紀尾井坂の変と旧幕府勢力壊滅の陰謀の終焉
明治十一年5月14日、大久保利通は福島県令山吉盛典と会い、
「明治を30年まで10年毎に3期に分けて考えてみた。
最初の10年は創業の時期である。
戊辰の戦やらや士族反乱などの兵事に費やした時期になる。
次の10年は内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期とする。
俺いは第2期まで力を注ぎたいと思うちょる」
そのように語った。
その直後、皇居に向かう途中の紀尾井坂で、大久保は不平士族に襲われ、暗殺された。
暗殺した石川県士族島田一郎の携えた斬奸状には、他に6人の高官の名が記されていた。
木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の名である。
この内、木戸孝允は既にこの世にいない。
黒田と川路は、西郷シンパからしたら許せない「薩摩の裏切者」になる。
酒乱で知られる黒田が妻を斬りつけ、それを警視庁大警視の川路がもみ消したという噂があり、その程度の理由で名を連ねられたとも言える。
残る岩倉具視、伊藤博文、大隈重信のうち、2者が事件後の夜に密会を持った。
「西郷、大久保、木戸、皆死んでしもうた。
この世は無常よのお」
「お嘆きは分かります」
「伊藤、あんさんと大隈とが、大久保亡き後の政府の両輪や。
そやが、あんさんたちは洋風に改めるのに急過ぎるとこがある。
この国の良いとこも忘れたらあかんえ」
岩倉具視の中では、大隈重信よりも伊藤博文の方が話しやすいとこがあった。
大久保暗殺でやや気弱になった岩倉は、立憲政治について考え始めている。
帝、朝廷の存在を変えてしまうかもしれない、聖なるものではなく俗の一部として枷を嵌めるかもしれない立憲政治に、岩倉は個人的には反対であった。
だが大久保暗殺犯の斬奸状に「公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する、其の罪第一なり」とある。
民権は世の流れであり、いつまでも抗う事はできない。
憲法を作り、朝廷もその枠の中の存在となるのも致し方無い。
ならば、どれだけ日本の個性をその中に残せるかが重要であろう。
変えねばならぬ、なれど変え過ぎてもならぬ……。
大久保を失ったばかりの、愚痴や嘆き混じりの政談ながら、伊藤はじっと聞いていた。
その中のちょっとした話題で、ハワイの旧幕臣の件が出た。
「大久保も居のおなったし、ハワイのアレな、もう手を出さんでええやろ」
「はあ、そのようなものですか?」
「あれはな、亡き兵部卿(大村益次郎)が
『南北朝のようなものであり、政府に納得出来ぬ場合に逃げ込めるもう一つの政府を容認するが如きものである』
と言って、潰そうとしたものや。
そやけど、もう明治も11年経った。
あんさんがハワイの使者と話をしてから……」
「4年経ちました」
「そうやな。
もういくら願っても文久や慶応の頃に時は戻らん。
嫌でも民は、海の向こうの幕府になど縋ろうとは思わぬ。
ほれ、大久保を斬った石川某のように、逃げるよりも変えようと思うておる。
幕府を再興するより、議会を作れと言うておる。
幕府に期待する者などおらへん。
せやったら、いつまでも兵部卿の考えに縛られていても仕方ないで」
確かに事情は大村益次郎死亡時と変わっている、
亡き大村は、いずれ改革に反対する不平士族が、海外の旧幕府勢力と手を組んで、内外から日本を揺るがす事を可能性の内に潰そうとしていた。
しかし実際に起きたのは、旧幕府勢力から一部が離脱し、新政府の為に不平士族と戦ったということ。
そして旧幕府勢力は士族と同調せず、むしろ使者を捕らえて送り返して来た。
これには各地の士族のうち、ハワイの旧幕府を知っている者たちも、大いに失望したようだ。
彼等に合流しようとも、彼等の助けを得ようとも、最早思わない。
岩倉はそう割り切った。
では、岩倉と共に旧幕府を潰そうと暗躍した、亡き大久保利通はどうだったのか?
伊藤博文は、先輩の桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞のように京都で目立つ活動はしていなく、それ故に幕府治安組織の弾圧を、長州藩士としては憤っていても、個人としては特に恨みは少ない。
彼がハワイの旧幕府勢力壊滅に加担したのは、政府主流である岩倉と大久保に近づく為でしかなかった。
「亡き大久保卿も同じ考えでありますか?」
「分からんが、多分大久保は違う考えやったと思う。
大久保は武士やったからの。
本人も気づかんかもしれんが、戦と名誉とを頭に置いておったよ。
士族の反乱と気脈を通じられる事を何より恐れ、次に海外での日本人の評判が我等にも繋がり、条約改正交渉が上手くいかなくなる事を危惧しておったわ。
知っておるか?
大久保は幕府そのものは潰すつもりやが、あの中の者たちは救う気やった」
「知りませんでした」
「榎本と大鳥は我が国において海軍、外務、その他重責を任せるに値する。
数年形ばかりの収監にて禊を行い、政府高官として取り立てるべきなり。
そう漏らしておったわ。
それゆえにハワイの幕府などという古き容れ物は早々に壊し、彼等を救ってやりたい、とな。
その辺、大久保も古風で義を重んじる武士やのお」
「はあ……。
しかし、噂に聞く帝の『密勅』はどうなるのでしょう?」
「その時に病に罹った麿が言うのやが、単なる偶然や。
他の公家たちは祟りやと恐れておるが、祟りなどあるわけおへん」
「驚きました。
岩倉様はそのような事は恐れないのですね」
「麿は祟りなど怖くないわ。
怖いのは人の方や。
祟りを騙って何をしでかすか分かったもんやない」
「あははは……」
伊藤は乾いた笑いをした。
岩倉が唯物主義者なのは知っていたが、ここまでとは。
「そのハワイですが、わしが会いましたドール氏によりますと、ハワイの方こそ侍等送ってくるなと言うちょりました」
「知らぬ」
「いや、知らぬはいけません」
「士族などもうおらん。
西郷が皆、黄泉の国に連れて行きおった。
今おるのは、籍が『士族』になっている、ただの日本人よ。
主君はただ御今上あるのみ、家ではなく国の為に働いてもらおうぞ」
伊藤は、ここは先程「大久保は武士だ」と言った岩倉に対し
(貴方様は公家ゆえに分かっておりませんな)
と思うとこがあった。
『侍』と言われる古風な男たちは、この先まだ生き残るだろう。
日本が旧弊を完全に改めるのは、下手をしたら自力では出来ないかもしれない。
だから早々と政府の手で進めたいというのが、伊藤と大隈重信の一致した意見であった。
とりあえず、「ハワイにこれ以上武士身分を送らない」とするドール氏との密約はそのままに、ハワイ王国の旧幕臣の帰国と、処罰無しでの政府登用を認める事を、岩倉と伊藤は決めた。
これにはハワイ王国での官職を全て辞任してから、という但し書きがつく。
ドール氏は受け容れるなら単純労働力を、と言っていた。
侍たちを引き取るならば何も問題は無い、むしろ望むところだろう、そう思った。
そして話題を変え、別な国事について、外国について話していく。
前年の西郷隆盛の死、そして大久保利通の死は、ハワイの幕臣たちの耳にも入った。
比呂松平家では、家臣たちが密かに祝宴を上げているという。
違う感情を持っているのが、元の庄内酒井家家老だった酒井玄蕃である。
「西郷は真に大人物であり、庄内の領民、家臣ともに苦しみを受けずに済んだ。
むしろ庄内を罰しようとしたのは、長州の大村益次郎であった。
庄内を改易し、所領を減らし、殿を他所に移そうとした。
この時も西郷と黒田への嘆願が功を奏し、本間家の献金もあって、庄内はそのままで収まったという。
会津も世良修三などという長州者でなく、長岡も岩村精一郎などという小者ではなく、薩摩の者が行っておれば異なる収まり方をしたのではあるまいか?」
そして
「西郷が死に、大久保も死んだ。
新政府において薩摩の力は大いに削がれた。
長州が主となる新政府は、もっと容赦の無いものになるのではないか?」
そのように語った。
酒井からそのような事を書いた私信を受け取った榎本武揚も、同様の感想を抱く。
「おそらく日本本国と我々とは、関係修復が成るだろう。
だが長州や佐賀を中心とした政府は、薩摩と違って情では結びつかない。
利と理をもって繋がる、淡い関係となるであろう」
50話まで書いて、まだ本番とも言えるハワイ革命どころか、その前の銃剣憲法にすら到達していない…。
前作では、もう実行中の作戦の中に飛び込んだから
「たった数ヶ月で何が出来る?」というテーマもあったわけですが、
今作は
「全体の歴史を変えるには、数十年前に布石して置かないとダメじゃね?」
「歴史は積み重ねの上に出来上がるから、その都度フラグへし折っていかないと」
という思考で行ってますので、イベントが無い時期の進行が退屈になってしまう欠点が出ました。
これまでに
・疫病でハワイ人の人口が減りまくる←医師投入、ちょっとずつでも乳幼児死亡率を下げる
・ハワイは軍隊を解散し、防衛も白人任せ←旧幕府軍が軍閥として防衛を代替
・選挙後の暴動を理由に現地人の発言権低下←現地人を新撰組にした上で鎮圧させて回避
・産業が白人プランテーション一本化←黒駒が何かやってやがる
で色々フラグへし折って来ました。
フラグ間の中間期ですが、
・流石に幕末の装備や戦術の軍じゃ、数だけいても勝てないよな
・軍艦も上に同じく
・アメリカと全面戦争やったらまずいと、気づかねば
・歴史的にそろそろ日本とも和解しとかんと
てな話にしました。
歴史的にってのは、筋書き上の事ではなく、明治も十年経ったのに幕末を引きずられても…ってとこでして。
(るろうに剣心が明治十一年だから、幕末が歴史物語、浪漫みたくなるのはそれくらいから?)
次章は1881年になります。
カラカウア王が世界一周の旅に出ます。
随員に(以下略)。
 




