22 逃走の果て
ヴィクトリア視点→三人称
「助けて! お願い! 開けて! 助けて!」
叫びながら家の戸を叩いた。窓からは明かりが漏れていて、彼らはまだ寝ていないようだ。
「ヴィクトリア?」
ヴィクトリアのただならぬ声にすぐさまリュージュが返事をして、戸が開いた。ヴィクトリアは玄関内に飛び込むとすぐに戸を締めた。
リュージュは昼間の婚礼服からは着替えていたが、寝間着ではなかった。
リュージュの身体からするサーシャの匂いの濃さが昼間と変わらない。リュージュの背後にサーシャの姿が見えたが、やはり寝間着ではなかった。
(まさかまだちゃんと身体を繋げていないだなんて…… 寝る準備すらしてないってどういうこと?)
結婚式を挙げておきながらこんな時間までけじめを付けずにこの二人は一体何をやっていたのだろう。一瞬突っ込みたい気持ちが芽生えたが、この二人の関係性は二人だけのものだ。ヴィクトリアが口出しできる立場にはないので思考から外す。
ヴィクトリアの姿を見たリュージュの瞳が驚愕に見開かれる。
「ヴィクトリア……」
ヴィクトリアの首と、引き合わせたブラウスの隙間から、シドに付けられたばかりの痕が見えた。
これまで付けられた痕のほとんどをヴィクトリアは隠し続けてきた。
それでもリュージュは何度か目撃したことはあった。ただ、今回ほどの痕を目にするのは初めてかもしれない。
匂いだってシドに付けられたばかりの濃いものがこびりついている。何があったのか大体の所はすぐにわかるだろう。
「リュージュ、助けて…… 私、シドの番にされてしまう」
涙をこらえながら必死に訴えるヴィクトリアを見て、リュージュの瞳に激しい怒りの色が現れる。
「あのクソ野郎……っ」
リュージュはぎりぎりと歯噛みする。ヴィクトリアは怒りに震えるリュージュの腕を強く掴んだ。
「ねえ、リュージュ、私達は、姉弟なの?」
今そんなことを確認している場合ではないのかもしれないが、今聞かなかったらこの先聞く機会が無くなってしまうような気がして、ヴィクトリアの口からそんな言葉が衝いて出た。
シドからではなくて、ちゃんとリュージュの口から聞きたかった。
リュージュは、はっとしたような顔をしてヴィクトリアを見返してから、少し罰が悪そうに下を向いて視線を逸らした。
「…………ごめん、ヴィクトリア。今まで黙ってて…… そうだよ、俺たちは姉弟なんだ。 …………あんな奴が自分の父親だって認めるのがどうしても嫌で、自分の出生について話したくなかったんだ」
「リュージュ、こっち見て。怒ってないよ。親友で、姉弟。それでいいじゃない。一つ絆が増えたわ」
眉根を寄せているリュージュに、ヴィクトリアが僅かに微笑んだ。
リュージュがさらに何かを言おうとした時だった。二人して同時に身体を強張らせた。
殺気。遠くからでもわかるほどの凄まじい殺気を纏った者がこちらに近付いて来る。
シドが来る。
恐怖が蘇ったヴィクトリアは悲鳴を上げてその場に蹲り、ガタガタと震え始めた。
リュージュは部屋の中から剣を引っ掴んでくると、外へ出て行こうとする。
「話は後だ! ここは俺が何とかするから、とにかくお前は逃げろ!」
「リュージュ! 待って!」
叫んだけれど、リュージュは戸を開けて外に出て行ってしまった。激しい音を立てて戸が閉じられる。
「リュージュ!」
(何てことを! 私は何てことをしてしまったの!)
恐怖で自分の身を守ることしか考えられなかった。勝てるわけがない。あの化け物には誰も敵わない。リュージュが死んでしまう。
閉じた戸に向かおうとしたヴィクトリアの腕を掴んで止める者がいた。
「行っては駄目です!」
サーシャだった。必死な様子でヴィクトリアを引き止めている。
「行ったらシド様に捕まってしまいます! 近年あんな状態になったシド様を私は知りません! 捕まったらどんな酷い事をされるかわかりませんよ! シド様に一切姿を見せないようにしてここから逃げるのです!」
「でもこのままじゃ、リュージュが死んでしまうわ!」
脳裏に蘇るのは、シドに痛めつけられて血を吐くリュージュの姿だった。自分のせいでリュージュがまたあんなことになってしまったら、ヴィクトリアはもう、生きていられない。
「大丈夫です。あの人は死にません」
取り乱すヴィクトリアに対し、サーシャは冷静になって言葉を紡ぐ。
「あの人を信じてあげてください。あの人が強くなったのは、全部、ヴィクトリア様を守るためなんですから」
「でもっ!」
「あなたを助けたいんです!」
叫んだサーシャの瞳に強い光があった。ヴィクトリアは涙を止めた。
「あの人の思いを汲んであげてください。大丈夫です。あの人は死なせません。すぐにウォグバード様たちを呼んで参りますから、ヴィクトリア様は逃げてください」
サーシャはヴィクトリアの開かれたままだったブラウスのボタンを留めてくれた。部屋の中から適当な薄手の外套を掴んで持ってくると、ヴィクトリアの肩に掛けてくれる。外套からはリュージュの匂いがした。
「あなたが無事に逃げる事、それが私達の願いです」
ヴィクトリアはサーシャを見つめた。この人は何て芯が強く優しい人なんだろう。
「サーシャ…… ありがとう」
ヴィクトリアはサーシャに連れられて家の裏口へと走った。
「せっかくのお祝いの日なのに、こんなことになってごめんなさい」
「そんなことはいいんです」
戸口に立ったヴィクトリアは、サーシャを振り向くと、彼女の深い青色の瞳を見つめた。
「サーシャ、リュージュのことよろしくね」
「もちろんです。死なせませんから」
「それもだけど、これから先もずっと、リュージュのことをよろしくお願いね」
サーシャはなぜだか口元をきゅっと引き結んで硬い表情をした。サーシャからの返事がない。すると、遠くから轟音が響いてきた。リュージュとシドが争っている音だ。
「ヴィクトリア様! 早く!」
最後の表情に消化不良のような気持ちを感じたが、ヴィクトリアはサーシャに一つ頷きを返すと、促されるまま戸口から飛び出して一目散に魔の森へと向かった。
ヴィクトリアは走った。走り抜けた。
後ろは振り返らない。
リュージュもサーシャも、きっと死にはしない。
信じる。信じて、走り抜けた。
母が死んだ日にかつて来た丘を通り抜け、「狩り」の時ですら訪れたことのない場所を走る。
この国の地図は頭に入っている。港まで行き、船に乗って、別の大陸まで行く。それもいいかもしれない。
どこか、どこでもいい、シドの手の届かないどこか遠くまで――――――
どれくらい走っただろう。夜明けはまだ遠い。いくつかの村や街に入りそうになったが、人間に見つかるわけにはいかない。迂回して人間たちが通常使う道は通らずに、岩だらけの坂道や鬱蒼とした森の中を進む。
目指すは港まで。出港しそうな船の船底にでも潜り込んでしまおう。走りながらそう決めた。
ヴィクトリアの額からは汗が流れ、喉はからからだった。現在位置はわかっているつもりだが、ここから港がある場所までは遠すぎる。全力疾走しても朝までに着くのは不可能だ。シドが追いかけてくる可能性を考えると、何とか今日中にこの国から出てしまいたい。
ヴィクトリアは次に人里が見えたら馬を拝借しようと決め、少しだけ休むことにした。
ヴィクトリアがいるのは樹木が生えているだけの林の中で、隠れられそうな場所はなかなか見当たらない。少し走った所で大樹の幹に人が一人入れそうな樹洞を見つけたので、そこに身を潜ませることにした。
一度座り込んでしまうと身体から強く疲労を感じた。眠るつもりはなかったが、つい、うつらうつらとしてしまう。ヴィクトリアは意に反して少しだけ寝入ってしまった。
ザッ、ザッ、ザッ……
草を踏む微かな足音が聞こえ、はっとしてヴィクトリアは薄い眠りから目覚めた。シドが現れることを恐れ気が張っていたので、そこまで深い睡眠ではなかった。
辺りの気配を探る。風が吹いていて周囲の匂いを感じ取りにくい。けれど足音は確実に聞こえてくる。
(誰かがこちらに来る)
緊張と不安がヴィクトリアの全身を襲った。
足音は一人。どこか目的地へ向かい通り過ぎる風ではなかった。足音は時々立ち止まり、辺りを歩き回っている。
(何かを探している……?)
ヴィクトリアは肝が冷えた。身体が震え出す。
(もしシドに見つかったら――――)
ヴィクトリアは震える手でガーターホルダーから短剣を抜いた。シドを刺した時の血は拭ったけれど、完全ではないためまだ赤く汚れている。
ヴィクトリアは短剣の切っ先を自分の胸に向けた。
(シドだったら、この短剣を突き刺して死のう)
足音が近付いて来た。ヴィクトリアの呼吸が浅くなっていく。
風向きが変わった。その人物の匂いが届く。
(人間だ。人間の男の匂い)
シドではなかった。けれどヴィクトリアは全く安心出来なかった。その男の全身から、こびりついた血の匂いがしたからだ。獣人の血の匂い。
(何人殺したの……)
たった今付いたものではない。血の匂いは長年染み付いて離れなくなってしまったものだ。その男は獣人ばかり何人も殺している。
(見つかったら、きっと私も殺される)
この樹洞から出て逃げるべきだろうかと考えたが、男との距離は近い。男からは火薬の匂いもして、銃を何丁か持っているようだった。背中を見せて撃たれたら終わりだ。
(こっちに来ないで……)
短剣を握りしめたまま身体を縮こまらせ、祈るように時が過ぎるのを待つ。
ザッ――――
足音が目の前で止まった。軍隊靴の先が見える。男の持つカンテラの明かりが地面を照らしていたかと思えば、段々とその光の範囲がヴィクトリアの方へ移動してくる。
(見つかった……!)
動揺して身じろぎながら強く短剣を握り込んだ拍子に、自身に向けていた短剣の先端がヴィクトリアの服を裂き、彼女の胸の皮膚を軽く傷付けた。
ヴィクトリアは男を見上げた。顔に当たる光が眩しくて、男の様子はわからない。男がはっと息を呑む気配がしたと思ったら、手が伸びてきて短剣を奪われてしまった。
「返して…… お母さま、の、形見、なの」
舌が上手く動かない。耳鳴りがして身体が思ったように動かせなかった。たった今、短剣で少し傷を作ったせいだと気付いた。
(こんな場面なのに自分で作った薬にやられるなんて、私はなんて間抜けなの……!)
上手く焦点が定まらない視界の中、光に慣れて男の姿がぼんやりと見えてくる。
黒髪のその男は、獣人と並んでも見劣りしないほど顔が整っていた。しかし彼自身の身体から発せられている匂いは間違いなく人間のものだ。腰に剣を二本差し、二列ボタンの藍色の制服の上から外套を羽織っていて、背中に長銃一本と袋状の荷物入れを背負っている。その特徴的な藍色の隊服は、本の中の写真で見たことがあった。
(銃騎士。よりによってなんで獣人の天敵に見つかるのかしら。運が悪いにも程がある)
黒髪の銃騎士はヴィクトリアを睨んでいた。
ヴィクトリアは痺れ薬のせいで既に声が出せない状態だった。身体中の自由が効かない。
(駄目、意識をちゃんと保たないと……
でないと私、この人に殺される――――――)
瞼が重い。視界が狭くなっていく。ヴィクトリアは抗うことも出来ずに、そのまま意識を失った。
******
黒髪の銃騎士――レインはヴィクトリアの全身を観察する。奪った短剣に血は付いているが、彼女に大きな怪我はない。胸の辺りの衣服に微量な鮮血が付いていて、それが短剣の先端に付いた僅かな鮮血と符号する。
レインはヴィクトリアの首に手をかけた。
脈と、息があることを確認する。次いで短剣を眺め、拭われた古い血の一部が微かに薄く変色していることに気付いた。
「痺れ薬……」
レインは懐から取り出した布で刃の部分を包むと、背中の荷物入れの中に放り込んだ。
レインは座り込み、手を伸ばしてヴィクトリアの頬を撫でた。
「……」
レインは無言のままヴィクトリアを抱え上げると、その場を後にした。




