34 とまどい
宿屋で当てがわれた部屋の中を見た途端、ヴィクトリアは固まった。部屋は簡素な造りで、大きめの寝台があり、テーブルと椅子が二脚置いてあるくらいだったのだが、枕は二つ置いてあるのに寝台が一つしかない。
(え? ここで寝るの? まさか一緒に寝るの?)
ちらりと横目でレインの様子を伺うが涼しい顔をしたまま表情が変わっていない。この人が何を考えているのか全くわからない。
レインから視線を外したヴィクトリアは改めて部屋の中をぐるりと見渡した。するとすぐに壁に扉が付いているのを見つけた。
扉を開けて進み、その先の光景を見たヴィクトリアは感動でうち震えた。
お風呂。浴槽がちゃんとついている。何の変哲もない乳白色の浴槽だが、ヴィクトリアには光沢を持ったそれが光り輝いているかのように眩しく見えた。
ずっとシャワーばかりだった。しかも水。ここでならお湯を溜めてゆっくり過ごすことができる。ヴィクトリアはニコニコと満面の笑みで後ろからやってきた男を振り向いた。
「レイン、お風呂に――」
入ってもいい? という続く言葉を飲み込んだ。
(この人はシャワーを浴びただけで襲ってきたのだから、お風呂に入ってもいいか聞くだなんて、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものじゃない)
高揚していた気持ちが沈んでいく。ヴィクトリアは悲しそうな顔で浴槽を眺めた。
「俺は部屋の外に出ているから、好きなだけ入りなよ」
ヴィクトリアの心情を汲み取ったらしきレインが声をかけてきた。しかしそう言われても素直には承服できない。
なにせレインは鍵が一本しかないと見せかけておいて二本目を隠し持っていたような人物だから、彼を全面的に信じてしまって後で泣きを見るのは嫌だ。
戸惑うヴィクトリアにレインがさらに言葉をかけた。
「あの時だって君がただ単にシャワーを浴びたいだけだとわかっていればあんなことはしなかった。それに朝までは手を出さないと誓ったし、約束は守る」
「でも……」
「鍵を締めればいいだろ」
浴室及び脱衣所には内鍵がついていた。
(至れり尽くせり!)
浴槽にお湯を張ったヴィクトリアは、ルンルンと気分を弾ませながら身体中を泡だらけにしていた。全身すっきりさっぱりと洗った後、長い髪の毛をまとめて湯船に浸かった。至福のひとときだ。
身体を温めながら、先程身体を洗いながら気付いてしまった鎖骨付近の痕を指でなぞった。
洞穴でレインに付けられたものだが、嫌な気はしない。むしろ嬉しい。なんだろうこのむず痒い感覚は。
シドに痕をつけられてもこんな気持ちにはならなかった。身体にもレインの匂いがついていて、彼の匂いを感じると胸が温かくなってくる。
(いけないわ)
ヴィクトリアは頭をぶんぶんと横に振った。
自分たちは敵同士。恋をするなんて以ての外だ。抱いてほしいと言ったのはあくまでもシドへ対抗するためであって、緊急避難めいた意味があった。シドに奪われる懸念がなくなった今、レインは敵だからやめた方がいいと頭ではわかっているのに、彼のことを好ましく思う気持ちはなくならない。
(そもそもこの気持ちは恋なんだろうか?)
色欲に溺れているだけではないのか?
レインを異性として強く意識し出したのは最初に口付けた時からだ。
ヴィクトリアはそれまで、交わって番にさえならなければ相手に強く惹かれることはないと思っていた。
(口付けしたくらいで相手の匂いに当てられるなんて聞いてない)
それとも、こういうものなのだろうか?
(獣人にとってはこれが普通のことで、身体を結べばさらに愛情が増してとんでもないことになる……?)
ヴィクトリアは女子と恋話をしたことがない。経験者から話を聞くこともなかったので、現在自分の身に起こっている現象が正常なのか異常なのか判断がつかなかった。口付けのみで相手に好意を抱くとは、ヴィクトリアだけが特別おかしいのかもしれない。
(この後私は一体どうなるのだろう)
朝になったらまた銃騎士隊の屯所にでも連れて行かれて囚人生活だろうか。それとも、結局は奴隷に落とされてレインに引き取られてしまうのだろうか。でもジュリアスにレインは嫌だと言ってしまったから、もしかしたら相手は別の人かもしれない。
(奴隷にはなりたくない。自由を奪われるのはもう嫌だ)
差し迫った問題としては、この後あの寝台でレインと一緒に寝るのだろうか?
(無理だ)
レインは朝までは何もしないと言ったけど、そんなのわからない。また襲われたら今度は流されてしまうかもしれない。
ヴィクトリアは口元辺りまでお湯に浸かってこれからのことを考えながら、一つの結論に達した。
(里に帰ろう)
シドはもう里にはいない。これからは何にも怯えず、誰にも干渉されずに自分の人生を自由に生きていきたい。
(レインとのことは忘れよう。彼の奴隷にはなれないし、時間を置けばレインの匂いもこの気持ちも抜けていくはずよ)
番は里に帰って気持ちが落ち着いてから、自分に合った人を探せばいいと思った。お互いを信頼し合えて、ヴィクトリアのこれまでのことも理解してくれるような人がいい。
(とにかく隙を突いてレインから逃げよう)
ヴィクトリアは立ち上がった。
身支度を整える。下着が上下共にないのはもうどうしようもないが、ため息が出てきてしまう。恥ずかしいのでできるだけ早く何とかしたい。裸足で地面を歩くのも時々痛いので、靴がないのも辛い所だ。
(明日になったら買ってもらえないか交渉してみましょう)
脱衣所から部屋に戻る。レインは部屋の中にはいない。匂いを探ると部屋の外で扉に寄りかかるように座り込んでいるのがわかる。
(いい匂い……)
ヴィクトリアは吸い寄せられるように数歩ふらふらとレインがいる方向へ歩みを進めてから、はたと止まる。
(だめだめ! さっそく匂いにつられてどうするの! しっかりしなきゃ!)
気合を入れ直し、きりっとした面持ちで扉に向かう。
「レイン、終わったわよ」
扉を開けるとレインが立ち上がり、黒曜石の瞳でヴィクトリアを見据えた。
「いい匂いがするね」
「そ………… そうかしら?」
それはあなたよ、と言ってしまいそうになり、誤魔化す。
「あなたも疲れたでしょうから部屋の中で休んで。問題は寝台だけど、何か仕切りでも作ってお互いに侵入しないようにしましょうか」
残念ながらこの部屋で寝台以外に寝られそうな場所は見当たらない。強いて挙げるなら床に掛け布団を敷いて寝るくらいだが、流石にそれには抵抗があった。
「俺は朝までここにいる。約束を破りたくないんだ。君は安心してあの寝台を一人で使いなよ」
「え、でも……」
「風呂上がりの君は凶器だ」
「凶器?」
ヴィクトリアは言葉の意図がわからずに小首を傾げた。
ヴィクトリアを凝視していたレインは、うっと呻いて彼女を見ないように横を向き額の辺りを押さえた。
レインの顔が赤い。
「……そうでなくても一緒の寝台とか無理だ。いや、一緒の部屋に…… 一緒の空間にいること自体が無理なんだ。君が美しすぎて自分を抑えられる自信がない」
ヴィクトリアは気付いた。小屋で監視されていた時の無表情やさっき部屋を見た時の涼しい顔、あれは作ったものだと。
(この人たぶん私のように本心を隠して表情を作り込むのが上手い人だ)
それなのに感情を隠さずに顔を赤くしているのは、限界を超えて耐えられなくなったことを示す。
ヴィクトリアは身の危険を感じた。
「襲うかもしれない」
瞬間、ヴィクトリアはバタンと勢いよく扉を閉じた。
ドクドクと心臓の動悸が激しい。動揺が酷かった。
(襲われたい…… いや違う!)
襲われたら困る。
(触らぬ神に祟り無し!)
長時間の騎乗でレインも身体を酷使しただろうことは予想できたが、ヴィクトリアは彼の言葉通りレインのことは放っておいて一人で寝ることにした。
夜はもうかなり更けている。ヴィクトリアは寝台に上がり横になった。
扉の外にレインがいる。荷物の一式はレインが持っているので部屋の鍵も彼が持っている。内側から鍵をかけた所で意味はない。
ヴィクトリアは一睡もできなかった。
早朝、ピチチ…… と小鳥が鳴いている。外が薄ら明るい。
レインは起きている。ヴィクトリアも眠れずにじっとレインの様子を探っていたが、彼はあれからずっと起きているようだった。
(レインはちっとも休んでいない。やっぱりよくない)
ヴィクトリアは起き上がり扉へと向かった。
「レイン」
扉を少し開けて声をかけると、なぜか睨まれた。ヴィクトリアは構わずに扉を開け放つ。
「私が外に出ているから、あなたは中で眠った方がいいわ」
「それはできない。君を逃がすわけにはいかない」
まあ確かに、そんなことをすれば逃げ出す絶好の機会ではある。
「でも休まないと、身体がおかしくなってしまうわよ」
「この数日は元々夜勤だったから平気だ」
「だったらこれからが眠る時間帯でしょう?」
「寝ない。寝たら君がいなくなる」
「そんなこと言ったら私と一緒にいる間はずっと寝られないじゃない」
「三、四日くらい寝なくても平気だ」
「身体を壊すわよ」
「壊れてもいい。君を失うことに比べたら些細なことだ」
(随分と極端な発言をする人ね)
ヴィクトリアはため息をついた。
「わかったわ。あなたが寝ている間は逃げない。約束する。あなたが手を出さないって約束を守ってくれたから、私も守る」
レインが何か言いかけたが、それよりも早くヴィクトリアは彼の手を取って中に引き入れた。レインは抵抗せず素直についてきた。
「ヴィクトリア…… 一緒に寝てくれる?」
「まだ朝になりきってないわ。約束は守って頂戴」
寝台の前まで来たヴィクトリアはレインに手の平を出した。
「荷物と剣や危ない物を渡して。そんなものを抱えて寝るつもり?」
レインが警戒するように眉根を寄せて表情を厳しくした。
「攻撃したり荷物を取ったりなんてしないわ。何もしない。信用して」
レインはしばし考えを巡らせるように沈黙していたが、ヴィクトリアを見つめて「わかった」と答えた。
「ただし、」と条件はつけてきたが。
「俺が寝てる間、俺の近くにいて。一緒に寝ろとは言わない。でもそばにいて。俺から離れないで」
変な条件だと思ったが、ヴィクトリアは了承した。
軽装になったレインが寝台に横たわる。ヴィクトリアは椅子を寄せて寝台の脇に控えた。レインが手を握りたいと言うので、二人の手は繋がれている。
自然と、昨夜シドから走って逃げた時のことを思い出した。最初レインはヴィクトリアを抱えていて、重かったと思うのに命がけでシドから守ってくれた。
レインの規則的な寝息が聞こえてくる。
(寝ている間も整っているのね……)
ヴィクトリアはレインの顔をまじまじと眺めた。
銃を突きつけられた時は驚いたし、ジュリアスの言うように性格はちょっと苛烈な所はあるが、基本的にレインは優しい人なのだろうとヴィクトリアは思った。汚れた足を洗ってくれたし、ヴィクトリアのために野宿じゃなくて宿屋を探してくれた。
酷いことはいくつかされているのに、それら全てを許してもいいと思ってしまっている。
(絆されているんだろうか。きっと絆されているんだろうな……)
レインからは相変わらずいい匂いがしていて、ヴィクトリアは惹きつけられてしまう。
(離れたくないな……)
さっきの決意が瓦解していくのを感じる。
(意志が弱すぎる)
繋いだ手が温かくて、ヴィクトリアの身体が熱を持つ。トクトクと自分の心臓が高なって、甘く響いている気がした。
窓の外から暖かな陽の光が入り込み始めていた。とても穏やかだ。
(何だろう………… 幸せかもと、思ってしまった。
どうしよう……)




