国王と4つの大名家
21世紀の現代、ハワイでは稲作が行われていない。
しかし明治初期、ハワイは稲作が盛んであった。
中国系の移民が稲作を行っていたが、彼等は年季が終わるとすぐに商売に鞍替えする為、大規模化はしていなかった。
それを受け継ぐのが、「米を以て物価の基準とする、米本位制の国」日本からの移民であった。
「騙された……」
8割の日本移民、蝦夷共和国とは無関係な彼等はそう感じた。
武士として招かれたのではなく、農民として働けということ。
カメハメハ5世は日本に移民を要請したが、兵士としてではない。
明治天皇は夢を見て、「ハワイの為に働け」と言ったが、言外はともかくはっきり「兵士として」とは言っていない。
新政府は「武士の礼をもって降伏を受諾」「大赦し、武士としての誇りを回復」させたが、移民先でどうこう言ってはいない。
勝海舟は「白人に脅かされているハワイを助けろってことだ」とまでは説明したが、軍事力を求めていると言ってはいない。
漂流後、ハワイに居住した事もあるジョン万次郎の元に、誰も話を聞きに行かなかった。
外交関係者は「軍人を送るから、うまく雇って欲しい」という調整等、全くしていなかった。
騙されたも何もないのだが、彼等の主観では「騙されて、南の果てに来てしまった」となった。
会津松平家は、ハワイ島ヒロに広大な土地を与えられた。
1800人もの家臣がついて来た容保には、カメハメハ5世もそれなりに敬意で遇した。
だが、土地があっても生産手段がない。
騙されたと文句を言いながら、会津藩士たちは刀を鍬に変え、田畑を作った。
ヒロは雨の多い土地である。
百姓仕事の素人である彼等は、水の管理に苦労し、その年は思ったような収益を上げられなかった。
そんな彼等の元に、明治四年になって手紙が届いた。
陸奥国に移り、そこを斗南藩と名付けて住み着いた、日本に残った会津藩士たちからの手紙だった。
斗南は寒かった。
この地は元々盛岡南部家が支配していた。
南部家の分家の七戸家が持っていた土地の中で、最も生産力の無い土地が、会津の移転先として分割された。
岩だらけで、夏は寒く秋は霜が早く降るこの地で、多くの藩士は生きていく為に刀を捨て、平民に籍を移した。
農作をし、それを市場に売り、家族を養っていく。
かつてのような秩禄など期待出来ないのだ。
さらに、元からその地に居た南部家の農民との軋轢もあった。
贋金を作らざるを得ない状況に追い込まれたりと、多くの藩士は苦労していた。
そんな手紙を読み、ヒロの藩士たちは奮起した。
ここは雨が多いだけで、温暖だから頑張り次第で農作物は採れる。
海があり、漁業も出来る。
彼等は自らを「比呂松平家」と名乗り出した。
会津という名を捨て、一からやり直そうとした。
そう、北の同僚が「斗南」と名乗ったように。
一方で彼等は、仮住まいの大殿・松平容保の為に城を建てようと思った。
自分たちの誇りは捨てても、大殿と松平の家名の為にも、小なりとも城を作りたい。
その願いが成就するのは、もっと先の事になる。
会津松平家の松平容保と、桑名松平家の松平定敬は、「高須四兄弟」と呼ばれる美濃高須藩主・松平義建の子で実の兄弟だった。
そんな事はカメハメハ5世は知らなかったが、ファミリーネームが一緒ということで
「同じ島の方が良いかもな」
と、松平定敬にはハワイ島コナの土地を与えた。
カメハメハ5世は、妻子連れも含む1800人を抱えた容保を広いヒロに、300名の男所帯の定敬にはそれより狭いコナに封じたのだが、その気遣いは逆に出てしまった。
日本人が好む稲作で見るならば、コナの方がヒロよりも天候が安定していて、取れ高が良かったのだ。
初めて慣れ親しんだ土地から引き離され、北と南で天候と戦う「悲劇の匂いがする」会津と異なり、65年程前に白河から国替えされた大名家で、当主自体も五稜郭まで本領を離れて戦い、付き従った立見鑑三郎たちも、桑名藩飛び地の越後柏崎から長岡、そして庄内に転戦していた為、「先祖代々の土地から引き離された」悲壮感は無かった。
米の取れやすい、狭いが手頃な土地で、桑名松平家は復興した。
もっとも、彼等も藩主の兄に倣って「古奈松平家」と名乗り出した。
旧藩時代を引きずらず、質実だが明るい家風となった。
定敬は独身であった為、安定したならば許嫁を呼び寄せ婚儀を執り行うつもりであった。
しかし許嫁の方は日本から出る気はなく、破談の申し状が送られて来た。
「わしは五稜郭で駄目だったら、上海まで逃げるつもりであった。
そういう男では、嫁も来ないのかもしれんのぉ」
そう家臣たちと笑い合った。
「コナの日本酋長が嫁に結婚を断られた」という話が、何故か悲話としてカメハメハ5世に伝わった。
彼もまた独身で、「生涯に2人の女性にふられた」と歴史書に記されている。
哀れに思った王は、王族の女性を定敬に嫁がせる事にした。
…王族の多くは
『自分の結婚の方をどうにかしろ! これではカメハメハ直系の血筋が絶えてしまうじゃないか!』
と思ったが、とにかく王族の娘を選び、縁談を申し込んだ。
日本・ハワイの婚儀が執り行われた。
そういった事情もあり、古奈松平家では次第に現地の女性との混血が進むことになる。
オアフ島の隣、カウアイ島。
ここには庄内藩家老だった酒井玄蕃と900人の男女が入植した。
彼は大名ではなかったが、主君と同じ「酒井」の苗字を持つ家老であり、他と同じように酋長として扱われた。
出羽国庄内同様、カウアイ島は稲作に適した土地だった。
カウアイ島には、かつてカウムアリイがカメハメハと対立していた時期に、西洋船を迎えた港があった。
カウアイ島の特産品として、白檀は枯渇して来ていたが、その他の香木や建築材があった。
玄蕃は日本に書状を送り、庄内酒井家領内の大商人・本間家と繋ぎをつけた。
『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に♪』
とわらべ歌に歌われた豪商である。
玄蕃は本間家に命じ、カウアイ島にも暖簾分けした支店を作らせた。
本間家にしても、別に財閥になる程大きな野望は無いが、見知ったる酒井家の縁者の庇護で、海外展開するならそれもそれで悪くは無い。
カウアイ島から他の日本人町への輸送の一切、カウアイ島の特産品、特に売れる香木を日本に輸出する業務、商務一切の事務手続きをするホンマ・カンパニーをカウアイ島とオアフ島に開いた。
さらに零細小作人を移民として運び、結果酒井家の武士は、農作業から解放され、再度武芸を磨いて軍隊に戻る日を待つことになる。
先代までの野放図な伐採を深刻視し、植林事業を行っていたカメハメハ5世との間で林業を巡る意見調整がしばしば起きるが、この交渉で何度も顔を合わせている内に、自然と酒井玄蕃と本間家は王家と親しくなっていった。
そして後日の事になるが、日系移民の中でアメリカ白人に最も忌み嫌われるのが、この本間家となる。
他の日系人の多くは農作業をし、林業をし、軍事的には脅威であるのだが、経済的には気にする必要はない。
彼等の作物は白人の商社が取り扱わなければ、それで破産なのだ。
しかし、本間家とホンマ・カンパニーがある限り、経済で締め上げる脅しは効かない。
酒井玄蕃は、単に自領の作物を売る為に呼び寄せたに過ぎないのだが、無意識に大きな布石を打ったと言える。
残り1家、林 忠崇と70名程の男子。
この小大名は誰からも恐れられなかった。
彼の部下人数なら、クーデターを起こされても怖くはない。
だからカメハメハ5世は、家臣たちを連れて来た「酋長」たちの中で、彼だけは首都のあるオアフ島に置いた。
他は軍事蜂起するなら、船に乗って海を越えて来ないとならない。
安全視された彼の封地はオアフ島の北部であった。
周囲には白人たちの農場が隣接する。
必然的に忠崇は、白人農場主たちと多く交渉し、彼等の多くと知己になる。
残り3千人超の日本人の内、半数の移民希望だった小作人や町人は、そのまま「酋長」こと大名家に雇われ、農作業者として各地に移住した。
また半数の武士の内、大名家に仕官を申し出る者、本人に土地が与えられ農園主として過ごす者、その土地を売ってホノルルで商売を起こす者等、落ち着くとこに落ち着く者も少なくはなかった。
また、行政能力の高い武士や移民商人は、政府や白人商社や華僑に雇われ、その手腕を振るう。
しかし数百名は「騙された」と酒を飲み、市内で暴れ、ホノルル新撰組に成敗された後は暗黒街に身を潜める者も出た。
日系移民の暗部として、後々問題となる。
かくして、国王に仕える4大名家という形で、新しい日系社会が生まれた。
大名家たる彼等は、宮殿の傍に「ホノルル上屋敷」という出張所を置き、「ホノルル家老」という連絡番を残した。
参勤交代ではないが、年賀の挨拶(ハワイではマカヒキといって、4ヶ月ばかりお祭りを行う)に出向き、王と食事を共にして野心の無いとこを見せるようになった。
かつて白人を従わせる姿で威厳を示したカメハメハ1世同様、4人の刀を佩いた日本人の大名が彼に付き従っている姿を国民に見せ、カメハメハ5世は威厳を示した。
アメリカ白人への5世の対抗心は、僅かだが満たされていた。




