからするものではないのか。
奴隷にするつもりなのだからレインはヴィクトリアの意見など聞くつもりはないのかもしれないが、薬まで使ってこんな風に事に及ぼうとするなんて、これでは強姦ではないか。
レインからいい匂いがする。とても好きな匂いなのに、レインのことが好きなのに、何で乱暴されなければいけないのかと悲しくなってくる。
番になったらこの人に一生囚われてしまう。そして閉じ込められてどこにも出してもらえなくなる。
(そんなのは嫌だ。そんなのは求めていない。それにもうこれ以上誰かに抑圧される生活はしたくないしできない。心が死んでしまう)
自由になりたい。幸せになりたい。それがヴィクトリアの望みだ。
今日一日人間の世界を覗いて、そんな幸せが実在することを知った。それはレインのおかげでもあるのに。
レインがヴィクトリアに口付ける。
ヴィクトリアの意志とは裏腹に、レインの匂いに身体が反応し高揚しているようだった。何もかも全部放り投げて墜ちてしまいたくなる…… でも……
(抗おう。きっと、ここで諦めちゃ駄目だ)
ヴィクトリアがいきなり大泣きをし始めたので、レインがぎょっとする。
もちろん、涙は演技なのだが。心配そうにこちらを見るレインに優しさが戻った気がして、嘘をつくことに罪悪感が生まれる。
「ヴィクトリア、すまない。酷い事をしているのはわかっている。でも、こんなことをしてしまうくらい、君のことが大好きなんだよ」
「私だってあなたのことが好きよ。あなたなら許してもいいってずっと思っていたのよ。なのに、身体の自由を奪ってこんなことをするなんて酷いわ。獣人にとってはこの先もずっと一生心に刻まれ続けるすごく大切な行為なのよ。押さえつけるのではなくてもっと優しくして。
それに、せめて身体の汚れを落として綺麗にしてからじゃないと嫌よ」
「……わかった。風呂くらい入りたいよな。じゃあ、一緒に入ろう。準備してくるから待ってて」
ヴィクトリアはそれとわからないくらいの微かな安堵の息を吐き出した。レインが少しの間だけでも離れる。その隙に逃げよう。
と、思ったのに……
レインは寝台近くに落としていた荷物袋の中から手枷を取り出した。手枷は片手ずつを別々に拘束する造りで、一端をヴィクトリアの右手首に取り付けると、鎖で繋がれたもう一端を寝台の頭部付近にある飾り柵に括り付けてしまった。
これではこの場から動けない。ヴィクトリアは内心で焦ったが、唖然ともしていた。
この手枷はヴィクトリアに使用するつもりでさっきの店で買ったのだろうが、一体どういう状況を想定していたのか。そんなものを準備していたことが怖い。
大方ヴィクトリアの逃走防止のためだろうとは思うが、レインは何を考えているのか掴み辛い所がある。
凹んではいられない。レインが離れたこの隙に逃げることができなければ、心身を奪われてもう彼の奴隷になるしか道がなくなる。
ヴィクトリアは心のどこかでそれでも構わないと思っている部分もあった。レインのことが好きだから。
でも、納得できないことがあるのに一緒になってもどこかで上手くいかなくなってくる気がする。
(レインだって理由はわからないけど、急に態度が変わって少し変よ。きっと一度離れてお互いに頭を冷やすべきだわ)
とにかく手枷を外す鍵を見つけなければ。怪しいのは荷物袋の中だろう。
足を伸ばし、足首で引っ掛けて荷物袋を引き寄せようとしたが、あとちょっとの所で届かない。鎖を限界まで引っ張って身体の位置をずらし、再度挑戦する。
「ヴィクトリア」
届いたと思った瞬間声を掛けられてヴィクトリアの身体がびくりと跳ねた。
その拍子に足首に引っ掛けていた荷物袋が床に落ちて、袋の口が開き、中から母の形見の短剣が飛び出して床に転がる。
ヴィクトリアの顔からさーっと血の気が引いていった。先程の強烈な匂いの後遺症で気配を感じ取りにくくなっていたのと、荷物袋を取るのに必死でレインが戻ってきたことに全く気付かなかった。
「探しものはこれか?」
レインが手にしているのは金属製の輪っかに付いた二つの小さな鍵だ。たぶん手枷の鍵だろう。
(鍵はレインが持っていただなんて…… まあ、ちょっと考えればわかることだったかもしれないけど……)
「逃げるつもりだったんだな。また…… 俺を騙したな?」
ヴィクトリアは息が詰まった。
レインが極寒を感じさせるほどの冷たい表情をしている。
(怖い。レインが怖い)
レインは今さっき部屋から出て行ったばかりで、浴室の準備を終えて戻ったにしては早すぎる。
きっと、ヴィクトリアが逃げようとするかどうか試したのだろう……
ヴィクトリアはレインに気圧されて言い訳もできずにいる。
レインがヴィクトリアの肩を乱雑に掴んで寝台の上に押し倒した。
「レ、レイン…… お風呂……」
ヴィクトリアは顔を引き攣らせながら問い掛けた。
「後でいい」
レインが怒気を孕んだ低い声で返す。完全に目が据わっている。
(本気だ。レインはもう本気だ。問答無用でこのまま✕す気だ)
ヴィクトリアはレインの雰囲気が恐ろしくて、好きだったはずなのに、彼が別人のように思えてくる。
ヴィクトリアは泣いた。今度は本当の涙だったが、レインには効かない。
ヴィクトリアは未知の恐怖に震え上がった。やめてと叫んでもやめてもらえず、自分もただ痛みに耐えるのだろうか。一方的な行為に愛なんかない。
彼女は恐慌状態に陥った。
「やめて! お願い! 嫌! こんなのは嫌! 離して!」
レインが叫ぶヴィクトリアに口付ける。
怖いのに、口付けを甘く感じるなんて、自分はおかしくなってしまったのかもしれない。
レインが抱きしめていると、ヴィクトリアの震えが少しだけ収まる。ヴィクトリアはレインにしがみついて泣いていた。
少し大人しくなったヴィクトリアに、レインはやや眉を寄せながら、憐れむような視線を向けた。
「ヴィクトリア、君の全てを奪うことを許してほしい。その代わり、いっぱい愛してあげるから」
ヴィクトリアが何か言いかけたが、レインは彼女の口に浴室から持ってきていたタオルを噛ませた。
「んー! んーっ!!」
目を見開いたヴィクトリアが抗議するように首を振って唸るが、レインは無慈悲な表情に戻った。
ヴィクトリアは手枷の付いていない方の手で阻もうとするが、レインにあっさりと退かされてしまう。足もバタつかせるが体重をかけられて簡単に押さえられてしまった。
(もう駄目――!)
ヴィクトリアがぎゅっと目を瞑った時だった。
ドンドンドン――――!
いきなり部屋の扉が叩かれた。
「銃騎士隊です。グランフェル主任、ここを開けてください」
二人の動きがピタリと止まる。その場に時が止まったかのような静寂が訪れたが、すぐにまた扉が叩かれる。
「開けてください」
レインは――――その声を無視して再び手を伸ばしてくるが……
「んーっっ!」
ヴィクトリアが唸り声を上げて自身の存在を主張した。
(助けてー!)
唸り声しか出せないが、ヴィクトリアはここぞとばかりに物音を立てようとする。
ドンドンドン、と再び強めに扉が叩かれた。
「いるのはわかっています。開けてください。開けないなら強行突破しますよ」
ヴィクトリアの心の声が届いたのか、扉の向こうの銃騎士隊員の語気が強まる。
レインは…… 苦虫を噛み潰したような、不快さが滲み出た表情をしている。
「グランフェル主任!」
扉が叩かれてらレインは、はぁーっと特大のため息を吐いた。
寝台から降りたレインが部屋の入口に向かって行く。入口からこの寝台は死角になっているので、やって来た隊員からヴィクトリアの様子は見えない。
(何で銃騎士隊員が来たのかはよくわからないけど、この隙にここから逃げないと!)
しかし手枷の鍵はレインが持ったままだ。手枷は人間用らしく、獣人用に比べたら華奢な造りではあるが、引きちぎるほどの力が今のヴィクトリアには無い。
(どうしたら……)
困り果てて部屋の中を見回していたヴィクトリアの目が、窓の異変を捉えた。壁の上部に取り付けられた小窓は磨り硝子だが、その向こうに人の姿がぼんやりと見える。
窓の鍵がある部分を中心として、音も無く半円状の切れ目が入った。その切れ目から硝子が取り外されて、窓に穴が開く。
その穴から、にょきり、と、人の腕が現れた。




