医療と学校と
1875年、日本から旧幕臣移住者が来て6年が経った。
高松凌雲や松本良順という医者たちから嬉しい報告が上がった。
乳幼児の死亡者数が出生数を下回ったという報告である。
この統計にはカラクリがあった。
元々乳幼児の死亡者と出生数を比べて、大きく数字は悪くなかった。
何故なら、白人同士の子、白人と現地ハワイ人の子の死亡数はそう多くなかったからだ。
深刻だったのは、現地ハワイ人同士の子であった。
カメハメハ3世の時代の土地所有制度は、土地の私物化という概念の無いハワイ人には完全にマイナスに作用し、多くのハワイ人は土地を売却した一時的な大金と引き換えに、子孫に渡って土地による生産を失い、貧困化していった。
オアフやカウアイの王族以外のハワイ人には、原始的な宗教も残っている。
病院よりも祖先の霊に祈り、霊格を失わない儀式をし、穢れた方角を向かない等の宗教で病気に立ち向かった。
これらは白人が持ち込んだ天然痘、麻疹、赤痢、コレラ等には無力であった。
白人医師よりも日本人医師は、ハワイ人の医療改革に上手く対応出来たと言える。
何故ならば、日本もつい少し前までは似たような医学知識の庶民がほとんどだったからである。
さらに、外国人に対し警戒し、場合によっては刃物で襲って来るとこも同じであった。
故に高松凌雲や松本良順は、胆力という意味では白人医師に勝る。
刃物で多少脅されても、堂々と反論してのけるのだ。
さらに医師は彼等2人だけではない。
会津や桑名から殿様について来た者、新政府に仕えるのを良しとせずにハワイに渡った江戸の医者、さらに新政府の間諜でもある旧幕臣たちを見張る医者もいた。
各々診る者、医学の種類、目的は違えども医者としてハワイ人の為に働くのは同じであった。
旧幕臣からしたら敵になる、新政府紐付きの医者たちだって、対病人ともなればそんなお役目よりも医者としての意識が優先するようだ。
そんな医者たちが、下手に手術だの投薬だのよりも、使える薬草とその処方、熱が出た時の対処法、食事における熱を加えた殺菌や衛生について口を酸っぱくして説いて回った。
ハワイ人が一番警戒したのは、種痘である。
得体のしれないものを身体に入れるのを彼等は嫌い、この時が一番命を狙われた。
だが、これも衛生概念を説く時同様、粘り強く、臆せず堂々と、相手の分かりやすいように説いて回った為に接種率が上がっていった。
そして天然痘の死亡者数を減らしたことが、ハワイ人の人口増加に大きく貢献した。
乳幼児の死亡数が減っただけではない。
親が死なないことで、子は看病を受けられるし、その親がまた子を産む。
人口の減少が止まり、増加に向かう転換点を迎えようとしていた。
少年教育は、比呂松平家領やその周辺に住むハワイ人から始まった。
松平家は古くから、教育をお家の重要事項にしていた。
比呂に移ってからも以前と同じ「日新館」を建てて、礼法、書学、武術の他に水練に天文学をも教えていた。
それがハワイ人の心に引っ掛かった。
水練を学べるならば入学したい、天文を農業の為にも学びたい、という少数の入校希望者から始まり、日本式の礼儀作法や武術を教えられたハワイ人の少年は、かえって「キリスト教化する前の、古いハワイ人の気質に似ている」とされ、入学希望者が増えた。
ハワイ人は、カメハメハ大王生存中の1800年初頭には、既に固有の武術を忘れ始めていた為、槍や弓を学べる学校はハワイ島のハワイ人に好まれる事になる。
一方、オアフ島の日本人部隊と旗本農園も、日本人学校を建てた。
日新館程大規模ではないが、日本人部隊や旗本、御家人たちの子たちに教育を施す場所が必要だった為に、軍駐屯地の一角に学舎を設けた。
そこでは初等教育を行うが、その他に中島三郎助らが作った海軍学校があり、ここでは航海術を学ぶ。
さらにブリュネが推薦したフランス人軍事顧問が再度来た事により、士官学校も復活した。
海軍学校と士官学校は基本的に軍事を学ぶ為、ハワイ人でも王族や少数の裕福な者のみが通う。
榎本武揚は初等教育の重要さに気づき、学舎を一般ハワイ人にも開放しているが、入学数は芳しくない。
……どっかの誰かさんたちが、人を真っ二つに切り裂いたとか、首を飛ばしたとかの悪評のせいだ、と大鳥圭介等は考えている。
そのどっかの誰かさんは、これもまた教育に力を入れていた。
といっても剣術道場や最低限の教養を学ぶ程度ではあるが。
彼自身は国王の親衛隊長となった為、部下に任せている。
京都の新撰組の時から、隊士に対し剣術、砲術、柔術、兵学の他に一般教養を教える教授方がいたので、単にそれをホノルルでもやっているに過ぎない。
ホノルルの新撰組には、今やハワイ人の部隊や隊士見習いが存在する為、彼等への教育も必要である。
が、面白い事にこの「人斬り剣術」の道場には、隊士や見習いの弟だの親族だのが入門希望殺到している。
一般教養を教える学校は悪評があると寄り付かないが、最初から「人斬り剣術」を教えると銘打っていれば、逆に悪評こそ良い宣伝となったのかもしれない。
土方歳三は「試衛館」の名前をつけなかった。
それは既に多摩に存在し、自分はそこの道場主でも跡取りでもないから、勝手に他人の道場の名を使えない。
単に道場と呼び、その「ドージョー」には血の気の多いハワイ人が入門し、ハワイの古典武術の再興も行っていた。
少年少女の教育に、水練や剣術等の体を動かす事が取り入れられ、さらに学校単位での健康診断も行われるようになった為、一層ハワイ人の健康の強化が図られた。
残るは大人の病気、性病、アルコール依存症、それによる肝炎や免疫力低下による肺病の克服であるが、彼等は乳幼児、少年少女よりも面倒臭い相手と言える。
体が動く内は病院に来ないし、注意をしても言う事を聞かないのだから。
その最たる者が、国王カラカウアである。
先代ルナリロ王と同様、彼も酒量が半端ではない。
友人のサンフォード・ドールらからも注意されているが、とにかく酒豪なのである。
そして酒は、砂糖を発酵させて作ったものを更に蒸留させたラム酒である。
輸入もののウィスキーも愛飲する。
言っても「私の酒は先代と違って楽しい酒だから問題無い」と言う事を聞かないのだ。
そのカラカウアであるが、彼の白人人気は急上昇していた。
昨年渡米してグラント大統領と交渉し、砂糖と米の関税ゼロを勝ち取ったのだから。
農園主はアメリカへの輸出を増やし、ハワイ王国の経済は久々に活況を取り戻した。
その交易に関わる船員は、マウイ島ラハイナで一攫千金の博打が出来ると知り、そちらにも飛び込んだ。
ラハイナはますます栄えていった。
だが、ラハイナを影で牛耳る黒駒勝蔵には、根本的に欠けている概念がある。
島民の共存共栄(無論、賭場を維持する為)には意識が向いていたが、健康管理というものは意識すらしていない。
タバコを吸い酒を飲む、それだけでなく裏通りではいかがわしいドラッグも蔓延する。
「人の一生などは天が決めること。あーだこーだ悩むより、男ならでっかく何かをしよう」
という男な為、高松凌雲や松本良順のように乳幼児医療を大事にする事も、オアフ島の日本人のみならず白人たちのように少年少女の世代の学校を作る事もなかった。
金は儲かるようになる為、隣の島の病院にかかったりはするが、基本マウイ島の平均年齢は他と比べて低くなる。
しかし、黒駒が金を出し、白人が己の理想をもって作ったホテルや別荘等は、療養施設としては最適であった。
ラハイナから離れたところの別荘地は、転地療養にもってこいの場所となった。
勝蔵は「病人が賭場に来ちゃいけねえよ」と気を使うが、それを利益にしようとは思わなかった。
……利益として考えなかったからこそ、病院やサナトリウムを建てるという発想にならなかったのかもしれない。
医が算術と気づいてしまったら、さぞ良い病院を建てたのであろうが。
さて、若者への教育が盛り上がって来たハワイ王国に、日本から意外な訪問者が現れた。
「中浜先生、お久しぶりでございます」
大鳥圭介が駆け寄り、歩行が不自由な体を支えた相手、それはジョン万次郎こと、中浜万次郎であった。
天保年間に漂流し、アメリカで教育を受け、捕鯨船の副船長にもなった日本人漂流者で、幕末に帰国し幕府・薩摩・土佐に知識や技術を授けた男である。
幕府は、特に水戸徳川斉昭が「アメリカの間諜かもしれない」と絶えず警戒し、肝心な外交の場に呼ぶ事をしなかった為に、幕府の外交はいくつかの場面で相手のハッタリに対して遅れを取ってしまった。
幕府では活かし切れなかったその知識と経験だったが、明治新政府になると今度は知識不足で「官」の役には立たなかった。
元々漁師であり、アメリカでも初等~中等教育を受けたに過ぎない為、専門的な学問を、適した日本語に置き換えて翻訳する事が苦手だったのだ。
代わりに通訳としては優秀であった。
さて、その万次郎は普仏戦争視察団として欧州に派遣された後、軽い脳溢血を起こした。
幸いにも日常生活に不自由しないほどには回復したが、これを機に「官」とは距離を置いていた。
そんな万次郎がハワイを訪ねて来たのは、教え子である大鳥圭介に会う為だけではない。
彼の耳にも、アメリカとハワイとの関係が密接になり、やがてアメリカに併合されるのではないか、という話が飛び込んで来たのである。
彼は普仏戦争視察からの帰途、アメリカとハワイによって旧知の人々に会い、情報を交換していた。
そして、役に立てるのでは? いや、アメリカとハワイと日本の為に役立ちたいと、病躯でありながらやって来たのだった。
幕府に仕え、航海術や英語を教えていた関係から、万次郎は旧幕府の面々と親しかった。
彼の来訪を聞き、榎本武揚、永井主水や松平太郎らも駆けつけて歓迎した。
万次郎は彼等の「ハワイにおける攘夷」というものを聞き、知っていた。
本来攘夷など適う事の無い妄言、何かを為す方便に過ぎない。
この場合の攘夷は「アメリカ併合を狙う白人勢力を挫き、ハワイ王国を存続する」のが目的で、戦う事、斬る事は二の次であろう。
万次郎は語る。
「アメリカを止める事なんチ、我々にも、ハワイと日本が同盟しても出来んぜよ」
先日アメリカを見て来た伊庭八郎と今井信郎が、忌々しげに頷く。
「ほじゃけんど、アメリカのハワイ征服を止められる手立ては在るがよ」
ところどころつっかえながら、万次郎が語る。
「アメリカを止められるがは、アメリカぜよ。
アメリカは皆が皆、拡大主義者ではないがよ。
聡明な人もおるし、人を肌の色で差別するのもおるがじゃ。
それは、どうも皆さん知っちゅうようじゃの」
一同が頷く。
ハワイに来てもう6年、白人にも色んな国籍と色んな考えの者がいて、同じアメリカ人でも気を許せない者と、善良で頼りになる者とがいる。
そのままなし崩し的に白人の覇権を認めてしまいそうだから、自分の立ち位置を見直す為の「攘夷」というものでもある。
「皆さんはニューズペーパーというのは、あまり読まんかえ?」
新聞というものを、榎本や大鳥は多少読むが、批判や皮肉が酷過ぎて好んではいない。
瓦版、読売というものは、基本町人の読む娯楽でもある。
新聞とそれらの違いを、彼等は完全には理解していない。
「ニューズペーパーを使って、アメリカの大衆に訴えるがよ。
いくら正義じゃち言うて戦うても、アメリカ本国で日本人は悪じゃ、と伝われば日本人は潰されるぜよ。
一戦、二戦勝ったっち、最後にゃ同じとこに行き着くがじゃ」
万次郎は先日横浜で取り寄せた英字新聞を読み、ハワイで日本人がどえらい残忍な事をやらかしたのを知った。
相手を恐れさせる効果もあったのだが、それにしても、これでは「日本人は野蛮人」と世界に発信され、ハワイ在住の日本人にも、本国の日本人にも悪影響である。
世論に訴える、大衆を味方につける、宣伝をする、それが力になるという認識に乏しい。
だから
「わしが来たぜよ」
万次郎はそう言う。
「わしがアメリカについて教えるぜよ。
英語も教えるぜよ。
英語が分かるようになったら、アメリカに行ってわしの話と何が変わり、どうすれば良いか考えるようにするがよ。
こじゃんせんと、日本人は余りにもアメリカの事、知らな過ぎる。
敵も知らずに攘夷など、おこがましいがよ」
「なるほど」
「確かに」
賛同の声が上がった。
榎本は
「中浜先生を我々の教授方としてお迎えしたい。
アメリカとどう対峙するか、場合によっては戦わずに事を成し遂げられるか?
我々の採る道をもっと探り、どれが最も我々の行く道として相応しいか考えてみたい。
反対はいらっしゃいますかね?」
反対は無かった。
榎本たち高官も、外交について、今後の在り方について学び始めた。




