32 エスケープ
レインと唇が合わさる。
その瞬間世界が変わった。
獣人の血の匂いにまみれていたレインの身体から、彼自身の匂いだけをより強く感じるようになった。レインの匂いに包まれていると、心臓をぐっと掴まれたように苦しくて、なのに血液は全身を駆け巡って喜びに沸き立っている。
レインとの初めての柔らかな感触に頭がくらくらした。
だめだと理性が警告を発している。
これ以上すると彼から離れられなくなってしまう。
息継ぎの瞬間に一度離れようとしたが、レインの唇が追いかけて来て再度塞がれた。
ヴィクトリアは口付けの甘美な感触に蕩けていた。
急に室内に人間の男の匂いが増えても、ヴィクトリアはそんな事どうでもよくなるくらい、夢中になっていた。
レインは茶髪の少年オリオンが現れたことに気付くと、ヴィクトリアを自分の胸に抱き込んだ。
ヴィクトリアはより近くから香るレインの匂いに心臓が疼き、早い速度で鼓動が刻まれるのを感じていた。自分の変化に戸惑いつつも、胸から香るレインの匂いを嗅がずにはいられない。いけないことをしているように感じながら、レインの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。頭がぼうっとする。
ヴィクトリアはレインの身体に手を回した。
レインはヴィクトリアが自ら抱きついてきたことに気付くと、彼女の唇を啄んだ。
二人が睦み合っているのを目の当たりにしたオリオンは目を丸くしてしばし固まった後、「うわーっ!」と絶叫した。
「レイン! あれほど姫さんに手を出すなって言ってたのに、何やってんだよ!」
「ヴィクトリアが綺麗すぎて無理だった」
「自重しろ馬鹿野郎! 俺たちを殺す気か!」
レインはオリオンを無視してまたヴィクトリアと口付けた。ヴィクトリアは頬を染めながら目を閉じてされるがままだった。
オリオンがレインを羽交い締めにしてヴィクトリアから引き剥がす。
「イチャつくな! 今本当にやばい状況だからそういうのは後にしてくれ! シドがめちゃくちゃ怒ってる! とりあえず姫さんから離れろ!」
ヴィクトリアから引き剥がされたレインは不満そうな顔をオリオンに向けている。
ヴィクトリアもレインが離れた瞬間、一抹の寂しさを感じ、どうして邪魔するのとばかりにオリオンを恨みがましい目で見てしまった。その眼差しを受けたオリオンがうっと呻る。
「姫さん、そのだだ漏れの色気なんとかして。困るんだよ。俺にはどうすることもできないし…… 拷問みたいだ」
「ヴィクトリアは俺のだ」
顔を赤くしてたじろぐオリオンに、レインが睨みを効かせて銃口を向ける。
オリオンはブチ切れた。
「お・ま・え・な! 銃を向けるな! 誰のせいでこの状況を招いたと思ってんだよ!!」
オリオンがレインの首に腕を回して締め始める。
「抜け駆けして一人だけ悲願成就しやがって! 年齢と彼女いない歴が同じ俺への当てつけか! 独り者の恨みを思い知れ!」
オリオンはぎりぎりとさらに激しく首を締めている。何か私怨も混ざっているようだ。
苦しそうに顔を歪めたレインが降参だとばかりにオリオンの腕を叩く。
ドォン、と音がして地面が揺れた。オリオンが腕を放すとレインが咳き込む。
「殺す気か!」
「俺が殺さなくてもこのままじゃシドが来て姫さんに手を出したお前は地獄行きだ」
「っ……」
ヴィクトリアはまた震え出した。
他の男性を求めて口付けてしまった。シドはヴィクトリアを絶対に許さない。怒り狂うシドがここに来たらどうなってしまうのだろう。怖くてどうしたらいいのかわからない。
怯えるヴィクトリアをレインが近付いて抱きしめた。難しい顔をしたオリオンがレインの肩を掴む。
「不用意に姫さんに触れるんじゃない。頼むからこれ以上奴を刺激するな」
「わかってる…… でももうだいぶ手遅れだろ」
レインとオリオンの二人とも顔を強張らせている。足止めの効果虚しく、シドとの距離はかなり近い。
早くここから逃げないと――――
「状況はどうなってる?」
「今兄さんと俺しかいなくて、人数がいないでせいで弱まった封じの魔法をシドが力技でねじ伏せてる。半分くらい封印はまだ効いているけど、破られるのも時間の問題だ。本当にあの化け物は一体何なんだろな。今は兄さんが一人で抑えてる」
「他の奴らはどうしたんだ?」
「総大将はいつもの如くふらっとどこかに消えてるし、ノエルは女の所に行っちまったし、セシルは明日の訓練休めないとかで寮に帰っちまったよ。今全員呼んでるけどさ。セシルはしょうがないけど約二名のわがままがなければシドが怒り狂っても抑えられたはずだ」
オリオンはヴィクトリアを抱え上げたレインを見上げた。
「安全な所まですぐ飛ばす」
「いや、このまま逃げる。完全に気配がなくなったらシドはここからすぐ離れるだろ。取り逃がすわけにはいかない。全員揃うまではこっちの場所が把握されていた方がいい。馬小屋まですぐそばだ」
懐から二本目の鉄格子の鍵を取り出したレインが解錠しながら答える。レインは椅子の上の鍵とは別に実はもう一本隠し持っていたようだ。
「――――――」
叫び声が聞こえる。唸るような怨嗟の声だ。二人の動きが止まる。ヴィクトリアは悲鳴を上げてレインに強くしがみついた。
オリオンがはっとした顔をする。
「破られた! 早く行け!」
オリオンが叫ぶ。オリオンの手の平にバチバチと爆ぜるような光が現れた。
ヴィクトリアを抱えたレインが走り出したのと、小屋の壁を破壊して激高するシドが現れたのと、シドに向かってオリオンが電撃を繰り出したのがほぼ同時だった。
「人間如きがぁぁぁっ! 殺してやる! 俺の女を汚したなぁぁっ!」
電撃を避けたシドがレインに向かって跳躍する。シドの手が届く寸前、彼らの間に割って入る者がいた。
ジュリアスだ。
宵闇でよく見えないが、ジュリアスの剣の周りに靄のようなものがかかり、空間が歪んでいる。ジュリアスは下方向からシドを斬り上げようとするが、シドはレインを追った時に破壊した鉄格子の一部を拾い上げていて、それで斬撃を受け止めようとする。
ジュリアスの剣は重く、いとも簡単に鉄の棒を断つ。威力がやや削がれた剣撃をシドは身を反らせることで回避した。続け様に放たれるジュリアスの剣を避けながら屋外に出たシドは、小屋の周りにいた銃騎士隊員たちには構わず、ヴィクトリアを抱くレインを追い始める。
ヴィクトリアが嗚咽している。レインはヴィクトリアを抱く腕に力を込めた。
「泣くなヴィクトリア。あんな奴に君は渡さない」
銃騎士隊員たちはシドに向かって発砲するが、シドは恐るべき速さでそれを全て避けていく。シドは殺意を持った目で近くにいた銃騎士隊員を睨むと、彼の首を落とそうと手刀を繰り出した。隊員が驚きで目を見開くが、寸前でとある少年がシドに斬りかかったことで攻撃目標が変わる。
躍り出たのは、清廉な雰囲気を持つ美しい顔立ちをした十七、八歳くらいの金髪の少年だ。
「ゼウス!」
助けられた隊員が少年の名を叫ぶ。ゼウスは舞うように身を翻しシドの一撃目を避けてから剣撃を打ち込む。ゼウスは身のこなしが軽やかで早い。シドの攻撃をかわしながらゼウスは速さで押して斬り込んでいく。しかしシドもゼウスの全ての攻撃を簡単に避けていく。
シドは目を細めてゼウスを見た。シドがハッと笑う。
「何だ、お前は――――――じゃないか。――――――――――――」
シドに何事かを吹き込まれたゼウスがかっと目を見開く。冷静さを欠いたゼウスの一瞬の隙を突き、シドはゼウスの剣を奪った。シドが袈裟懸けに斬ろうとするが、ゼウスの胴体に当たりかけたところで駆けてきたジュリアスがゼウスの身を引き致命傷を避ける。攻撃は避けたが体勢を崩したゼウスは斬撃の風圧だけで吹っ飛ばされた。
ジュリアスが叫ぶ。
「全員離れろ!」
瞬間、轟音と共に閃光が頭上に煌めく。天空からの雷撃がシドに襲いかかるが、シドは剣を投げつけて雷をそちらに引き寄せた。シド自身は素早い身のこなしで跳躍しその場を離れる。
小屋の屋根の上に立っていたオリオンは舌打ちした。
シドの進行方向の地面から鎖が幾本も生えてくる。それらは意志を持ったかのようにうねりながらシドに向かって伸びていった。
空が光り、轟音が轟く。ヴィクトリアは走るレインに抱かれながら小屋があった方向を見ていた。
「降ろして」
レインは腕の中のヴィクトリアを見た。彼女はまだ震えているが泣くのをやめている。
「大丈夫、自分で走れるわ」
レインはヴィクトリアを地面に降ろした。二人は手を繋ぎ、共に駆けていく。
(シドの元にはもう戻らない。私は、幸せになりたいの)
途中何人もの銃騎士隊員とすれ違った。彼らは一様に緊張した顔をしている。小屋の方向へ向かおうとする人の波とは逆方向に二人は走った。
走りながら周囲を見回していたヴィクトリアは、とある人物と目が合った。
ほとんど動く者たちが多い中、その銃騎士は立ち止まりこちらを見ていた。灰色の髪と瞳をした、三十代くらいの精悍な顔立ちをした男だった。男には妙な空気感があり、瞳の奥が凪いでいてどこか神秘的な感じがする。男は周囲の者たちとは違い、焦りの色が一切なくひどく冷静に見えた。
男はヴィクトリアから視線を外すと――――消えた。
「!」
ヴィクトリアは驚く。いきなり人が消えた。走っていなくなったわけではなく、文字通りその場から姿を消した。男がいたはずの空間には闇だけが広がっている。
最初からそこには人なんていなくて見間違いだったのだろうか。
(でも確かにあの人はそこにいた……)
「ヴィクトリア、こっちだ」
レインに手を引かれて建物の角を曲がる。今の不思議な人のことは気になったが、それよりもまずは逃げる事が先決だ。
曲がるとすぐに馬小屋まで辿り着いた。レインは一頭に鞍を置くと手綱を引いてヴィクトリアの前まで連れてきた。黒い瞳が優しそうな栗毛の馬だ。レインは馬に跨がるとヴィクトリアを引き上げて前に乗せた。
馬小屋を出て疾走し、砦の門をくぐる。
九番隊砦は山の麓にあり自然に囲まれているが、砦から続く道は整備されていて馬に平坦な道を走らせることができた。ヴィクトリアは砦がある方向を振り返る。
時折空が光り、地鳴りや何かが爆発するような音がしたが、シドが叫ぶ声は聞こえない。
砦はやがて遠くなり、見えなくなった。




