3 父と娘
ヴィクトリア視点→シド視点→ヴィクトリア視点
ヴィクトリアが「シド」と彼の名を思わず呟くと、シドは片眉をピクリと動かし、眼光鋭く訝しむようにヴィクトリアを睨み付けてきた。
「……お前は誰だ?」
昔のヴィクトリアは、シドを名前ではなくて「お父さま」と呼んでいたし、話し方も丁寧語で話しかけていた。
そのことを忘れて「シド」と呼んでしまったのは痛恨の失敗だと思ったが、今更訂正するわけにもいかない。
目の前のシドが邪魔をして視覚では中の様子を確認できないが、部屋の中では、服をビリビリに破られながらも、まだ貞操は破られていないあの少女と、縛られ身体の自由を奪われて泣いていた様子の、少年のレインがいるのが嗅覚でわかった。
ヴィクトリアは魔法を使って、レインが自力で脱出できそうなくらいに縄を緩めた。
完全に拘束を解かなかったのは、いきなり縄が取れると、シドがまたそのことを訝しむのではないかと思ったからだ。
縄が少し緩んだことに気付いたレインが拘束を解こうと動き始めるが、シドの注意は相変わらずヴィクトリアに向いている。
「もう一度聞くぞ。お前は誰だ?」
シドは目の前にいるヴィクトリアが偽物であると大いに怪しんでいるようだった。シドは尋ねながら威圧感を増大させていて、肌が痺れるほどの圧をかけてくる。
普通はシドに圧をかけられると、並の者なら震え上がり恐怖で腰を抜かしたり気絶する者もいるが、シドが自分に危害を加えるつもりがないと知っているヴィクトリアは、再びシドに会えたことが嬉しくて、少し涙ぐみながら微笑んだ。
「私は私よ、お父さま。あなたの娘、ヴィクトリアです」
シドは怯えを見せないヴィクトリアの反応に少々面食らっているのか、微動だにせず戸口に突っ立ったまま、じっと少女姿のヴィクトリアを観察していた。
「お前がここに来る前、匂いが変わった。ヴィクトリアだったが、ヴィクトリアとは少し違う匂いの者だった。
お前は一体何者だ?」
ヴィクトリアはシドの嗅覚の鋭さに舌を巻いてしまう。
過去に戻る魔法でこの場所に来てから、匂いと姿を昔のものに変える魔法を使ったが、その瞬間の匂いの変化をシドに気付かれていたらしい。
たぶん、シドはこの時代の本来のヴィクトリアが今どこにいるのかを、嗅覚できっちりと把握しているのだと思う。シドにしてみれば、「ヴィクトリアが二人いる」というおかしなことになっているのだろう。
シドの嗅覚の特性を知っていれば、気付かれるのは予想が付きそうなものだが、ヴィクトリアは死にかけていた状態から脱出し、直後に時空を超えて過去の因縁の場へと飛ばされてきたために、混乱もあって流石にそこまでは頭が回らなかった。
完全にこの時代のヴィクトリアに成りすますためには、シドの嗅覚が及ぶ範囲外に出てから魔法を使うことと、同時に、この時代のヴィクトリア本人の姿や匂いを魔法で隠すことが必要のようだった。
しかし、「果てがない」とまで評されたことのある、シドの嗅覚が及ぶ正確な範囲はわからないし、わかったとしても、気付かれずに入れ替わるには時間がかかりそうで、それでは助ける前にあの少女が犯されて死んでしまうと思った。
シドの背後では、縄を解いたレインが少女を抱きかかえるようにして、家の裏口へと向かっていた。
逃げる時にレインは一瞬だけヴィクトリアがいる方向を振り返ったが、レインからはヴィクトリアの姿は見えなかったはずだ。
レインは少女を連れて、火が燃え移り始めた家から出ていった。
シドは逃げるレインたちへの興味は既にないらしく、追いかけることはしなかった。
「私は、あなたの娘です。
あの時、命を懸けて私を助けてくれて、ありがとうございました。
私はあなたを愛しています。お父さまとして」
目の前のシドに言っても意味がさっぱりわからないだろうが、レインたちがこの家から離れ始めたのを確認したヴィクトリアは、言いたいことだけを言って踵を返した。
「待て!」
案の定、シドが追いかけてくるので、ヴィクトリアはレインたちが逃げた方向とは反対方向へと全力疾走した。
シドの動きはとんでもなく早いが、捕まるわけにもいかないので、ヴィクトリアも魔法を駆使し、とんでもない速度で走る。
だが、追いかけっこはそう長くは続かない。
ヴィクトリアは、マグノリアに闇魔法で気を吸われた時のような、身体の怠さを感じ始めていた。
加えて、最初にこの「過去世界」に降り立った時のように、身体全体がどこかへと引っ張られているような感覚も。
(帰る時が来たのね)
自分はこれ以上ここには留まれないらしい。
ヴィクトリアは振り返った。別れを惜しむようなヴィクトリアの悲しみの表情を見たシドが、ハッと目を見開く。
「待て、行くな」
「もう時間のようです。さようなら…… お父さま……」
言い終わるのと同時に、少女姿のヴィクトリアの身体が掻き消える。
その直前、シドは脚に瞬間的な力を込めて動きを早め、ヴィクトリアを掴まえようとしたが、その手は空を切った。
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シドはその後、消えてしまった女を躍起になって探したが、全く見つからず、匂いの痕跡すら辿れずに、完全に見失ってしまった。
シドは神も幽霊も信じてはいなかったが、今回ばかりは、そのような存在もあるのかもしれないと、そう認めなければ辻褄の合わない、頭を悩ますおかしな現象だった。
どこか釈然としない気持ちを抱えたシドは、燃え盛る家の前に立ち尽くす、あの女ではない子供のヴィクトリアの元に戻った。
「あの子供とガキなら逃げた」
女が現れる前まで、シドが犯そうとしていた少女とその兄がこの場にいないことを告げると、ヴィクトリアはあからさまにホッとしていた。
目の前のヴィクトリアに特に変わった点はない。
何もできずに、無力で、誰かに愛してほしいと願う、子供のヴィクトリア――――――
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「ヴィクトリア」
シドに名を呼ばれて近付かれると、焼かれる家を前に佇んだままだった小さなヴィクトリアは、強張った表情になった。
次いで、諦めのような感情を顔に滲ませながら、何をされてもいいようにと覚悟を決めて目を閉じた。
「えっ?」
驚いた声を上げたのはヴィクトリアだ。
ヴィクトリアは、いつものようにシドの腕の中に囚われて、番同士でしかしないようなことをされると思っていたのに、予想に反してシドにひょいと高い位置に持ち上げられて、目を開ければ肩車をされていた。
肩車なんてされたのは初めてである。ヴィクトリアを子供扱いしてきたことも初めてのように思えて、彼女は戸惑ったが、「捕まってろ」と言われたので、素直にシドの赤い髪に手を添えた。
「帰るぞ」
「は、はい…… お父さま」
返事をしたヴィクトリアから戸惑いは消えなかったが、その顔には、僅かな微笑みも浮かんでいた。




