10 過去を知って、前に進む
ヴィクトリアは、ロータスたちの家の屋根裏部屋を使わせてもらうことにして、そこに寝台を置いて横になっていた。
寝転びながらマグノリアに借りた魔法書を読もうとするが、あまり頭には入ってこない。
アルベールに抱かれたのもマグノリアに妊娠を告げられたのも、つい昨日の出来事だ。
マグノリアの話によると、正確にはまだ妊娠は成立していないが、受精卵は出来ているそうだ。
ヴィクトリアのお腹に根付くことができなければ流れてしまうだろうとは言われたが、それを知ってからのヴィクトリアは、わりと慎重に動いている。
マグノリア曰く、今の段階では激しい運動をしたとしてもあまり関係ないとのことだが、勝手のわからない初めての子供だし、慈しんで大事にしたいと思った。
ヴィクトリアはこの命を、アルベールの子供を、失いたくないと感じていた。
胎の中に子供がいることは、アルベールと番になることを受け入れて、彼と共に生きても良いのではと、思考が変わっていく一つのきっかけだった。
またそれとは別に、ヴィクトリアは時間が経過するごとに、アルベール自身を愛しく思い始めていることに気付いていた。
アルベールに罠に嵌められて純潔を奪われたと知った直後は、驚きと混乱と彼への憎々しさしかなかったが、それから一日経つと、アルベールと肉体関係を持った身体の状況に、獣人としての自分の心がだんだんと追いついてきたらしい。
だからヴィクトリアは、マグノリアに番関係を無効化できる魔法について相談はしていない。
マグノリアに『真眼』で番になったかどうか確認してほしいと頼んでみても、「ちゃんと番になっている」という答えが返ってきて、そのことに安心してしまう。
レインへの『番の呪い』にかかった時は、すぐに愛情が湯水のように湧き上がってきたが、今回アルベールへの愛情を自覚するのに時間がかかったのは、元々の好意が地の底だったからだろう。
マグノリアにアルベールのことを探ってもらった所、彼はまだ別れた山の中に留まっているらしい。
同じ所にずっといたら人間に見つかる危険性が高くなる。
(本当はアルに会いに行かないといけないんだけど、でも……)
アルベールを愛しく思うと同時に、彼を許せないという気持ちも継続中だった。
(無理矢理番になったことだけじゃない。アルは昔からすごく意地悪で、私のことを子分というか下僕のように扱ってた。
里で心を入れ替えたみたいなことは言ってたけど、これから先ちゃんとやっていけるのか不安で、まだアルと一緒に生きていく覚悟ができない……)
ヴィクトリアはその夜、夢を見た。それは周囲の光景が、細部に至るまでかなりはっきりと見える夢だった。
部屋の中に子供用の寝台が一つあって、生後間もないくらいの小さな赤ん坊が寝かされていた。赤ん坊の薄毛は銀色で、瞳は水色だった。
泣きじゃくる赤ん坊のそばに、トコトコと、これまた幼い男の子が部屋の扉を開けてやって来た。直毛に近い襟足までのサラサラな髪は金色で、瞳も同じく金色だった。
(アルだわ……)
ヴィクトリアがそう直感した瞬間、見ている光景が切り替わり、それまで部屋全体を見ていたものが、いきなり正面からの幼いアルベールの満面の笑みが見えた。
『ヴィー、どうしたの? お腹すいたの? それとも寂しかった? 「にいに」がそばにいるから大丈夫だよ』
アルベールは金の瞳の目元をほころばせ、ぷにぷにのほっぺも上気させて、天使のような慈愛に満ちた笑みを、こちらに――ヴィクトリアに――向けている。
(う、嘘よーっ!)
幼いアルベールの天使のような笑顔を見たヴィクトリアは、衝撃を受けて内心で叫んでいた。
(アルが私にこんな天使スマイルなんてしたことあった?! ないわ! 子供の頃はいつも私に向かって小馬鹿にして見下すような底意地の悪い笑みしかしてこなかったのに!)
ヴィクトリアは愕然としてしまい、あまりにも驚きすぎたためにパチッと瞼を開け、眠りから目覚めていた。
しかし目が覚めても、真っ暗なはずの屋根裏部屋の中では、夢で見ていた光景――ヴィクトリアの赤子時代の様子――が変わらず繰り広げられていた。
ヴィクトリアはまた混乱したが「今まで見ていたのは夢じゃなくて『過去視』だった」と気付けたので、一旦落ち着いた。
『過去視』内では、幼いアルベールが寝台の柵をよじ登って乗り越えた後、赤子のヴィクトリアを抱きかかえ、ニコニコと笑いながらあやしていた。
次第に赤子ヴィクトリアのぐずり声は止んでいき、やがて『過去視』内の見える部分が狭まり消えてしまう。
『んふふっ、可愛い。おやすみ、僕のヴィー』
『過去視』が終わったのかと思ったが、幼いアルベールの声が聞こえてきたので、どうやら赤子の自分がアルベールにあやされて寝たのだと知る。
(……確か、私は生まれてから一歳くらいまで、アルのお母さまに引き取られて、アルの家で一緒に暮らしていたのよね…………)
当時のことは全く覚えていないが、シドの意向で母と一緒に暮らしていなかった時期があったと、ヴィクトリアはのちに母オリヴィア本人から聞いている。
『過去視』はまだ続く。走馬灯のように、幼いアルベールが赤子のヴィクトリアの世話をする色々な場面が、浮かんでは消えていく。
アルベールはおそらく二歳くらいで、自分の方だってまだお世話をされる側だろうに、ヴィクトリアをあやしたりミルクをあげたり、時にはおしめまで替えていたので――かなりの赤面ものだったが――本当に幼児なのかと疑うくらいにてきぱきと動き、甲斐甲斐しくヴィクトリアの世話をしていた。
アルベールの両親は医師をしていて、忙しいのがわかっているのか、彼は自らヴィクトリアの世話を買って出ているようだった。
赤子のヴィクトリアが一緒にいる時間が一番多いのがアルベールで、ヴィクトリアも、いつもそばにいるアルベールを母親代わりのように思っている様子だった。
(私が一番最初に懐いた人って、アルだったんだ……)
首が座るようになると、アルベールの母親はヴィクトリアを背負って仕事をしていたが、そうするとアルベールも母親の仕事場にいて、ヴィクトリアに引っ付くようにいつもそばにいた。
しかし、二人の関係性が変わる出来事が起こる。シドの命令で、ヴィクトリアが母オリヴィアの元に戻されることになった。
母の元へ向かう日、ヴィクトリアは泣いて嫌がり、アルベールに抱きついて離れようとしなかった。
けれど、母の家の前まで連れてこられた後、窓辺に立つ女性を前に、「あの人が本当のお母さん」だと告げられたヴィクトリアは、パッとアルベールから手を離し、喜び勇んで母の元へ駆け出していた。
呆気なく自分の腕から離れて行ったヴィクトリアの背中を見ながら、アルベールはとても傷付いた顔をしていた。
住む場所が別々になり、自然とアルベールと一緒にいる時間は少なくなった。そして丁度ヴィクトリアも様々な人や物に興味を抱く時期だったことで、またアルベールとの関係が悪化する出来事が起こる。
ヴィクトリアに第二のお兄さんができてしまった。
それがロータスだった。当時、父親のシドに全く相手にされていなかったヴィクトリアは、シドと顔がそっくりなロータスにとても良く懐いた。
面白くないのはアルベールだ。ヴィクトリアはそれまでアルベールを「にいに」と呼んでいたのに、次第に「にいに」と言えばロータスを呼んでいることになっていて、アルベールのことは「アルにいに」と、少し呼び方を変えていた。
「にいに」の座を他の男に奪われたことにアルベールはとても衝撃を受けたようだった。
元々、アルベールはヴィクトリアへの執着傾向が強かった。
アルベールはすぐ上に少し年の離れた兄がいたが、一緒に住んでいた頃にその兄がヴィクトリアの世話をしようとすると、アルベールは威嚇して追い払ってしまい、絶対に触らせなかった。
母や姉がヴィクトリアに触れるのは許していたが、アルベールの父がヴィクトリアのおしめ替えをしようとした時などは、烈火の如く怒り出し、父親の尻を蹴り飛ばしていた。
そんなアルベールは、ヴィクトリアとロータスが二人きりで仲良く遊ぶことを許し難く思うのか、二人の遊びに混じることもなく、離れた場所から様子を嗅覚で探りながら、ギリギリと嫉妬で歯噛みをしていた。
それまで天使だったアルベールの表情は歪んでしまい、金色の瞳に仄暗い感情が宿るようになった。
その頃から、可愛さ余って憎さ百倍のように、アルベールはヴィクトリアを痛めつけるようになってしまった。
つねったり髪の毛を引っ張ったり、言葉でも詰るようになって、ヴィクトリアがあまりにも泣くと逆に慰めていたが、しかし慰めながらアルベールは、背中にゾクゾクと快感でも走らせていそうな恍惚とした表情で笑っていた。
アルベールが変態化してしまったきっかけは、自分との関係性にあるのかもしれないとヴィクトリアは思った。
けれど、ヴィクトリアをいじめる時のアルベールの瞳の奥には、必ず悲しみが隠れていることに、成長したヴィクトリアは今になってから気付いた。
――――どうして僕を捨てたの?
ヴィクトリアは叫んだ。
「捨ててない!」
「本当に?」
耳元に大人のアルベールの声が聞こえてきて、ヴィクトリアは固まった。
それまで屋根裏部屋にいたはずなのに、なぜかアルベールと別れた山の中にいて、彼に抱きしめられていた。
(しまった…… 転移魔法……)
魔法使いに覚醒したばかりで膨大な量の魔力制御に慣れていなかったヴィクトリアは、『誤解よ!』と思った瞬間に、無意識的に転移魔法を発動させて、アルベールのそばまで飛んで来ていたらしい。
アルベールが「捕まえた」とでも言いたげな強い力で抱きしめてくるので、ヴィクトリアは心地良く感じるようになってしまった彼の匂いを嗅ぎながら、『もう逃げられない』と思った。




