戴冠式の前
1883年2月、カラカウア王の戴冠式が行われる事が決まった。
それに先立ち、ハワイ島、カウアイ島、そしてオアフ島の各地から大名・旗本がホノルル市内に集結した。
以前、カメハメハ5世の時は正月期間中は4人の大名は王国政府に出仕し、王に近侍するよう義務づけられていた。
だが親米的な次のルナリロ王の時にそれを廃止、特にホノルルまで出なくても良い、とする筈だった。
正月を病の床で迎えたルナリロがその決定をする前に死亡し、そのまま選挙に突入した。
カラカウア王は派手好きであったが、一方で白人の側近の言う事を聞く君主でもある。
二年に一度、交代で正月の儀式に参加とし、滞在期間も最短7日間と短縮した。
「参勤交代が随分負担が無くなったわい」
と冗談も出たが、一方で中央の情報から疎くなる心配もあり、4家ともホノルルに上屋敷(政務中心)と下屋敷(商務中心)を置いた。
そして戴冠式に先立つ正月、久々に4大名家がホノルルに集結した。
日本の三賀日を終え、土方歳三は比呂松平家上屋敷に松平容保を訪ねた。
「そうか、佐川は見事討ち死にしたか……」
土方が差し出した太刀を見て、そう感慨を述べる。
元会津藩家老佐川官兵衛は、帰国後に警視庁に入庁、その後の西南戦争に出征し銃弾を受けて戦死した。
その場にたまたま居合わせた同じく警察兵の杉浦義衛(永倉新八)が、形見として太刀を受け取った。
その太刀は大殿松平容保より預かったものだから、縁があったら返して欲しい、と。
そして縁は繋がった。
先年のカラカウア王訪日において、随員の親衛隊長土方歳三は恨みを持つ者が雇ったヤクザに襲撃された。
外交使節を守るという表向きの理由で、永倉は土方を助太刀する。
そして土方に佐川の形見である太刀を預け、松平容保への返還を託したのだった。
「佐川は死にたがっていた。
死ぬ事はない、生きて戻って来いと言ってはいたが、残念な事だ」
「他に日本で起きた事はありませんかな?」
ホノルル家老の西郷頼母が伺う。
西郷頼母は土方とは五稜郭で共に戦った仲になる。
「天皇陛下より中将様に伝言があります」
松平容保は「天皇」という語を聞き、かしこまった。
西郷は
「そっちを先に言わないか!
佐川殿の話は後でも良いわ!」
と文句を言い、やはり平伏する。
土方は明治天皇に拝謁したが、直接の会話はほとんど無かった。
山岡鉄舟との会話を聞くという形で、天皇は土方からハワイの生活について聞いていた。
そして
「朕は、如何に崇徳院の言葉とはいえ、会津中将までをも国から出した事を悔いておる。
だが、あの時は……致し方無かった」
そう言葉を発した。
「勿体ないお言葉にございます」
松平容保は頭を下げながらそう言い、北西の方角に向き直って再度礼をする。
そちらの方角に日本があるのだ。
土方は構わず、帝の言葉を伝える。
「いずれ呼び戻したい。
中将には息災で居るように」
「大殿!」
西郷が容保に言う。
「これ以上ない帝のお言葉。
これに甘えましょう!
殿はもう十分にお働きなされた。
佐川殿のように、日本に帰って暮らしましょう。
もうここらで良いと存じます」
容保はそれを無視し、さらに土方に問う。
「他に何かおっしゃられてなかったか?」
「は……、それは我等への言葉になりますが……」
「構わぬ、聞かせて欲しい」
「は……。
帝はカラカウア王と会談されました。
この会談はアメリカ人たちに見つからぬよう、宿舎を抜け出して行われたもので、ハワイと日本との合邦まで申し込んだそうです。
そこまでの王の思い詰めようを聞いた帝は我等に
『ハワイ王の話を聞き、崇徳院の、お父様の言われた事が分かった。
そなたたちは列強に負けず、彼の王を援けよ』
と言われました」
容保は頷くと西郷の方を顧み
「これでは日本に戻れぬのお」
そう言った。
当然西郷頼母は反論する。
「今のは土方殿が言われたように、土方殿や榎本殿の幕臣たちへのお言葉です。
大殿へのお言葉は先程の『呼び戻したい』と『息災で居るように』に尽きます。
どうか日本に、会津にお戻りになるよう、お心を固めなされ!」
「ならぬな」
「何故に?」
「余はいまだ帝の仰せである『夷狄に奪われんとする国を助けよ』を一度も為しておらぬ。
余にも意地がある」
「それは無用の意地と存じます。
それに大殿は、ハワイ島ヒロの地を治め、先の火山の折は多くの者を救いました。
今までに国を奪おうとする動きはありませぬ。
会津より連れて来た医者たちも存分に働き、この国の人口減少を食い止めました。
先年よりは人口は増加に転じたと伺っております。
殿や会津の者は夷狄が国を奪おうとする隙を与えませんでした。
なれば、これより先は増えていくこの国の民に頑張って貰いましょう。
国を救うのは我等異国の者ではなく、この国の民でなくてはならぬのです」
容保は幕末から変わらぬ西郷頼母の諫言を聞いていた。
そして幕末同様聞き入れなかった。
「頼母よ、そなたの言う事は正しい。
だが、やはり今はまだ戻れぬ。
確かにこの国の民が疫病で死なぬようになって来た。
だがそれは赤子が増えたことでしかなく、その赤子が大人になって戦えるようになるには、まだ二十年の時が必要であろう。
お役目を引き継ぐのはその時ぞ。
我等はまだやらねばならぬ」
「恐れながら、それは榎本殿や土方殿にお任せなされ。
あるいは御舎弟桑名少将様や、酒井家に林家というとこにお任せあれ。
なにゆえ京都守護職以来、会津がここまでせねばならぬのですか?」
「弟が居るなら、なおの事兄がお役目を放って帰る訳にもいくまい。
あれも京都を共に守った事に、会津と変わりはなかろう」
土方を置いて君臣が言い合いとなった為、土方は居づらくなって来た。
なので一言二言言って退去しようと考えた。
「恐れながら会津様、ご家老殿に申し上げます。
帝は『いずれ呼び戻したい』と仰せでした。
今すぐとは言っておりませんが、もしも呼び戻しの命が下りましたなら、どうか従っていただきたく存じます。
それまでは『息災で』いていただきとう存じます。
西郷殿もそれで良かろう?
今すぐは、おそらく日本も戸惑うであろうから」
容保は頷いて賛意を示した。
西郷頼母も「では、帰国の命が出た時は素直に従っていただきますゆえ」と納得した。
松平家上屋敷を辞した土方は、全く偶然に別な大名と遭遇する。
「土方殿か?」
「酒井様?
何故このような場所に?」
「王の戴冠式に出る為、カウアイ島より参ったのだが」
「それは存じております。
このような海辺で、ごく僅かな供揃えのみで何をされておられるのですか?」
「儂は何もしておらぬよ。
家臣が、ほれ、波乗りをしておるのを眺めておってな」
先日サーフィンが解禁された。
ハワイ人は実に数十年ぶりのサーフィンを始めたのだが、やはりブランクがある。
原始的な文化と忌避の目で見る白人と違い、庄内藩兵(現ハワイ王国陸軍第2旅団)の何人かが
「我々もやりとうございますが、お許しいただけましょうや?」
と申し出て来たのだ。
「日本に居った時、湯野浜の海岸で『瀬のし』で遊んでおったというのでな。
儂も久々に見てみようと思ったのよ」
酒井玄蕃は、庄内藩家老からハワイでは大名になった為、お城と江戸屋敷以外を知らない世間知らずでは無い。
庄内湯野浜では、子供が『瀬のし』と呼ばれる一枚板で波乗りを楽しんでいたという。
酒井家では移住時から現地女性との結婚が進んでいた為、上の子は12~13歳になる。
その子たちに波乗りを教えるべく、親がまず手本を見せていたのだ。
「庄内にハワイと通じる遊びがあったとは存じませんでした。
おそれながら、この話を王の耳に入れてよろしいでしょうか?
きっと喜ばれると思います」
「構わぬが、その前に聞きたい」
「何か?」
「カラカウア王は西洋人が何故か嫌がるこの波乗り遊びを許した。
あの方は西洋人の支持無くば、王でいられるか危ういと思うのだが。
近頃は女子の腰振り踊りも公の場で行って良いと言い、やはり西洋人は嫌がっておる。
真意は何か、その方は知らぬか?」
土方はカラカウアが日本訪問時に、太平洋連邦やら日本との合邦やら、皇族との縁組やらを画策した事を伝えた。
酒井はそれを聞き、しばし考えた後に
「そうか、王はこの国の魂を蘇らせるおつもりか」
そう結論を出した。
そしてこう言う。
「であるならば、我等は協力すべきであるな。
それが我等がこの地にある意義であるからな」
 




