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ハワイ島の経済発展へ

 会津松平家の本家は、斗南に移った松平容大の三万石であった。

 元々が肥沃な会津の二十三万石であり、改易された寒冷な斗南の地では、全家臣を養う事は難しかった。

 帝の謎の勅により、罪を許された先代松平容保であったが、それは見ず知らずのハワイという国に移る事が条件のようなものだ。

 会津藩士たちは、大殿にかくも酷い仕打ちを!と嘆き悲しみ、また一方で斗南で全滅するよりは……と大殿に従って異国に移る道を選ぶ者が半数現れた。

 異国の新領は、温暖ではあったが、土地が痩せ、雨が極めて多い上に火山も近くにあった。

 新政府の仕打ちに怒りを覚えていた藩士たちは、やがて異国に移った事で「武士の誇り」が維持された事を知る。


 斗南での困窮に比べ、ハワイ島ヒロの地は少なくとも温暖であるのは確かで、土壌改良や水の管理をしっかりすれば十分な米を栽培し、収穫出来るのだ。

 ハワイ王国の指示により、サトウキビの栽培をしなければならない会津藩士は、まだ本土との往来に大きな規制がかかる前に、屈辱に耐えながら薩摩の島津久光に(書状の上とはいえ)頭を下げ、願い出て、砂糖栽培を出来る奄美や他の島の農民を貰い受けた。

 米と砂糖の栽培が軌道に乗ると、カウアイ島から本間家という商人が、それを購入しに来た。

 これは共にハワイに移り住んだ酒井家や、榎本武揚たち幕臣らとの絆からのものだ。

 そうして米と砂糖を素人商売で安く売らず、商人による取引で扱っていると、次第に蓄えも生まれる。

 比呂松平家と改めた、松平家の御隠居領は困窮する藩士たちを呼び寄せ、次第に勢力を拡大した。

 藩士と共に、かつて会津を支えた工芸品を作る者や、それを作る為の原材料となる作物も取り寄せ、徐々に暮らしは豊かになる。


 松平容保は、ハワイ王国にあっては「大酋長の一人」という扱いとされた。

 その礼儀として、身辺警護の兵力を持てる。

 最初は、農作業の出来ない者たち少数を「警固衆」とし、他は士籍のまま農業や林業に従事する「屯田兵」のようなものだった。

 だがオアフ島の日本人部隊で手が足りず、新撰組三番隊や会計掛、さらには陸軍の補充として比呂松平家と、兄弟藩たる古奈松平家の武士が求められた。

 徐々に農民や現地住民の雇用も進んで、武士が働く必要が無くなる、否、彼等に農作業して貰った方が遥かに効率が良いものとなったので、武士が兵士として求められるようになったのは嬉しいことである。


 徐々に交流が断たれていく日本本土では、廃藩置県や徴兵制など、武士の誇りが次第に奪われていくと聞く。

 ここハワイにあって、戦士としての武士、大小の刀を差す武士が維持されているのに、彼等を追い出したような「勝った側」の武士は次第に困窮していく。


 ハワイ王カラカウアによる軍制改革で、ハワイ島に第3旅台が設置された事に、比呂藩士は大喜びした。

 独立採算を基本とし、要塞に詰める守備的な軍であるが、

 ・国家によって認められた兵士身分であること

 ・若干ではあるが国からの給金(秩禄)が与えられること

 ・要塞(城)勤めとなること

 は武士としての誇りを高めた。


 屯田兵的な性格も残す第3旅団であるが、それは今までも同じこと。

 比呂松平家からは2個大隊が求められ、申し込み多数の中から精鋭が大隊兵としてプウコホラ・ヘイアウ要塞に赴いた。




 少し前の、会津時代の話をしよう。

 会津松平家は、京都守護職の大任に金を使い過ぎて、自領の整備や軍制改革に遅れを取った。

 戊辰戦争の前に、会津の軍は

 ・朱雀隊:18~35歳 約千二百人

 ・青龍隊:36~49歳 約九百人

 ・玄武隊:49歳以上 約四百人

 ・白虎隊:16、17歳 約三百人

 という編制とされた。

 その他に第一、第二砲兵隊、築城兵、遊撃隊で正規軍を為す。

 農民からの応募兵の他、猟師隊・修験隊・力士隊が義勇軍として集まった。


 一方で、会津は京都であまりにも金を使い過ぎ、天保の藩政改革で得た貯蓄を全て使い果たし、領内で苛政を敷かざるを得なかった。

 その為、戊辰戦争において会津を裏切り、官軍の道案内をした農民も居たと言う。


 ハワイ移住時に、全軍が来られた訳ではなかった。

 農民は基本的に土地にしがみ着き、新政府の一部が恐れるように「ハワイまでわざわざ殿様に着いて行こうとは思わねえ」ものであった。

 一方で、農民以外の会津兵に参加した者たちは、新たな支配者となった新政府の人間への反発や、会津兵として戦った事への嫌がらせ等に我慢ならなかったこともあり、兵士としてではなく、本業ででも会津の大殿を追った。

 会津への新政府の苛政が、ハワイ移住させる元会津藩関係者を増やしたのである。


 ハワイ陸軍1個大隊は800人編成である。

 元朱雀隊と元青龍隊、それに元猟師隊や元遊撃兵から選抜し、送り出した。

 松平容保は、白虎隊の生き残りや、当時白虎隊にすら参加出来なかった少年たちについては、榎本や大鳥に頼んで首都の士官学校で学ばせるようにした。

 士官学校だけでなく、各種学校も可であるが、如何せんハワイ王国はカメハメハ3世の時代から白人による浸食が進んでいる為、白人と王族以外の入学を禁じる学校もあった。

 ごく少数の「キリスト教宣教師になりたい」とか「医師になりたい」という少年が特例で白人学校に入学した他は、やはり士官学校で軍事教育を施される。




 松平容保は、未来に希望を見出せる若者、誇りを胸に軍務に就ける家臣、そしてそれら若い世代を嬉しそうに眺めながら、農作業や自分の世話係という閑職を喜んで行う老臣たちを見て、幸せな想いでいた。

 辛苦を舐めさせられた京都守護職時代、そして戊辰戦争からまだ十年も経っていないのだ。

 会津の地も気になるが、家臣や自らに着いて来た領民が、この新領で幸せになっていくのは、京都守護職を引き受けた後の責任を取れずにいる自身にとっても幸せな事なのだ。

 首都の方は分からないが、このハワイ島では戦争の気配は全く無い。

 一地方大名として幕政に関わらずにいた江戸時代が戻って来たような、そのような感覚である。


 そんな容保の元を、京都時代に顔を合わせた事のある小野組の者が尋ねて来た。


 小野一族は、南国には不思議な破風のある天守閣のある城に案内された。

「お城でございますか?」

「まだ城とは言えぬ。

 殿の為、少しばかり城に似せた造りにした屋敷よ。

 ……殿だけでのうて、わしらにも懐かしい会津のお城のようにのお」

 家老は本丸ではなく、二ノ丸御殿に小野一族を案内した。

「本丸は、飾りよ。

 西軍との戦でそれはよう分かった。

 だが、心の拠り所として造ってみた。

 大殿は常時、こちらにお住まいである」

 そのような説明が入る。


 この空間だけは「日本」そのものだった。

 職人が畳を作り、襖絵を描き、欄間に装飾を施している。

 音も無く襖が開き、前会津中将松平容保が入室する。

 儀式的な挨拶であった。

 小野組はホノルルではなく、ハワイ島を拠点に商業活動をすることを告げ、比呂に本店を構えるから挨拶に来たのだ。

 容保は多く舌を動かさない。

「左様か。励め」

 この一言で会見は終わった。


(まったく、ここだけは江戸時代だな)

 転籍を巡って新政府とやり合って来た小野組の者たちはそう感じた。

 ただし、新政府や京都府というものは、物事をはっきり言ったり、話が速いのと引き換えに、高圧的で傲慢だった。

 こちらの殿様は、鷹揚で偉そうではあるが、その代わりにあれこれ干渉はして来ない。

 京都時代、時々資金の供出を依頼されたくらいで、悪い印象はない。


 大殿への挨拶の後、国家老たちと会談し、比呂の物産の取引許可や比呂松平家の所有するスループ船の貸し出しについて詳細な打ち合わせが行われた。

 小野組は基本金融業をするつもりではあるが、「実際に物を扱わない商人などない」という日本人の商業根性のせいか、比呂の物産の販売も行うのだ。

 商店としても開業した上で、比呂に本店を持ち、古奈とホノルルとカウアイ島カイルアに支店を持つ「銀行」を開業した。

 彼等は元々そういう事業を日本で行う予定であったが、新政府の金融政策の急変でやっていられなくなったのだ。

 多額の資金を持ち出される事を嫌う新政府の手前、ごく一部だけ持ち出して銀行を開業したが、やがて日本に残して来た資金の精算会社を通じてハワイに資金が移って来ることになる。


 先物取引、為替、海運の本間と、銀行業務の小野、2つの日系金融企業がハワイに興った。

 ハワイ王国の日系社会を基盤とし、白人社会とも取引を行い、共存共栄の形を作っていく。

 商人はこの辺、「攘夷」という方針を持つ武家と違って融通が利くのだ。


 ハワイ島に1個、大きな商家が出来たことで、ハワイ島の経済活動は盛んになる。

 如何に頑張っても、武家の商法はそう上手くはいかない。

 小野組が来た事で、いよいよ比呂、古奈の松平家は「軍人・武家」としての色合いを濃くしていくのだ。




 本間と小野の他に、実はもう一個巨大な日系経済が存在する。

 マウイ島の黒駒一家の経済圏である。

 黒駒勝蔵は、博打系の利に聡い。

 白人たちがマウイ島を中心とした金融や銀行について話した時に、それを理解して出資した。

 大資本家となりつつある勝蔵は、表の金融と、裏の経済の両方から甘い汁を吸って成長している。

 マウイ島の白人は、首都のあるオアフ島の白人と通じてもいるので、勝蔵の影響力も次第にオアフ島の白人社会に伸びていっている。

 黒駒系の銀行、名前からすれば相当闇金に近い印象を持つが、意外にも雇いスイス人を頭取とした健全経営で勢力を拡大しようとしていた。


 本間、小野、そして黒駒系(表は白人企業)の競争、あるいは共存共栄の協力関係は、将来太平洋上に1個の金融強国を作り出すのだが、今はまだ先の話である。

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