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軍制改革

 1875年、カラカウア王が批准したアメリカとの互恵条約で、砂糖のみならず、米もまた無関税で輸出する事が可能となった。

 白人農園主は大いに喜んだ。

 と同時に日系人の農園主も喜ぶ。

 最近は蝦夷地への米輸出事業も、日本が国内優先にした為、ホンマ・カンパニーも新たな輸出先を求めていたところであった。


 日本では幕末・維新の混乱が収まり、外国の輸送船をチャーターする方式から、国有企業の日本国郵便蒸気船会社へ輸送業務を委託していた。

 だがこの企業の経営は上手くいかず、外国商船やハワイのホンマ・カンパニーの入り込む余地があった。

 この1875年の1月、日本国郵便蒸気船会社は経営に行き詰まり、土佐の浪人だった岩崎弥太郎の三菱汽船会社と合併する運びとなる。

 と同時に、三菱は政府からの補助金を受けながら、各地の定期航路開拓を始めた。

 そして国内である蝦夷地への物資運搬も、政府の後ろ盾で独占しようとしていた。

 ホンマ・カンパニーの外貨を稼ぐ主力である、日本の蝦夷地への輸出事業に強敵が出現したのである。


 無論、ホンマ・カンパニーは本家である酒田本間家と交易し、本間家から国内事業として米の売買をする事は出来るが、間に一個仲介業者が入るだけで儲けは減ることになる。

 ハワイのホンマ・カンパニーとしては、新しい輸出先が欲しいとこであった。


 ホンマ・カンパニーと、その後ろ盾というか、封建時代から切っても切れない関係のカウアイ島酒井家は、重大なジレンマにぶつかった。

 幕臣系日系人は「ハワイを夷狄から守れ」という帝の謎の勅に従ってやって来た。

 これまでの行動から、ハワイ王国に仇為す夷狄というのは、アメリカ系白人であろう、そう分かって来た。

 彼等の一部、いや半分くらいは「ハワイをアメリカ領として献上する」野望を持っている。

 彼等を阻止し、王家を護るのがハワイにやって来た意義である。

 しかし、ここに来て最も米を買ってくれる大口顧客が、日本からアメリカに変わろうとしていた。

 また、日系企業であるホンマ・カンパニーが、アメリカに販路を切り拓く為にはアメリカ人と仲良くする必要がある。

 最大の敵は、最大の取引相手となる、このジレンマがあった。




 さてカラカウア王は、先代ルナリロ王の「国軍解隊」命令を撤回し、新ハワイ王国軍を設立した。

 軍政は全てアメリカ系白人が行うが、軍務に関しては2人の日本人が主導権を握っていた。

 海軍の榎本武揚と陸軍の大鳥圭介であった。


 陸軍は、プロイセン・ドイツ式が優勢と知りながらも、軍制はオランダ式、戦術はフランス式を採用した。

 何故か?

 ハワイは外征の意思が全く無い事と、人口が少ないからである。


 ドイツ式は、独立した兵站を持つ師団を中心に考えられ、外征にあたって師団を結節して軍団や軍、軍集団、方面軍と大型化していく。

 それを統括する参謀本部があり、戦略を練り、侵攻にあたっての意思を統一する。


 それに対しやれる事が限られているオランダ式は、基本的に軍管区と要塞防御方式であった。

 軍管区を作り、そこに要塞を設置して旅団または師団単位の兵を置き、侵攻を食い止める。

 日本も、鎮台というオランダ式を採用していた。

 要塞とは言い切れないが、東京城・仙台城・大阪城・名古屋城・広島城・熊本城の6城に連隊単位の兵を置いて、外敵に対してはそこに籠って防御、内乱においてはそこから出撃とした。

 それぞれ東京鎮台や熊本鎮台と呼ばれた。

 城に駐屯し、城に貯めた物資で行動し、兵站という概念では弱いが、それでも何とかなる。

 さらに要塞とまでは言えないが防御力のある城に居る為、少数で守る事が出来る。

 経済力の弱い日本には、とりあえず最適な形であった。


 ハワイの事情は、日本のそれをさらに悪化させたものである。

 経済力と人口、即ち兵力が少ない為、外征を考えたドイツ式の動員は出来ない。

 さらに、日本以上に島と島で各地に分かれている為、島毎の防御方式を採った方が割に合う。

 近代要塞といえる程のものはないが、カメハメハ大王の統一戦争期に、外国人顧問やロシア人が作った要塞の跡地が残っていた。

 大鳥は、それを使ったフランス式陸軍にハワイ軍を再編した。


 ダイヤモンドヘッドと呼ばれる火山がある。

 この内側を要塞とし、日本人を中心とした第1旅団が駐屯する事となった。

 大鳥は、国軍の予算が余り無い事から、カウアイ島とハワイ島は、その地の大名の兵力を利用し、国軍としては有り得ない形だが、独立採算制とした。

 そうして、カウアイ島のロシアン・フォート・エリザベス要塞を復元・強化し、酒井家の衆とオアフ島・カウアイ島のハワイアンからなる第2旅団を編制してそこに置いた。

 カメハメハ大王の側近で、エンマ女王の祖父にあたるジョン・ヤングという白人がいた。

 彼がハワイ統一戦争期に、カメハメハ大王に進言して神殿(ヘイアウ)から要塞に改築したプウコホラという場所がある。

 ここに比呂松平家、古奈松平家、そしてハワイ島のハワイアンで編制された第3旅団を置いた。

 オアフ島、カウアイ島、ハワイ島には要塞と駐留兵団が置かれる事になる。


 大鳥は、古都ラハイナの在るマウイ島にも要塞と兵力を常駐させたかった。

 だが、ここは難しかった。

 新撰組の報告によると、日本で名の知れた博徒だった黒駒勝蔵が、この島の実権をいつの間にか握っていた。

 彼が反王国行動をするならば、警察力・軍事力に訴える事も可能だが、勝蔵はそうはしなかった。

 彼はラハイナを中心に、経済都市やリゾート地への作り替えを行っていた。

 勝蔵にはマウイ島の白人農園主、華僑、さらに現地ハワイアンが味方する為、経済都市建築の邪魔をしない代わりに、反国家的行動をしない、という約束を取り付けるのが精一杯であった。

 そこで、第4旅団とマウイ島要塞というのを、書類の上だけで編制した。

 要塞は「予定」であり、測量すらしていない。

 第4旅団は、オアフ島や隣のラナイ島の白人農園から派遣された白人やハワイアンで編制され、これからアメリカが使用したいと言っている真珠湾湾口に作られた砲台(実質的には要塞)に仮駐屯する事とした。

 首都のあるオアフ島に2個旅団が存在し、しかも白人の旅団の方が首都ホノルルの間近という事になったが、これは大鳥による政治的な配慮と言えた。

 白人たちは、自分たちの生殺与奪の力を持った日本人がすぐ近くに居るのを好まなかった。

 そこで、白人を護る兵団を彼等の近くに置き、日本人を引き離して安心させた。


 独立採算で装備を整え、封建領主や農園主から派遣された兵で編制され、独立した守備担当範囲を持つ方式。

 狭い島国ながらも、軍閥化する危険性が指摘された。

 そこで、国王直属の参謀本部を作り、そこから参謀が目付的な役割を持って、各要塞に派遣される事となった。

 独立採算ながらも、予算と決算は王国政府で管理し、反乱に繋がる兵器の購入等が無いか確認する。

 とりあえず、そのような歯止め装置を大鳥は提唱し、国王や白人閣僚は受け容れた。


 一方の海軍は、榎本武揚の独擅場となった。

 他に誰もいないのだ。

 真珠湾にこれからアメリカ海軍が艦船を泊める事となり、ハワイ王国はこのアメリカ海軍とも協力関係を取る事になる。

 だが、それ故にこそアメリカ系白人は自分たちの海軍を作ろうとはしなかった。

 ハワイ王国海軍は榎本武揚の提唱で「外洋艦隊」「警備艦隊」「練習艦隊」の3個艦隊を持つ。

 外洋艦隊が主力であり、最も強力である。

 装甲艦「カヘキリ」と蒸気軍艦「カメイアイモク」「バンリュー(盤竜丸)」と通報艦3隻から編制される。

 警備艦隊は、別名「ハワイアン・カヌーズ」と呼ばれ、ハワイ人たちのカヌーで海上警察を行っている。

 練習艦隊は旧「回天丸」と何隻かの君沢型スクーナーで編制され、蒸気機関の実習や、君沢型の造船の実地訓練等を行っている。

 君沢型スクーナーは、造船技師育成コースで作成され、訓練生の訓練に使われた後、商船会社に売却される。

 海軍の訓練生ではあるが、民間の商船に就職する事も許されていた。

 そうする事で、訓練生の数を稼いでいたのだ。


 榎本の上位機関である海軍省は、小規模ながら陸軍とは独立していた。

 榎本は、海洋国家であるハワイは海主陸従でいくべきと考えていたが、起こり得る一番の問題はアメリカ併合を叫ぶクーデターである為、陸軍の拡充が差し当たっては必要である。

 それで陸軍省、海軍省を分ける形式としたが、白人閣僚たちも日本人の海陸分断を考えて、両軍は別組織とした。


 国王の私軍であったハワイ国軍は、このような形に生まれ変わった。




 戊辰戦争を戦った旧幕府軍は、城というものの限界を身をもって知った。

 大砲の前に、天守閣というものは恰好の標的にしかならない。

 会津若松城の戦いにおいて、最も役に立ったのは(みなごろし)丸というあだ名の北出丸と帯郭、伏兵曲輪から成る大手門十字砲火地帯だった。

 この十字砲火を死角無く作るのが、稜堡式城郭、星型城郭である。

 五稜郭の戦いで時代遅れとなっていたが、大砲の少ないハワイの内戦対策用ならば問題無い。

 カウアイ島ワイメア峡谷のロシアン・フォート・エリザベス要塞はその星型城郭だった。

 ハワイ島のプウコホラ・ヘイアウは正方形に近い形だった為、第3旅団の兵たちは外部に稜堡、もしくは角馬出を作り、防御不足を補った。


 さて、このプウコホラ・ヘイアウはハワイ島北西部にあり、場所的には古奈松平家に近い。

 多くの武士が兵士に戻り、第3旅団の中核となった比呂松平家こと元会津藩だったが、ここの武士たちは当主の為の「城」を欲した。

 いかに標的とされ、多くの野砲・山砲を撃ち込まれたとはいえ、会津人には最後まで持ちこたえた若松城天守閣は誇りだった。

 彼等は、プウコホラ・ヘイアウ改築の片手間に、大殿・松平容保の暮らす館を大幅改築し、日本式城郭を造り始めた。

 火山岩はそこら中にある。

 それを野面積みにした石垣を立て、外側の堀にはハワイの大雨が水を貯めた。

 そして、かつての居城に比べ小規模ながら、三層の天守閣と本丸御殿、二ノ丸御殿と集会場、そして対大砲の空間防御も兼ねた巨大な庭園と三の丸武家屋敷、その外側にもう一個の個性と言える二層櫓を立てた。

 小なりと言えど、日本式城郭が出来上がった。

 松平容保と、旧「玄武隊」と呼んだ老兵たちがその城に入った。

「やっと大殿に相応しい居城が出来た」

 と元会津藩士たちは男泣きする。


 彼等は、その城が若松城同様、実際の戦闘で使用される未来を予知出来ない。

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