軍縮へ
かつて海軍次官だったセオドア・ルーズベルトは、世界に冠たるアメリカ海軍を作るべく奔走した。
彼の影響力があった1898年までに13隻の戦艦が配備または発注された。
しかしセオドア・ルーズベルトはアメリカの希望と共にハワイ島の戦場に散る。
推進役を失ったアメリカ海軍は、金食い虫の戦艦建造計画を縮小させられた。
・バージニア級5隻→2隻(主砲配置に問題有りとして)
・コネチカット級6隻→2隻(イギリスの新型戦艦「ドレッドノート」完成により計画見直し)
・ミシシッピ級2隻→2隻ともギリシャ海軍に売却
以降は世界の技術を見ながら、2隻ずつの建造が続いた。
欧州大戦参戦迄に、アメリカ海軍は30隻の戦艦を保有している。
しかし、ダニエルズ・プランという巨大軍拡計画があって、1924年迄にイギリスに追いつくべく、戦艦10隻(1隻完成)、巡洋戦艦6隻に、補助艦多数を建造する事になっていた。
1920年に第30代アメリカ大統領に選出されたウォレン・ハーディングは、この軍拡に歯止めをかけるべく動き出した。
ハーディングは、先代のウッドロー・ウィルソンが提唱して出来た国際連盟への加入を見送り、ドイツとはヴェルサイユ条約とは違う独自の講和条約を結ぶ等、国際協調主義よりもアメリカ第一主義を採った。
工業も外国依存を脱却し、独立した強い工業化と経済に作り変えようとしている。
それには巨大軍拡は邪魔だが、仮想敵国が軍拡を止めないならば、こちらも付き合う迄だ。
仮想敵国が破産する迄競争しても良い。
しかしハーディングは、その血を吐きながら続ける悲しいマラソンを強いるより、まず軍縮をしないかと話しかける事にした。
一方こちらはイギリス。
大戦に勝利したものの、経済の疲弊は激しかった。
新たな軍拡競争に付き合う余裕は無い。
この世界最強の海軍国は、世界で最も旧式戦艦を保有する国でもある。
使い物にならない旧式艦は処分したいが、処分にだって費用は掛かる。
その上で新型艦建造なんて、戦後の経済立て直し期にやってられない。
はっきり言えば、アメリカの軍拡を阻止したい。
アメリカは大戦終了と共に、多くの旧式戦艦を退役させた。
減らしてくれたのだから、増やすのを防ぎたい。
アメリカを防ぐには、太平洋においてアメリカに対抗して軍拡をしている国を抑制する必要がある。
こうして米英は、大日本帝国を説得して海軍軍縮をする事で利害が一致した。
イギリスは、世界一位の海軍国の座を守るべく、現役の艦艇だけでなく、予備役やモスボール中の艦艇も含めて話し合う事を提案した。
旧式艦まで数えたら、比率的にイギリスが有利になる上に、廃棄は上手い事旧式艦ばかりに出来る。
アメリカはイギリスより保有量は少なくなるが、廃棄対象が既にスクラップ予定の艦ばかりとなり、それ程不都合では無い。
だがハーディングは、敢えて即答はせず、自分が提唱したい案を呑ませるべく渋ってみせた。
ともあれ、海軍軍縮は必要だから国際会議を開こうという事になった。
その会場だが、
「日本をとにかく引っ張り出さないと話にならない。
アメリカ西海岸でも良いが、イギリスとしてはハワイを提案したい」
という事になり、クヒオにホノルルでの海軍軍縮会議の開催と、議長の依頼がアメリカ、イギリス、そして途中からひょっこり混ざったフランスからされた。
ハワイ王国摂政ジョナ・クヒオは困惑する。
粘り強い交渉力と、時には身を捨てる大胆さを買われての議長依頼、これは嘘では無い。
だが「穏やかなリゾート地で平和な気分で会議をする為」というのは明らかに嘘だ。
大体米英ともに
「無政府主義者とか共産主義者とか革命家とか、まだ何もしてない内に、理由も無しに暗殺するのを止めよう!
余りにも物騒で、野蛮だ!
あと生け贄とかもどうにかしろ!
今は中継地として価値があるが、船の航続距離が延びて太平洋を補給無しで横断出来るようになったら、
確実に見捨てられるからな!」
と言っていたじゃないか。
(実際、石炭から重油へと船舶用燃料は切り替わり始めていて、航続距離も伸び、中間補給地としてのハワイの価値はもってあと十数年~二十数年というとこだろう)
それに彼は国際会議のホスト国という面倒臭さは、パリでよく知っていた。
首脳も代表も外交官も上流階級の人間である。
貧相な宿舎とか用意してはならない。
食事も余暇も社交界場も一級品で無ければならない。
「お任せ下さい!
我々は超一流のサービスを提供します!」
マウイ島ラハイナからこんな声が上がる。
ラハイナの面々もまた、世代交代している。
相変わらず黒いビジネスをしている者も居る一方、息子や弟はカタギのビジネスをさせ、それで儲けている者も多くなった。
裏稼業というのは、健全な表が有れば共栄するものだ。
ワイキキ開発をし、豪華ホテルを建てたカタギのビジネスマンたちは、ここぞとばかりに協力を申し出て来た。
ワイキキというのは、元々は湿地で、養魚池や水田、単なる沼地ばかりの土地だった。
「水の湧く」という、蚊が大量発生する不快な土地だった。
かつてアシュフォード大佐率いるホノルル・ライフルズが大鳥圭介の部隊と戦った時、ワイキキに大鳥軍を足止めし、形勢不利な状態にしながら陣地戦を挑んだりもした。
一方で海岸沿いは王族の別荘地があり、景勝地としては良地なのである。
米布戦争が終結し、再開発ブームが来た時、先代リリウオカラニ女王は、自分の土地含む王族の土地を格安で売り渡し、これまでハワイ経済を支えたラハイナのマフィアだったりギャングだったりヤクザに報いた。
彼等はその段階で表稼業を行い、カタギの衆を作った。
無論、バックには着いているが。
ホノルル幕府の普請役を安く使って排水運河を掘り、土地改良に成功する。
日露戦争が始まった1904年には豪華ホテルの建築が始まる。
翌年にはトロリーバスが走り、主要道路が整備されて来た。
現在はアラワイ運河という大型の排水運河が掘削されている最中で、また港湾の整備が進み、アロハタワーという灯台兼任のランドマークタワーも1921年中には完成する。
土地価格の上昇がラハイナ経済人の儲けになっている。
あとは、観光客を呼び込む必要がある。
経済人たちにとって、ウィルソンの15箇条追加1で幕府や政府が蛮風を止めるのは願っても無い事だ。
そしてこの国際会議は、観光客誘致の為の宣伝になると見ている。
かつて黒駒勝蔵は「金で幕府なんか飼ってやる」と豪語していたが、彼の狙った形に確かに近づいていた。
ヤクザやマフィアが軍隊を操る形ではないが、確かに軍隊も実質的な政治機関も、資本家を無視は出来なくなった。
準備はクヒオよりも、ワイキキの経営者・資本家たちが乗り気で進めていた。
では幕府側は?
幕府でも文官たちが張り切っていた。
ここは、かつての旗本農園からの人材が多く、結婚相手も頼み込んで日本人を迎えたりした、日系一世同士の子や孫が働いている。
武士で在りながら勝手掛(財政)、表右筆(書記)、公事方(裁判記録)、外国方(外交)等の役職を選んだ為、ポリネシアの血が入り、猛々しさを取り戻した武人たちからは「軟弱」呼ばわりされている。
親の職を継いだだけだが、幾多の合戦で誇り高くなったポリネシア系幕臣は「戦って身内が死にもしない」と嘲ったりもする。
米布戦争の緒戦で、書物奉行他の文官老武士が、なぶり殺しにされる役割を引き受けたのも、この武人側の嘲りに対する「武士の意地」もあった。
それだけに、軍事ではなく、文官の仕事が主役となる国際会議の主催で、実力を見せてやろうと張り切っていたのだ。
日本人の血にそういう部分が有るのか、親の教育の賜物か、ハワイ生まれの文官幕臣も細かい事まで気にする粘着質な仕事をする。
普請役、小普請役も電信の設置、記者の為のブース等を準備する。
「某もこの様な事で無ければお役に立てませぬゆえ」
と林忠崇も張り切っている。
毎朝の老中との閣議において、現場から上がって来る要望を纏め、報告や提案や申請を林が上げて来る。
工事においてラハイナの経済陣と普請方が揉めたり、同じくラハイナ陣営と膳奉行・賄方が料理を巡って意地の張り合いになった時に調整する。
白人を登用した高家(式典・礼儀作法担当)や書物奉行(記録と文書管理で先例を調べる)と打ち合わせて、ラハイナ陣営とも話し合い、恥ずかしくない会議場や式典会場をセッティングする。
林も基本は文官であり、やっと本領発揮しているようだ。
こういうコンベンション・センターとしての機能充実も、後にハワイの国際的利点として活きて来る事になる。
クヒオは『最近、義父と同じ、この言葉を使う事が増えたな』と自覚しながら、彼も林の発言を聞き終えて咀嚼し、こう返答する。
「そのように致すが良い」
準備は整えられていった。
まあイギリス紳士を見てみるとですなぁ、祖先が海賊だろうと、阿片売買で富を得た者であろうと、フリーランスの武器商人であろうと、世代交代してカタギの仕事やってりゃ、普通にブルジョワジーとして認められる訳でして、ラハイナの連中もそんな感じでハワイ王国の表の経済支えるようになりました、って話です。
……と、ちょっと毒吐いてみました。
黒駒勝蔵の下に集まった各国の非合法な連中も、30年以上経てば、犯罪以外で食ってくのも出てくるでしょう。
てなわけで、このハワイ王国のワイキキは、治安は抜群に良いですが、オイタをするとちょっと怖い町になっています。




