イオラニ宮殿突入
日本人に演説の習慣はほとんど無い。
日本史で有名なのは、承久の乱に先立つ北条政子の、坂東武士への演説だろうか。
だがそれも、既に従二位の公卿たる尼御台は皆の前に姿を見せず、御簾の外で安達景盛が代読していた。
檄文等はあるが、例えば「敵は本能寺にあり」等というのも講談だけのものであったりする。
兵士は命令さえあれば演説無しでも動くものだ。
今回のハワイ内戦を予感した時、榎本武揚は部下たちを前に涙を溜めながら、思わず演説をした。
「明治二年より二十余年、帝の勅を奉じ、南国の王を立て攘夷すべく我等はこの地に来て、日々腕を磨いた。
何事も無く終わればそれも良しと考えたが、やはりこのまま朽ち行くのは惜しい。
我等は随分と年老いたが、老い切ってはおらぬ。
人間五十年と言うが、自分はそれを一年越えた。
まだ我等は戦って死ねる。
まだ戦える内に、ついに真の夷狄が姿を現した。
死に至る戦いとなる事も予想出来る。
だが、二十余年の月日を思い出し、今日この時の為に磨いて来た全てをぶつけ、使命を全うしようではないか!」
一方、陸軍の大鳥圭介もホノルル手前で第三大隊が足止めを食らい、援軍要請を受けた時に全軍に向けて演説を行った。
だが榎本の悲壮感溢れるものと違い、大鳥のは明るいものであった。
「僕たちは今でも二本差しの侍だ。
日本本国じゃもう二本差しなんていなくなっちまったって言うぜ。
僕たちは武士として生きる事を認められた幸せ者だよ。
死ぬ時も武士として死んでいこうじゃないか!
まあ、でも、死ぬ気はあまり無いぞ。
戊辰じゃあれだけ負けたんだ。
今回は勝って、生き残る事を考えている。
それでも負けたら御免な。
だが、生き残って、畳の上で死ぬまで二本差しの侍でいること全うしようぜ、皆!」
そして勃発したハワイ内戦で、榎本は巡洋艦「マウナロア」に座乗し、マウイ島の暴徒への艦砲射撃を指示した。
義勇兵が倉庫だの民家だのホテルだの籠って起こした争乱に対し、24cm砲はオーバーキルである。
だが彼は早々に片づけて、ホノルルに戻ろうと考えている。
故に過剰攻撃という事は考えもせず、情報を元に沖合から艦砲射撃で拠点を一個一個廃墟に変えていった。
「あーあ、勿体無え。
まあ、貸しにしといてやるよ」
と、ラハイナ砲撃に対し黒駒勝蔵は嘆いていた。
今回の暴動に際し、榎本が時間をかけずに勝負に来たのを見て、勝蔵は「日本軍勝利」に全突っ込みで賭ける事にした。
時間をかけて事を為そうとすると、かえって損害を大きくする事がある。
蛮勇だが、強大な力を一気に叩きつけた方が、結果として損害額を減らせる事もある。
だが、それにしても勿体ない。
家も倉庫も建てるの無料じゃないんだぜ、お侍さんよぉ、と毒づきながらも子分を使って暴動を起こした連中の居場所を逐一伝えていた。
交換条件として、首謀者の白人農園主やホノルル・ライフルズの下部組織のアメリカ系移民を殺さない事、降伏を申し出たら受け入れて欲しい事、国外追放しない事、財産はそのままにしておく事を申し出ていた。
「甘くありやせんか?
負けた奴らからは、尻の毛に至るまでかっぱぐのがヤクザのやり方じゃねえですか?」
子分たちは不思議がったが、勝蔵は
「そいつらの命を財産奪っちまったら、誰がこの戦の損害を補償すんだ?
あと、尻の毛なんざ要らねえ」
と言ってほくそ笑む。
「あいつら、理由つけて金なんか出しませんぜ」
と言う子分たちに対し、既に手は打ったと勝蔵は返していた。
イオラニ宮殿の良いところは、電信がある事だった。
指揮を土方から引き継いだ藤田五郎は、宮殿を制圧すると電信を使い、直ちにマウイ島の榎本、ダイヤモンドヘッドの大鳥、海軍司令部の留守部隊に連絡を入れていた。
さらにカラカウアの贅沢が、銃などろくに撃った事も無い王宮職員も入れて60人程度の籠城を助けた。
「ガトリング砲なんて、何に使う気だったんですか? 陛下」
「欲しかったんだよ。
別に使う気なんか無かったよ」
「弾薬は?」
「サンプルとして貰った200発程度。
別に使う気無かったからね」
実戦ではほとんど使えないが、脅しには十分。
藤田はガトリング砲を正面に配置し、威嚇に利用した。
ホノルル・ライフルズとアメリカ本土からの義勇兵部隊は、一気にイオラニ宮殿を制圧するつもりであったが、真正面のガトリング砲を見た事と、ホノルル港から「蟠竜」が艦砲射撃をして来る為、分散して包囲、そこからの射撃戦に変わった。
「蟠竜」の砲は12斤滑腔砲片舷2門と6斤施条砲片舷1門で、攻撃力としては大した事は無い。
それでも密集していれば命取りになる為、併合派の軍はイオラニ宮殿周辺に散兵となった。
海軍司令部もホノルル・ライフルズやその下部組織から狙われたが、ここには練習艦「回天丸」から水揚げされた15cm銅製榴弾砲2門があり、監視と封鎖をするだけにしていた。
他の日本人の邸宅、松平家の屋敷や永井主水らの農園等は、流石に兵力分散になる為攻撃目標から外された。
オアフ島中央部にある林家には、穏健派の白人たちや、ハワイアン・リーグに加盟はしたが内戦になるとは思わず、危険を感じた者が逃げ込んでいる。
ホノルル市内は、散発的に銃撃や砲撃が起こるものの、膠着状態になって睨み合いの様相を呈していた。
そこでワイキキ・ホノルル境界での戦いで、勝った方が一気にホノルルの均衡を崩すものと目された。
大鳥圭介は演説を行った後、ここが内戦の分水嶺となるかもしれないと、残る第二、第四大隊及び司令部付砲兵大隊(定数不足で中隊規模)に出動を命じた。
留守は予備役が守るだけだが
「要塞に居るんだし、旧式銃でも守れるさ」
と気に留めない。
出撃する部隊には大砲を全員で運ぶように命令した。
侍の部隊は、幕末からそうだが、大砲の運搬は人足を雇って自分で行わない。
さらに小銃に武器を切り替えた後も、大砲の支援を受けずに前進してしまう癖があった。
フランスは砲兵の国でもあり、この悪癖を軍事顧問団は徹底的に叩き直そうとした。
その結果、砲兵支援下の歩兵戦闘、工兵による野戦築城を会得したものの、相変わらず砲兵の運搬は自分たちで行わず、人を雇い、馬で牽いて行っていた。
今回はその時間的余裕は無い。
今いる人数で運ぶ必要がある。
「第三大隊が敵に捕まらず、さっさとホノルル突入していればこんな事にならずに済んだ」
とあちこちで愚痴が聞こえるが、戦場は不確定なものだから仕方が無い。
そして今回人力で砲を牽引するには、もう一つ理由があった。
湿地や草地を走らす際に、車輪はたまに溝に嵌まったり、車軸が折れたりする。
そこで大鳥は、乾燥地までは車輪で運ばせると、砲架を分解して砲を橇に載せた。
その橇を皆で牽き、先行部隊は岩を取り除いたり、ゴザや草を敷いて滑りやすくさせていた。
「ハワイ王国初代のカメハメハ大王が、オアフ島の王と戦った時に、白人から貰った艦載砲を橇に載せて、あの山まで運んだそうだよ」
と大鳥が今そんな事を聞いてもただウザイだけの逸話を紹介する。
湿地帯、ぬかるみを運ぶには上手くいったようだ。
余談であるが、ハワイの日本人陸軍の大砲も、分解可能な山砲が多い。
砲兵の国フランスは野砲を奨めたが、体の小さい日本人が扱うには重いと、山砲を選択した。
偶然にも山砲重視は本国日本陸軍と重なる。
本国陸軍の方は、機動力重視のドイツ陸軍による指導のせいかもしれないが。
大鳥の本隊は、最前線の第三大隊から随分後方に砲兵陣地を構築した。
大量の兵が橇を曳いて来て、どうも疲れている。
(あんな疲労した兵士では、ただでさえ年齢の高い我が軍では、敵の銃撃の前に役に立たないだろ!)
星恂太郎は文句を、誰にも聞かれないように言っていた。
大鳥も疲れた兵士を休ませる事を考えていて、そこでこういう布陣とした。
第三大隊の位置は、アメリカの10ポンド2.9インチパロット砲の射程内で、そこで狙われながら一度分解した大砲を組み立てるのは危険だ。
フランス製レフィエ75mm砲及び85mm砲は、既に旧式化していたが、新型が95mm砲であった為に日本兵は好まず、砲架を山砲用にしていた。
その小口径砲を、再度砲車に乗せず、斜め上に向けて撃つよう土嚢に設置していた。
接近戦ではなく、長射程戦を挑もうというのだ。
命中精度は悪く、周辺で大いに土を巻き上げるだけとなっている。
ホノルル・ライフルズも南北戦争で慣れ親しんだ10ポンド砲と、1門だけの20ポンド砲を撃って来る。
どうやら砲撃戦となるようだが、ここでアシュフォードは疑問に思う。
(敵は我々の数倍の兵力であり、朝方の兵士は随分と勇敢に突っ込んで来た。
それなのにあんな臆病な戦い方……何か裏があるのでは?)
ワイキキ・ホノルル間の道の片側は海に出る。
もう片側は山林であり、迂回奇襲をかけるならこちら側だ。
アシュフォードは増援に来た部隊を山側に回し、待ち伏せを命じる。
果たして、今井信郎率いる第二大隊が近づいて来るのが分かった。
アメリカ本土から来たこの義勇兵部隊の数は少なかったが、彼等は果敢にも先制攻撃に出た。
第二大隊も反撃に出たが、ここで戦闘となった事で迂回攻撃はならなかった。
「敵さん、中々やりますねえ」
大鳥の発言に、滝川参謀が
「実は大鳥さん、あんた戦争下手なんじゃないですか?」
と痛い事を言う。
訓練や基本戦術を作る事には長けているが、学者肌の欠点で直感的な軍事作戦が出来ない。
大鳥はそう言われて苦笑いする。
「そうかもしれないが、まあ今井君なら何とかしてくれると思うよ」
一方で、正規教育とかは受けていないが、実戦経験を糧として戦争の達人となれる者もいる。
梅沢道治少佐は、ミトライユーズを曳いてホノルルの北に抜けると、草地や湿地より随分とマシな、馬車が通れる道を使って一気にホノルルまで駆けた。
そしてイオラニ宮殿の北側に出ると、部下たちに命じる。
「機関砲を持って宮殿に入る。
敵の反撃とかを気にせず、兎に角駆けろ。
我々が宮殿に入れば、少数でも守り切れる。
では行くぞ!」
突如現れた日本兵に、周辺の併合派部隊は一瞬驚いたが、日本兵が曳いているのが危険な兵器であると感じ、弾を浴びせかけて来た。
40人の小隊の内、4人が撃ち殺され、11人が被弾したものの、藤田五郎守備するイオラニ宮殿の中へ梅沢隊は入城に成功した。
「中々面白そうなモノを持って来ましたね」
藤田がそう言うと、梅沢も微笑み、
「これで少数でも守り切れますよ」
と返した。
弾薬の量も十分、兵士もグラース銃を持って入城。
ホノルル・ライフルズも局面が変わった事を悟り、ワイキキ方面のアシュフォードの意見を伺った。
日本軍の部隊を迎え撃ちながら、アシュフォードはこう答えた。
「ガトリング砲を使え」




