会津武士の戦い
会津若松城は、元々当地を支配した蘆名氏の城であった。
その後、蒲生氏郷が織豊式城郭に作り替え、所有者を何人か変えた後に加藤嘉明の子、明成が西出丸、北出丸などの造築を行った。
そして加藤明成改易後に保科正之がこの地に封じられ、会津松平家となって幕末まで居城とした。
会津藩士に特に築城の名人というのはいない。
彼等はハワイに移住後、生まれてから死ぬまで眺める筈だった若松城を懐かしく思った。
また、大殿松平容保の住居が粗末である事を嘆き、せめて城を!と若松城を小さくコピーした城を作った。
武家屋敷よりやや大きな、城か砦かよく分からないが、兎に角五層七階の天守は無理だが、三階櫓を天守に見立てる「心の拠り所」が作られた。
この容保の隠居城は、ハワイで噴火が起きた時に、周辺住民を避難させるのにも利用された。
その時に拡張工事を行い、惣構えとも言える外周石垣と堀(溶岩をそこに落として、排出する溝)を作った。
この比呂城もまた、若松城と同じように戦争を経験する。
ホノルル・ライフルズの司令官アシュフォードは、日本軍との戦いは長引く、苦戦する事を予想し、彼等を屈服させる為に「日本人が最も尊敬し、かつての大君徳川家の血筋である松平容保を捕縛する」計画を立てた。
奇襲によって邸宅に踏み込めば、200人ばかり居れば十分勝てると計算した。
ハワイ島の義勇兵部隊や白人農園主に、オアフ島からも援軍を送り、6月30日の決起の日の前には既にヒロの近くにキャンプを張って準備を整えていた。
そして開戦の日、夜明けを待たずに彼等は攻め寄せる。
だが、単なる境界でしかない惣構えが難物であった。
堀との高低差で、超えるのが面倒である。
だったら普通に入口として使用している門を突破すれば良い。
そして門衛と戦闘となった。
門衛10人は全滅するも、彼等が形式的に使っていた旧式銃の馬鹿デカい銃声が、二ノ丸や北出丸、西出丸の守備兵を起こしてしまい、城は戦闘態勢に入った。
元会津藩の内、若い武士は陸軍第三旅団としてプウコホラ・ヘイアウに詰めていた。
「玄武隊」と呼ばれた老兵たちと、新たにその年齢に達した者たちが、大殿に仕え城を守っている。
老兵たちは文句も言わず、旧式となったシャスポー銃やドライゼ銃(ツンナール銃)を握って配置に着いた。
「大殿におかれましては、この隠し御殿より出てはなりませぬ」
と家老たちが二ノ丸の地下蔵に容保を案内する。
会津戦争で天守閣が狙われた経験から、天守閣(三階櫓)を囮にする一方で、主君一家は岩で守られた地下蔵に入れるように決めていた。
アメリカ人は日本の城郭を完全にナメていた。
確かに大した防御力は無い。
だが、惣構えから城に辿り着くまで、距離はそう無いのだが、迷路のような構造になっていて時間が掛かってしまった。
奇襲に失敗した併合派の面々は、強襲に切り替える。
大砲も持って来た。
門を打ち破れば、中世的な城等ひとたまりもあるまい。
彼等は蒲生氏郷や加藤明成に不明を詫びるべきであろう。
門に辿り着く前に、正面の北出丸、背後の伏兵廓、側面の帯廓の三方から銃弾の嵐を浴びた。
「おい、あのアメリカ人の銃を見てみろ」
「おお、スペンサー銃か、懐かしい。
山本権八殿のお嬢が使っておったのお」
「山本家はハワイには来なんだな」
「当主の覚馬サァが京都に居なさったんで、一家で移り住んだと聞いたで」
「それは果報じゃったな」
「いや、あのお嬢の事じゃから、むしろこっちで鉄砲撃ちたかったと言うかも知れんの」
「違いねぇのお」
一同爆笑する。
恐怖というものに麻痺した元「玄武隊」の老兵たちは無駄話をしながら、若松城に比べれば低い石垣と粗末な城壁から鉄砲を撃ち続ける。
比呂城攻撃隊を指揮していたのは、ハワイアン・リーグの重鎮の一人、ウィリアム・アンセル・キニーだった。
補佐としてハワイ島の事をよく知るジェームズ・アンダーソン・キングが着いていた。
彼等は後方に居たので、冷静である。
被害は余りに大きい為、撤退を命じた。
後退した併合派の軍の後ろで大手門が開く。
老兵たちが銃剣や日本刀を持って突撃して来た。
「さあ、殺せ、わしを殺せ!
元より生きて帰ろう等と思っておらねえ」
「英語で何て言ったかの?」
「キル・ミーだったような」
「そうじゃ、キルミー! キルミー! キルミー!」
自分を殺せと叫びながら突進して来る異常過ぎる老人たちに、併合派はパニックになった。
何とか20余人を望み通り殺して、惣構えの外に出た時、210人だった攻撃隊は68人死傷という損害を出していた。
「あいつら、クレイジーだ!」
「キルミーとか言いながら、撃たれても撃たれても走って来るんだぜ」
「ライフルで撃てば死ぬが、ピストルでは殺せない……」
織豊式城郭、死兵、ともに初めて経験した併合派の白人たちは、心底疲れていた。
「キニー、どうしたら良いと君は思う?」
「キング、君はもう答えを出しているんだろ?
俺に遠慮せずに言えよ。
あんなクレイジーな奴ら相手に、俺のプライドとかどうでもいいからさ」
「分かった、援軍を呼ぼう」
彼等も電信を使って、オアフ島のアシュフォード大佐に連絡を入れる。
(どいつもこいつも!)
アシュフォードは、あちこちで膠着状態に陥った事にイラつき出していた。
ホノルル・ライフルズの本隊はおよそ400人、予備部隊約250人、農園主等の援軍約80人。
マウイ島支部に100人とハワイ島支部に180人、そしてアメリカから呼んだ援軍約800人。
約2千人と十分な兵力と思ったが、ワイキキでの対陣で既に1千人は動けなくなった。
イオラニ宮殿に向かった200人、マウイ島で暴動を起こした約100人、ハワイ島で松平容保を攻めた210人で残りは500人程度。
制海権(まだこの時期はその言葉は無いが)は大型巡洋艦を持つ日本人が握っている。
だがその巡洋艦はマウイ島南方で反乱鎮圧に当たっている上、その後は直ちに部隊を率いてホノルルに引き返して来るだろう。
「250人をハワイ島に回せ。
日本人の王を捕らえるのだ。
そうすれば他でどんなに日本人が奮闘しても、最終的には我々が勝つ。
巡洋艦が来ない内に、北の航路でハワイ島に向かえ。
残りの中で200人はイオラニ宮殿を攻めろ。
犠牲を出して構わん、王を捕らえるか殺すかしろ。
それで革命は我々の勝利だ。
敵のミトライユーズに対してはガトリング砲を使え。
残りは俺に従って、あの日本軍主力を潰すぞ!」
そう言いながら
(もう全ての予備軍を使い切ってしまった……)
とアシュフォードは心の中で嘆いていた。
真珠湾に寄港した輸送船に、兵士が逆戻りし、慌ただしく出港して行った。
早くしないと巡洋艦に見つかる。
輸送船も大砲を持っていたが、正規の軍艦にはかなわない。
輸送船はヒロに着岸し、時代遅れの城に向けて艦砲射撃をすれば良い。
兎に角時間が勝負だ。
そう思ってアシュフォードはゾッとする。
目前の日本軍は、迂回攻撃こそしては見たが、随分と悠長な戦いをしている。
時間を掛ければホノルル・ライフルズは王宮と松平邸を落とし、勝敗が決する筈だった。
ところが今の状況は、時間が掛かればマウイ島から巡洋艦が引き返して来て、その艦砲と陸軍部隊によってホノルル・ワイキキ境界にいるホノルル・ライフルズ主力は挟み撃ちに遭う。
王宮も松平邸も、ただ守っていれば良い。
時間は日本人の味方なのか?
あの軍の司令官は、それを理解して無理な攻勢を仕掛けないのか?
大鳥を精一杯過大評価したものであった。
肝心の大鳥は、地図を広げながら攻撃の糸口を見つけようと悩んでいただけだ。
彼は臨機応変の戦闘が苦手だったので、合理的にどこが攻め口として良いか、考えている。
第四大隊の伊庭八郎が
「新田義貞が鎌倉を攻めた時の故事に倣って、海から攻めたらどうか?」
と偵察に行ったが、この時代のワイキキには綺麗な砂浜等無く、
「無理でした」
と残念な報告を入れるだけだった。
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時間は遡り7月1日早朝、ハワイ島。
「山川浩大佐、立見尚文大佐」
「はっ」
「貴官たちは指揮下の大隊を率いて、比呂の救援に向かえ」
ハワイ島北部のプウコホラ・ヘイアウ要塞、第三旅団司令部で松平定敬准将の命令が発せられた。
「私事ではあるが、兄上を頼む」
「ははーっ!」
会津青龍隊、朱雀隊を元にした部隊と、桑名藩兵を主軸とした部隊が出動する。
「山川君、君は街道を北回りに進んで貰いたい」
「戦争の達人」と名高い立見大佐が元会津家老の山川大佐に言う。
「心得たが、では君は南回りで行くのか?
火山が多く、進軍には厄介な場所だろ?」
「確かにそうだ。
だから、俺の分の機関砲と大砲を君に預けるから、使ってくれ」
「おいおい、何を考えているんだ?」
「佐々成政のさらさら越えってとこかな」
「大丈夫か?」
「訓練はしてある。
君の方こそ荷物が多いし、遠回りになるから、遅れるなよ」
「俺を誰だと思っている?
あの官軍が包囲する若松城にだって堂々と入城した山川大蔵を、再び見せてやろう」
立見はある噂を思い出した。
官軍が包囲した会津のお城に、季節外れの会津の伝統芸能・彼岸獅子が舞った。
その彼岸獅子の囃子に続き、堂々と兵を引き連れて入城を果たした男が居る。
(大丈夫だな、彼に任せよう)
そして立見隊は山岳地帯に向かい、銃のみの軽装備で出動した。
目指すはハワイ島東部のヒロ、松平容保の城。




