84.聖姫の出立
リシューへの怒りに顔を真っ赤にして飛び出た聖姫は、立派な聖堂に入ると創造神アリアの像に祈り始めた。
「アリア様、どうか愚かなる私どもに民を救う叡智をお与えください」
聖王の一族は一説には、創造神アリアが自らの血を分けて創ったとすら言われ、地上における神の代行者とも伝えられている。
実際に始まりの女神アリア様の姿を見たものは居ないはずだが、巨大な神像はまるで聖姫アナスタシアにそっくりであった。
最初はリシューへの怒りに我を忘れていた聖姫アナスタシアであったが、熱心に祈るうちに怒りも深い苦悩も静まっていく。
やがて、瞑想状態へと入ったのか法悦の表情へと変わる。
その時、聖堂の窓から天空より一筋の光が注ぎ込む。
「アナスタシアよ……聞こえますか……」
「アリア様!」
創造神アリアの声が聞こえたのはいつ振りであろうか。
「迷うことはありません。貴女自身が思うまま、善いと思うことを行いなさい」
「心のままを行えと申されましても……」
しばしの沈黙ののちに、創造神アリア様は言う。
「貴女の目で、辺獄を見てきなさい」
「そのようなことを……」
聖姫アナスタシアは、何事も自分の眼で確かめなければ気がすまない性格だ。
そうであるがゆえに難民キャンプにも自ら赴き、実態を調査してリシュー達が言っていることが間違っていると知ったのだ。
「心は決まりましたか」
「はい、全てはアリア様の御心のままに」
辺獄へ赴けと言うアリア様の御神託を受けて、聖姫アナスタシアは自分も最初からそうしたかったのかもしれないと思った。
聖姫として国を支えねばならないと思っていたが、渦中のタダシ王国を見極めることこそがアナスタシアの今やるべきことなのだ。
さすがはアリア様だ。
自ら動くと決めたら、聖姫アナスタシアの深い悩みは嘘のように消えた。
「こうしてはいられないわ!」
創造神アリアの御神託が降ったのだ。
聖姫アナスタシアは、聖衣のスカートをたくし上げて走っていく。
慌てて部屋で荷物をまとめると、こっそりと神殿を後にしようとする。
そこに、待ち構えていたように数多くの廷臣を引き連れた大宰相リシューが立ちふさがる。
「アナスタシア様……」
「リシュー。そこをどきなさい。止めても無駄です」
アリア様の御神託なのだ。あらゆることに優先する事項である。
これだけは大宰相のリシューとて止めることはできない。
そう抗弁する覚悟でいたのだが、次にリシューの口から出てきた言葉に瞳を大きく見開いて驚愕する。
「お荷物をまとめられたということは、タダシ王国を自らの目で見極めるつもりなのでしょう。それならば止めませんよ」
「えっ、なぜそれを……」
リシューが、それを知っていることも驚きだった。
しかし、何より聖姫アナスタシアの辺獄行きを止めなかったことが意外だった。
「私とて、かなり遠戚ではありますが聖者の血を引く者の一人。そのアナスタシア様の晴れ晴れとした顔を見て、すぐに分かりました」
「もしや、リシューにもアリア様のお告げが聞こえたのですか?」
リシューは静かに微笑み、その場に跪いた。
「先程は国を守る立場の者として、厳しいことも申し上げました。どうかお許しください」
「そんなことはいいのです。しかし、リシューが賛成してくれるとは意外でした」
「止めるわけがありません。民を救うための食糧や医薬品の輸入を差し止めるなど、本当は私だってしたいわけではないのですから」
「リシュー! それは本当ですか?」
苦しげな顔で胸を押さえて、その場に跪くリシュー。
「はい、アナスタシア様。愚かな我が身の懺悔を聞いていただけますか。私とて、大司祭であり聖職者の身です。我が国を頼ってきた貧しき民達を救えぬことは、この胸が張り裂けんばかりに悲しきこと!」
芝居がかったリシューの叫びに、思わず同情して駆け寄るアナスタシア。
「本当ですか。でしたら、なぜ先程はあのようなことを……」
「大宰相としてあの場ではああ言うしかなかったのです。口さがない聖都の民は、私を独裁者のように言います。しかし、この国の政務を私が動かせているのは聖王国の聖職者や官僚達が味方してくれているからです」
リシューの言葉に、聖姫アナスタシアはハッとする。
「食糧や医薬品の値段は、リシューでも自由にならないということですか?」
「はい。あまりに暴利を貪る者は処罰しました。しかし、それでも聖王国の支配階層の抵抗は激しく、暴利とまでは言えない程度の利益を取る者までは私でも止められないのです」
言われてみれば、リシューが大宰相に就任した時に、暴利を貪る聖職者の高官や出入り商人を罰したこともあったことを思い出す。
それでも、供給される食糧や医薬品の値は高いままで施される量はあまりにも少なかった。
貧富の格差が酷いのに、現状を黙認するばかりか私腹を肥やしている聖職者が多数いるのだ。
聖王国の上層部の腐敗は目を覆うばかりで、聖姫アナスタシアはリシューもてっきりその仲間だと思っていた。
しかし、リシューもまた国を動かす者として心を痛めていたのか。
創造神アリア様の声がリシューにも聞こえたというのなら、彼もまた心正しき者なのだ。
国の秩序を守るという意味では、リシューの言うこともまた間違っていないことを聡明な聖姫アナスタシアだって理解している。
「そういう事情でしたか。思えば私も父上もリシューに勝手なことばかり言って、苦労をかけてしまって……」
「いえ! アナスタシア様が頭を下げることなどございません。先程も申し上げたではないですか、貴女こそが聖王国の象徴。政務を滞りなく行うため、この私が汚れ役となるのは当然のことです!」
その言葉に、聖姫アナスタシアは涙を流した。
「私はなんと愚かな……リシューの罪は、政務を任せっきりだった私の罪でもあります。どうか、頭を上げてください」
「ハハッ!」
「リシューの懸念も、もちろん理解はできるのです。しかし、アリア様が直々に私に見定めてみよとのご宣託がありました。もし、問題がないとわかれば禁輸の件を考え直してくれますか?」
「タダシ王国の件。魔族が絡んでいるということで偏見があったやもしれません……」
「わかってくれましたか」
「はい、アナスタシア様の目でしかと見極めてきてください。もしタダシ王国に問題がなく、本当に貧しき民を救う国と言うならば、私も考え直しましょう」
「ありがとう」
「そこで、差し出がましいようですが餞別としてこれを渡しておきます」
綺羅びやかな白銀の首飾りを渡す。
「これは?」
「ご存知ありませんか、我が国の至宝である『封魔のペンダント』です。聖姫様は、いまだ女神の加護を持たぬ身。しかし、これがあれば、悪しき者から身を守ることができます」
「なるほど、強力な魔装具なのですね」
「本当は、アナスタシア様が聖王様より地位を引き継いで聖王国の女王となった時に渡そうと思っていたのです。厳しい旅になるやもしれませんが、どうかご無事でお戻りください」
そう聞いて感激した聖姫アナスタシアは、『封魔のペンダント』を首にかける。
「何から何までありがとうリシュー!」
「いえいえ、臣下として当然のこと。アナスタシア様の留守中は、どうぞこのリシューめにお任せください」
「頼みますよ。リシュー!」
「はい。では、お名残惜しいですがこれにて」
「必ずや、吉報を持ち帰りますから!」
大きなカバンを抱えて元気に駆けていく聖姫アナスタシアを見送る。
漆黒の僧衣を身に着けた側近、グハン枢機卿がリシューに尋ねる。
「リシュー猊下、あれでよろしかったのですか?」
「大人しく国を出ていってくれるというなら却って好都合というもの。お人好しのアナスタシア様に難民どものキャンプをうろつかれては、邪魔でしょうがないですから。いい厄介払いができました」
動くなと言っているのに街中をうろうろと嗅ぎ回られて、リシューも迷惑していたところだ。
グハンがさらに尋ねる。
「しかし、創造神アリア様の御神託とは一体なんだったのでしょうか」
「さて、私は預かり知らぬところ」
リシューの顔から良さそうな笑みが消えて、いつもの酷薄そうな表情が戻った。
「しかし、では先程の話は……」
グハン枢機卿は、リシューの顔を見て女神の声など聞こえていなかったのだと気がつく。
全てはあらかじめ相手の動きを予想した上で、聖姫アナスタシアの歓心を得るために話を合わせていただけだったのか。
リシューが大宰相に就任した直後の粛清も、対立派閥の連中を一掃しただけに過ぎない。
長年、聖王国の暗部を担当していたグハン枢機卿はそれを知っていたのだが、それでも思わず騙されてしまったほどの名演であった。
そして、聖王国の象徴であり、女神の化身とすら呼ばれている慈愛の聖姫アナスタシアに平然と嘘を吐く冒涜。
驚きを隠せない側近達に向かって、リシューは言う。
「天上におわす神々には、神々のご意思があるのでしょう。しかし、地上に生きる我々にだって意思というものはあります。違いますかグハン?」
大神殿をいそいそと出ていく聖姫アナスタシアを窓際から見下ろし、口元に微笑みを浮かべるリシュー。
振り向いたその冷たい眼差しがグハンを射抜く。
神を神とも思わぬリシューの不遜な言葉は、付いてくる覚悟があるのかと聞いているのだと気が付き、グハン枢機卿は慌てて頭を下げる。
「猊下のおっしゃるとおりでございます!」
グハン枢機卿に引き続いて、恐れ慄いた側近達も「猊下の御意のままに!」と声を揃えて頭を下げた。




