16 失恋
ヴィクトリア視点→三人称
頭と身体にタオルを巻いただけの状態で、ヴィクトリアは鏡台の前に立った。身体に巻いたタオルを外し、先程シドに付けられた痕を眺めた。首と、胸に近い所と、お腹にも痕が付いていた。
付けられたばかりだから赤みが強い。湯で身体を温めたせいかよりくっきり浮かび上がっている。シドの匂いもしばらく取れないだろう。
(早くここから逃げなきゃ。いつか取り返しがつかなくなる)
しかし安全に逃げる方法がない。最近はシドに付きまとわれているし、リュージュに会いに行くのさえ四苦八苦している。
それに、里から出るということは、リュージュとさよならするということだ。
リュージュと離れたくなかった。いずれやってくるその時に、自分はその選択ができるのだろうか。全く自信がなかった。シドに襲われかけた衝撃が尾を引いていて、ヴィクトリアの精神は弱りきっていた。
とにかく服を着ようと、ヴィクトリアが頭のタオルを外した時だった。部屋の扉が叩かれる。
誰か来た。
扉は金属製であまり隙間がないように作られている為、廊下の匂いは扉に近づかないと察知できない。食事を運んだり洗濯物を回収しに訪問する者はいるが、今はその時間ではない。
ヴィクトリアは警戒した視線を扉に向けた。
「ヴィクトリア、いるか?」
(その声は……)
「リュージュ?」
思わず名前を呼んでしまってから失敗したと思った。居留守でも使えばよかった。
「最近会ってなかったから心配になってさ。大丈夫か? 身体の具合でも悪いのか?」
「えと……」
会いに行かなかったのは意図的なので返答に困る。
「それともあいつに何かされたのか?」
声を一段低くし、僅かに攻撃的になった声で聞いてくる。思い当たることがありすぎて、一瞬身体が動かなくなった。
シドが頻繁に会いにくることはリュージュに言っていない。何かあったら頼るという約束を破ってしまっている。でももし話したら、リュージュはヴィクトリアを守ろうとするだろう。またあの時のように、リュージュが死んでしまうような目に遭うのは嫌だった。
「そんなことない、大丈夫よ」
「じゃあ無事かどうか確認するからここ開けて」
その言葉に驚いて身体が強張った。
「今お風呂上がりで何も着てないの。恥ずかしいからまた今度にしてね」
「服を着終わるまでここで待ってるよ」
(待ってるですって?)
ヴィクトリアは鏡越しの自分の姿を見た。今回も首筋にシドに付けられた痕がある。服装や化粧で隠すこともできるが、シドに会ったばかりなので付けられた匂いは濃いままだ。こんな状態では会えない。
「髪の毛を乾かすのに時間がかかるの。夜になってしまうわ。また会いに行くから、今日はごめんなさい」
「そうか…… わかった」
どうしても会いたくない感じが伝わってしまったのだろう。返事をしたリュージュの声に元気がなかった。
足音が遠ざかって行く。
リュージュの足音が完全に聞こえなくなってから、ヴィクトリアは扉に駆け寄った。身を預けるようにして扉に寄り添う。
扉の隙間から、リュージュの匂いがする。深く呼吸して、その匂いを身の内に取り込んだ。
「リュージュ、リュージュ……」
(会いたい…… 会いたい…………)
本当は今すぐ会いたい。
できれば抱きしめてほしい。
リュージュに会っている時だけ、側にいて彼の匂いに触れ、言葉を交わし、彼の姿を見ている時だけ、ヴィクトリアは生きていて良かったと思えた。
ヴィクトリアは扉に寄りかかるように蹲って、次第に薄れていく彼の残り香を感じながら、泣いていた。
その後リュージュが二度ほど訪ねてきたが、居留守を使ってしまった。
シドの匂いが薄まった頃に幾度か会いに行こうと試みたが、悉く邪魔されて叶わず、半月ほどが経過した。
結局丸々一月ほど、まともにリュージュと会うことができなかった。これほど長く会えなかったのは初めてだった。
その日はよく晴れた日だった。
長めの春が終わり、季節は苛烈な夏に向かおうとしている。
ヴィクトリアはようやく、シドに捕まることなくリュージュを見つけることができた。
ヴィクトリアは草原に座り込むリュージュを見つけて安堵の笑みを浮かべる。
会いに行くと約束したのに思ったより時間が過ぎてしまった。怒ってやしないかと思ったが、リュージュはヴィクトリアに気付くと満面の笑みを浮かべた。リュージュはいつでも自分を温かく迎えてくれる、そう思った。
けれど、違う。
(匂いが違う)
ヴィクトリアは足を止めた。
リュージュから、サーシャの匂いがする。
会っただけ、手を繋いだだけ、ただ抱き締め合っただけ、その程度では付かない濃いめの匂いがこびりついている。だからといって、身体を契ったほどではない。とある行為をした時にだけ付く、独特の濃さの匂い。
(これは、口付けしてる)
目の前が真っ暗になって立ち尽くしていると、リュージュの方から走り寄ってきた。
ヴィクトリアは咄嗟に下を向いた。
笑顔で、返す――――多分それが正しいのだろう。けれどヴィクトリアは、上手く表情を作ることができなかった。
「ヴィクトリア?」
リュージュが怪訝そうな様子で、長い銀髪に隠れたヴィクトリアの顔を覗き込もうとしてくるので、彼女は痛みを堪えるような表情を浮かべて、顔を上げた。
「ごめん、ちょっと足が痛くなっちゃって」
「そうなのか? 大丈夫か?」
「たいしたことないから大丈夫よ」
そう言ったのに、リュージュは屈んで、「足のどこが痛いんだ?」と言いながら心配してくる。
(嘘なのに、優しくしないで。泣きそうよ)
ヴィクトリアはリュージュを振り切るように、その場からスタスタと歩いてみせた。
「ほら、歩けるから大丈夫みたい。気のせいだったのかも」
そう言って、ヴィクトリアは今度こそ笑顔を貼り付けた。
「本当か? 痛かったら無理するなよ。そうだ、この後サーシャに会うんだ。足の状態を診てもらったらどうだ? 何か薬もらっとけよ」
ヴィクトリアは頭をぶんぶんと思いっきり左右に降った。
「いい! それはいいから! 本当に大丈夫!」
「そうか? ならいいんだけどさ」
「えと…… サーシャに会うのね。それじゃ私はお邪魔かな。リュージュの顔を久しぶりに見られて良かったわ。私は部屋に戻るね」
「ちょっと待て」
踵を返して足早に歩み去ろうとしたが、リュージュに腕を掴まれた。
ヴィクトリアは振り返ることができない。
「実はさ、昨日ようやくサーシャから返事がもらえたんだ。俺の番になってくれるって」
(胸が苦しい。助けて。誰か助けて)
「もちろん今すぐってわけじゃなくて、もっとお互いをよく知ってからにしようってなったんだけどさ。ヴィクトリアに一番に知らせたかったんだ。本当は今日またお前の部屋に行こうと思ってたんだけど、会えてよかったよ」
ヴィクトリアは泣きそうになるのを耐えていた。早く一人になりたかった。
「ヴィクトリア?」
ヴィクトリアはリュージュに背を向けて黙ったままだったが、やがて顔を上げ、振り向いた。
「おめでとう! よかったね! もう、いきなりだったから本当にびっくりした! 二人のこと祝福するわ! お幸せに!」
ヴィクトリアは今できる最大限の笑顔を貼り付けてリュージュを見上げた。こんな時でも笑顔を作れてしまうことが悲しい。
祝いの言葉を紡ぐヴィクトリアの瞳が少しだけ潤んでいた。
リュージュもヴィクトリアの表情を見て、弾けるような輝く笑顔を返した。
「ありがとう、ヴィクトリア。諦めなくて良かった。お前のおかげだ」
逃げるようにリュージュの元から去り、闇雲に走った。できるだけ人気のない所に行こうとして、気付けば里の端の方にある草むらの中に座り込んでいた。この辺は魔の森の近くで、あまり手入れがされていない。人の目からヴィクトリアを隠してくれる。
「うっ……っ……ううっ………」
際限なく涙が溢れて止まらない。
(心のどこかで、結局最後にリュージュは私を選んでくれるのではないかと思っていた)
仲の良さは自覚していたし、自惚れていたのかもしれない。
リュージュに恋焦がれながら、でも同時に、いつかリュージュから離れるつもりでもいた。
リュージュはどこかでそれをわかっていたんじゃないだろうか。
これは当然の結果だ。
本当に欲しいと思って行動しなかった。いつか逃げ出すつもりで、リュージュと真剣に向き合ってこなかった。「俺を頼れ」と言ってくれたのに、その手を取らず、その場その場でごまかしてばかりいた。
勇気を出して、本当の自分の気持ちを言っていたら、結果は今とは違っていたかもしれない。
(好きだって、ちゃんと言うべきだった)
もしもその結果、思いを受け入れてもらえなかったとしても、別れが待っていたとしても、全て覚悟して自分の気持ちに正直に生きるべきだった。
そうしておけばせめて、こんなにも後悔という自責の念に駆られることはなかったはずだ。
ヴィクトリアにとって、失ったものは大きすぎた。
(母が死んでからの私の人生は一体なんだったのだろう)
ただ時間だけが、虚しく過ぎて行っただけだった。
(私は何もしなかった。常に受け身で、状況に流されていただけだ)
何も手に入らなくて当たり前だ。
(一人になりたくてここまで来たのに、何でよりによってこんな時に、この人は現れるの……)
泣き続けて酷い顔になっているはずで、誰にも見られたくないのに、シドは腕を掴んで暴こうとしてくる。
顔を無理矢理上げさせられると、神妙な面持ちをしたシドと目が合った。
シドは何も言わなかった。泣きじゃくるヴィクトリアを腕の中に抱き入れると、まるで幼子をあやすように背中を軽く叩いてくる。
泣いていいと、言われているようだった。
「シド……」
ヴィクトリアはシドに縋り付いた。初めて自分からシドを求めてしまった。
ヴィクトリアはシドの胸で号泣し続けた。
******
シドはヴィクトリアを逃さないようにとその身体に手を回しながら、ほくそ笑んでいた。
その表情にヴィクトリアが気付くことはなかった。




