3 一人読書
説明回です
ヴィクトリアは十二歳になった。
里は人間があまり寄り付かないよう、深い森の中を切り拓いた場所にあった。ヴィクトリアは里の端にある牧場近くの木陰に座り、本を読んでいた。傍らには他にも数冊置いてある。商人から買ったものだ。
ヴィクトリアはシドの住むレンガ造りの大きな族長の館に一部屋与えられてそこに住んでいた。シドのお手付きになった女たちも同様に一室与えられ、館の中でハーレムが形成されている。
館から外に出ていても里の中にいるならば追いかけて来ないので、気分転換に外で本を読んでいた。ばったり出くわすと捕まることもあるので、できるだけシドの視界には入らないように気をつけている。
母の死から二年経っても、シドの過度な触れ合いは変わらず続いていた。早く逃げ出したいと思うのに、どうやったらシドから逃げられるのか、全く分からない。
母が死んだ日に初めて逃走に失敗した後、一度だけ里から逃げようとしたことがあった。シドが「狩り」で不在になった日だ。母が死んですぐのことだった。
シドたちは人間の街に降りて、金や貴金属や食料を奪い、時には人間まで攫ってくる。それを彼らは「狩り」と呼んでいた。「狩り」はだいたい夜間に行うことが多い。
シドがいない。こんな絶好の機会はないと、その時はそう思った。
こっそり逃げたつもりだったのに、すぐに館にいた警備の獣人全員に追いかけられた。集団に追いかけられて腰を抜かしてしまい、あっさり捕まった。
そんなものが配置されていると知らなかったし、あとで聞いた話によると、「戻った時にヴィクトリアがいなかったらお前ら全員ぶっ殺す」とシドに言われていたらしい。
シドは一見粗雑なようだが、族長を務めているだけあり、周りの人物は見ている。
『どこにも行かない』
とは言ったものの、ヴィクトリアが本心ではシドの元から逃げ出したいと思っていることなど、お見通しのようだった。
けれど、いつかはシドを出し抜かないといけない。
いつ、どうやって出られるかはわからないが、必ずここから出ていこうと思っている。その時のために、人間社会のことを少しでも勉強しておこうと、ヴィクトリアは銃騎士隊と獣人についての本を読んでいた。
人間は獣人に対抗するため、銃騎士隊という対獣人に特化した部隊を組織している。
この国は王を戴く君主制が長らく続いていたが撤廃され、共和政となっている。
元々王家に仕える騎士団は存在していたが、近年獣人狩りに銃火器が広く出回るようになってきたため、変革の意味も込めて銃騎士隊の名を冠し再編された。
身体能力が高い獣人は銃弾を避けて接近戦に持ち込んで来ることも多く、殺傷能力の高い銃が登場しても剣術が廃れることはなかった。
銃騎士隊は十五の部隊に分かれており、各隊に番号が付けられている。一番隊は政権中枢の貴族や要人を守るのが主だ。
二番隊は特殊部隊で、情報収集、戦略、諜報、各隊への伝令、捕まえた獣人の取り調べもするらしい。
三番隊からが対獣人の実働部隊となっていて、地域ごとに組織されている。
特に三番隊は首都近郊を守るため、技能が高めの銃騎士で編成されているらしい。他の隊の応援に駆けつけることも多いようだ。
ちなみに女性は銃騎士隊に入ることはできない。もちろん反発や不満は多く、そこから出来上がったのがハンターと呼ばれる私設の職業だった。
獣人を最上のS級とA〜E級とに等級分けし、捕まえたり退治したりすれば等級に応じて政府から報奨金が出るというもの。
ハンターになるには試験などは無くて、ハンター協会に登録するだけでよい。年齢制限も無く女性でも登録可能だ。
銃騎士になるには面接を含む適正試験に合格し、十二歳になる年から入校できる銃騎士養成学校を卒業しないといけない。
実態は学校とは名ばかりの軍人養成所であり、卒業までのニ年間、殺人的とも呼ばれるかなり厳しいしごきに耐えないといけない。
中には途中で脱落してハンターに鞍替えする者もいる。銃騎士であるということはそれだけで社会的身分もあり、誉れ高きことだった。
ヴィクトリアは本の頁を繰り、気になる記述で手を止めた。
それは七、八年程前に制定された、とある法律のことだ。
『貴人もしくはそれに相当すると認めた場合に限り、獣人を奴隷として所持可能――――』
獣人奴隷との交配は硬く禁ずるとしているが、愛玩奴隷にしてしまう者もいて隠れて子を成す者も出るはずだと、本の中では批判的に書かれていた。
人間は獣人を公的に奴隷にできるようだ。獣人の見た目は人間とほとんど変わらないし、見目麗しい者が多いので、欲しがる人間もいるのかもしれない。
子を持つことを禁じているのは、獣人と人間との間に生まれた子供は必ず獣人となるからだろう。
奴隷。そんなものにはなりたくないなとヴィクトリアは思った。
ヴィクトリアはため息を吐き、本から顔を上げた。
目の前の牧場では、家畜の牛や羊が呑気に草を喰んでいる。
里は平和なものだ。シドのおかげかと思うと複雑なものはある。
母が亡くなって以降、「狩り」に何度か無理矢理に同行させられることがあった。
里から出られる数少ない機会だったが、「狩り」の最中に逃げることは断念している。「狩り」の間、シドから離れることはよくあったが、あの男は常にヴィクトリアの居場所を把握しているようだった。
同行した所で「狩り」なんてできないのだが、シドの目的はヴィクトリアを絶望させるためなのではないかと思っていた。
獣人族の圧倒的な力を見せつけるために。逃げようなんて心を折らせるために。
酷い有様で、言葉が出なかった。
一年程前に起こったあの時のことは、ヴィクトリアの胸に、罪の意識となってずっと刻まれている。
何とかして「狩り」自体をやめさせられないかと、思い切ってシドに言いに行ったことがあった。
『ガキはすっこんでろ』
と、取りつく島もなく一言凄まれて終わりだった。
ついでに捕まって匂いを嗅がれる羽目になり、最悪だった。
シドはヴィクトリアを特別に構うが、それは個人的なもので、里のことに口出しできる立場にはない。
自分は無力だと思う。
シドの凶行を止められず、里を出ることも叶わなくて、誰かを助けることもできない。
ヴィクトリアはやるせない気持ちになり、木の向こうに見える空を眺めた。
突然、ヴィクトリアは、はっとして立ち上がり、本をまとめて木の後ろまで移動した。直後、鮮やかな赤髪の男――シドが牧場の向こうを駆け抜け、その後ろを側近が何人か続いた。里の外にある森の中へ消えていく。
(また誰か来た)
獣人に恨みを募らせている人間は多い。シドを倒そうとしたり、攫われた人間を連れ戻そうとしたりして、時折人間が里の周囲までやって来る。その度に返り討ちにあう者がどれほどいたことか。
(シドを、倒す――――)
ヴィクトリアはしばし考え、首を振った。何度も首を振り、頭を抱えた。
(無理。絶対に無理。たぶんあの人は陸上最強生物だと思う)
どんなに優秀な銃騎士や屈強なハンターが束になってかかった所で、きっと勝てないだろう。
絵物語でよく読んだ、銃騎士が悪い獣人をやっつける、なんて、夢物語に過ぎない。
ちなみに里の周囲の森は、度々シドが出現するため、人間たちからは「魔の森」と呼ばれている。
魔の森を抜けて来られるのはシドから進入を許された商人くらいだ。
ヴィクトリアは移動するべきか考えたが、この場所に留まることにした。
(たぶん、すぐに決着が着く)
予想通り、短い時間でシドたちが帰って来た。
いつもと違うのは、シドがヴィクトリアとあまり年が変わらない子供を小脇に抱えていたことだ。
赤に近い明るい茶色の髪を持つ男の子だった。
男の子は、口や頭から血を流していてぐったりしていた。彼の血の匂いから、人間ではなくて獣人だとわかる。
(里にあんな子はいない。外から来た子供だろうか?)
血を流している以外にも怪我をしているようで、シドにやられたのだろうかと、ヴィクトリアはそわそわしながら顔を覗かせていた。
シドは急に足を止めると、ヴィクトリアがいる方向を振り向いた。
(こっちを見てる!)
ヴィクトリアは抱えていた本を取り落としてしまった。慌てて木の後ろに身体を隠すが、心臓がドクドクと音を立てている。
(まずい、どうしよう……)
シドはヴィクトリアがよそよそしい態度を取ると不機嫌になる。
これまでの類型だと、いつもの怖い顔で「何で隠れてんだよ」と言いながら近付いてきて、機嫌が直るまで匂いを嗅がれる。そんな図が頭に浮かんだ。
しかしこちらに来る気配はない。
ヴィクトリアはそろそろと顔を出した。
シドは既に踵を返し、歩き出していた。こちらに一瞥をくれただけで行ってしまったようだ。
ほっとする。
(良かった。シドは気まぐれだから)
シドは真っ直ぐ族長の館へと向かっていた。小脇に抱えられた少年は死んだように動かない。
(あの子は大丈夫なのかな?)
気になった。