新政府を望まぬ者、戦い足りぬ者、主に従う者…
「帝による大赦が行われるらしい」
この報は日本の隅々まで行き渡った。
【会津藩】
会津は悲惨であった。
若松城の攻防戦の末、降伏した会津中将松平容保は東京に送られ、鳥取池田家に預けられていた。
旧会津藩士たちに「何かが変わった」という予兆は、全ての責任を取って切腹する筈の家老・萱野長修の処置が延期という形で現れた。
さらに6月3日、容保の実子、慶三郎が生まれたという報が入る。
藩士たちは苦しい生活の中、光明が見えた気分になっていた。
「慶三郎に家督を譲ることで家名存続を許す。
また、朝廷への抗戦の罪について、萱野権兵衛は死一等を免じる。
同、秋月悌次郎も罪一等を免じる。
松平家は陸奥三万石に国替えとする」
良かったのか悪かったのか分からない処分が下りた。
首を傾げる藩士たちの元に、青ざめた顔の手代木直右衛門が現れた。
手代木勝任、通称「直右衛門」は、会津の若年寄であり、若松城開城に先駆けて藩命により新政府軍の元に交渉をしに行く、そのまま捕縛されていた。
彼が新政府から聞かされた内意に、会津藩士は激怒する。
「我らにどことも知れぬ南の島に行けというのか?」
手代木は真っ青ながらも落ち着いて話を聞くよう制した。
「国替えとなる陸奥の地は、聞けば作物も取れぬ酷寒の地のようだ。
そこに23万石の我々が全員行けば、余計に困窮するだろう。
南の島に行けば、そこで武士として戦って貰いたい、との事だ。
俺にもこれが事実上の島流しだっつー事ぁ分かる。
だけんど、萱野様、秋月様はそこに行く事を、半ば強要されている。
幾らかはお供が必要ではないか」
会津藩士たちは悔し泣きした。
その頃、謹慎を解かれた松平容保は、意外な人物の挨拶を受けていた。
「久しいな、頼母」
「お久しゅうございます」
会津から逃げ、五稜郭で戦っていた家老の西郷頼母だった。
この主従、意見の対立も相当にあったが、今は戦も終わり、激論を交わす事もなく話していた。
「でも、その方はハワイとか申す国に行くと申すか?」
「ははっ」
「そなたは余が京都守護職になるのに反対し、籠城して戦う事にも反対した。
なのになにゆえ、南国でまだ戦おうと言うのか?」
「はて……? なにゆえでございますかな?
それがしにも分からなくなっております。
されど、萱野殿、秋月殿は罪を許される代わりに強制的にハワイに行くことになったようでございます。
なれば、それがしも付き合おうかと思うております」
容保はしばらく考えていた。
そして
「なれば、余も参ろうぞ」
と言い出した為、頼母は思わず
「なりませぬ!」
と、かつて主従で激論を交わした時のように大声を出してしまった。
「あいや、失礼つかまつった。
なれど、殿までがハワイなる国に行かれては、家臣郎党困りましょうぞ」
「余は最早松平家の当主ではない、隠居じゃ。
国替えの先には我が子・慶三郎が行く。
おそらく余は、それに同道を許されぬであろう。
なれば、余はお上のお望みに従い、ハワイとやらで戦ってみせようぞ」
「しかし……」
「くどいぞ、頼母」
そして、この知らせがもたらされた時、会津藩士たちは新政府への恨みを口にしながらも、新領では確かに全員を養い切れないこと、親類縁者を頼るにも限りがあること、殿の下で武士を続けたいことから、およそ1800人がハワイ行を決断した。
(また、あの人と共に戦うのか……)
会津藩士の一人、藤田五郎は何個か前の名を斎藤一と言った。
新撰組三番組長、副長助勤を勤めた。
土方歳三と袂を分かち、京都時代に新撰組を世話した会津松平家と共に戦ったのだが、それが再び土方歳三と相まみえるとは……。
(奇縁とはこの事だな)
【庄内藩】
庄内酒井家は、戊辰戦争において最も奮闘した東北の藩であった。
「鬼玄蕃」こと酒井玄蕃率いる破軍星旗(北斗七星旗)を掲げた庄内藩兵は、新政府に味方するいくつかの藩を蹴散らし、秋田を攻めた。
新政府軍は主力である佐賀武雄の兵を送り、秋田を救援した。
米沢も仙台も敗れた事を知った庄内藩は、見事な退却戦を演じ、庄内鶴岡に引き上げた。
この庄内は、戊辰戦争の初めに薩摩藩邸を焼き討ちにした。
その薩摩の西郷吉之助の意向で、寛大な降伏となった。
それゆえ、庄内は新政府への恨みが、会津と比べればまるで無いに等しかった。
その庄内が降伏した際、同時に降伏した他家の部隊がいた。
立見鑑三郎ら、桑名藩兵約300人である。
彼等の元にも、五稜郭の開城とそれに伴う諸々の話が届いた。
「殿がハワイとやらに流される」
桑名藩兵は、大赦によって既に許されているが、主君である松平定敬に従ってハワイに行くことを決めた。
「本日はお暇乞いに参りました」
桑名藩兵同様、ハワイに行くことを決めた漢が、主君に挨拶をしていた。
酒井玄蕃である。
彼は勝てなかったこと、結局は主君の隠居、所領の削減を招いた事を気にしていた。
それ故、徳川四天王酒井家の武名を再び高めようと、新天地での戦いを選んだ。
彼におよそ900人の元部下が従った。
【江戸】
元蝦夷共和国軍の半数、ハワイに行く事を決めた者たちは、かつての彰義隊の戦いの跡地、上野寛永寺に容れられていた。
新政府の見張り付きで……。
帝の心に反し、新政府軍は彼等を「島流し前提の罪人」と見ていて、もしも暴動を起こしたなら今度こそ皆殺しにせんと、彰義隊の時同様アームストロング砲をこちらに向けていた。
そんな蝦夷共和国陸軍奉行並・土方歳三の元を、「死人」が訪れた。
「原田? お前生きていたのか?」
この男は原田左之助、新撰組では十番組長を務めていた。
新撰組を脱し、彰義隊に加わりそこで戦死した、土方はそう聞いていた。
「俺は腹を切っても死ななかった男。不死身ですよ、副長」
「……新撰組隊規『死して尚化けて出る事なかれ。武士たる者潔く成仏すべし』。
原田、お前成仏していれば良かったのに、何故現れた?」
「……そんな決まり、初めて聞きましたぜ……。
いや、副長が本願寺で幽霊騒動に遭った時、『未練がましく迷い出たなら、俺がまた殺してやるから、潔く成仏すべし』と言って幽霊を震え上がらせた話は知ってますがね。
俺は生憎、この通り生きてますんで」
「いくら大赦が出たからと言って、俺たちは厄介事を押し付けられた身だ。
そこにのこのこ出て来るとはおかしいと、俺はそう言ってるのだ。
死人として隠れていれば良いものを……」
「それじゃあ面白くもない。
副長、俺も連れて行って下さいよ。
ハワイかどこか知りませんが、また一緒に馬鹿やりましょうぜ」
土方はため息をついた。
だが、断る必要もなかった。
原田の復帰を許し、副長助勤に任じた。
このように江戸では、彰義隊の戦いや宇都宮の戦いで「死んだ」筈の者が、我も我もと榎本や大鳥の陣に参集した。
それもあって新政府は、より警戒を強める。
(早く出て行ってくれ)
と監視役はそう思っている。
出て行ってくれさえすれば、国内の不穏分子は一掃され、東京も落ち着くだろう。
【上総国望陀郡請西村】
ここにかつて請西藩1万石があった。
ここを治めていた林忠崇は、戊辰戦争の折に新政府に恭順するを望まず、殿様自ら脱藩して戦った。
新政府はこれを咎め、請西藩は改易された。
その「お家を潰した」殿様が、大赦によって帰って来た。
旧請西藩の家臣たちは、忠崇の養子・忠弘を立ててお家の復興を新政府に嘆願していた。
そこに家を潰した張本人が帰って来たのだからたまらない。
「ここにわしの居場所は無いな」
そう悟らざるを得ない忠崇だった。
彼は、反感を持つ家臣たちを集めて、己が去就を告げた。
「わしはこの地を去る。
帝はハワイという国で攘夷を行う事を望んでおられる。
わしはそれに従おうと思う。
そなたたちには迷惑をかけた。
この上はわしの事は忘れ、忠弘に尽くして欲しい」
白々しい顔で家臣たちは聞いていた。
疫病神がいなくなるなら、それはそれで良かった。
主君自ら脱藩した時、付き従った70名程度の家臣たちが、ハワイに同行する事を望んだ。
かくして日本各地から、明治の世に居場所を見つけられない者、戦い足りぬ者、新政府に従えぬ者、攘夷の志がまだある者等が集まり、ハワイで一旗揚げようと望んだ。
彼等は、蝦夷共和国海軍の残存艦「回天」、「蟠竜」、そして運輸船「長鯨丸」、「鳳凰丸」、「美賀保丸」に分乗して南海を目指して旅立った。