国際連盟とサモア問題
日本のとある外交官の家庭にて。
5歳の男児がニヤニヤしながら父親のとこに寄って来た。
「ねえー、ちちうえ~、うん、こくさいれんめいってなあに?」
直後、普段は暴力嫌いの父親の右フックが男児の頬に炸裂した。
「誰から聞いたか知らんが、我々の努力の成果を茶化すような冗談は許さん!!」
大日本帝国は国際連盟の常任理事国であり、世界から列強として認められた証としていた。
欧州大戦の結果、朝鮮半島、山東半島、独領南洋諸島を手に入れ、対共産主義革命の必要性から満州における利権も認められた。
かつての日露戦争で手に入れられなかったほとんどを手に入れた。
その結果、軍人や外交官の中に「やはり軍事力によって結果を出す事が全ての役に立つ」という危険な思想が蔓延し出していたが、当事者はそれを自覚出来ない。
日本にあっては、大正七年(1918年)に発足した原敬内閣が、結党以来の立憲政友会の党是「朝鮮半島の併合反対」を削除した事が大きい。
大韓帝国上皇高宗の暴走により、この地の政権はその存在意義を国際社会から否定され、日本と対等合併という形で消滅した。
日本は、この地に莫大な投資をこれからしなければならない事に、まだ気づいていない。
原内閣は陸軍重鎮山縣有朋と手を組み、シベリア出兵や朝鮮統括軍の配備を認める代わりに、政権の安定への協力を得た。
それもあり、中華民国への独占的進出を抑制したアメリカ提唱の新4国借款団提案(日本・アメリカ・イギリス・フランスで共同で行う)にも賛成し、対米協調を国内の反発無く行えた。
内外ともに盤石に見える日本に、戦後恐慌が襲い掛かる事になる。
ハワイ王国は国際連盟において、四大国(日英仏伊)に並ぶべくもない。
パリ講和会議では、英仏の贔屓もあって代表3名派遣という、戦争当事国のベルギーやユーゴスラビア(セルヴィア王国含む)と同じ発言権を与えられていた。
これは中華民国やポルトガル、オーストラリアよりも上の扱いである。
しかし国際組織としては、ハワイ王国は余りにも小さく、組織への分担金支払いも多くは無い為、席は末端の方にならざるを得ない。
分担金問題は意外に大きく、後にハワイと同程度の人口しか持たないコスタリカが、分担金支払い困難を理由に脱退している。
ハワイ王国は、イギリスとフランスとイタリアが「まあまあ参加してくれよ」という態度であり、分担金も割安に設定されている。
正確にはハワイ王国というよりも、クヒオ王子に参加して欲しいというのが理由なようだ。
クヒオは、英仏伊の国王や首相級から信任が篤かった。
どうやら「賭けるなら国丸ごと賭けろ」という先代国王リリウオカラニの博打は大成功のようだ。
クヒオは重要な時期に欧州に居た事で、有形無形の恩恵を受ける立場に居る。
現時点での国際連盟での解決議題は、ドイツ・ポーランド国境の上シレジア蜂起問題である。
ポーランド領上シレジア(ドイツ語でシュレジエン、ポーランド語でシュラスク)地方は、欧州大戦期にはドイツ帝国領であった。
ドイツ帝国はシレジアのポーランド系住民にポーランド語を話す事を禁じ、家を建てるのを禁止、彼らの所有地は強制収用の対象となった。
欧州大戦終了後も続くドイツ政府のシレジアにおけるポーランド系への圧政に、ポーランド系住民が蜂起する。
しかし米英仏に敗れてもドイツ軍はやはり精強、あっという間に蜂起を鎮圧し、恐怖政治を続けた。
この問題が国際連盟の議題に上がっているのだ。
住民の人口比、帰属意識から見ればポーランドに編入するのが最適である。
しかしシレジアは旧プロイセン地域の炭鉱の4分の3が存在し、ここをポーランドに渡すとドイツの経済危機は更に加速する。
議事は慎重に行われている。
ハワイ王国がこの問題に関わっているのは、蜂起と弾圧の双方を防ぐ為の多国籍軍派遣において、1個小隊の派遣を求められた事くらいである。
ホノルル幕府内で最も大戦における傷の少ない、第三旅団から派遣される事になった。
ハワイ王国は、別の議題でニュージーランドと話し合っている。
サモア問題である。
独領サモアは、この地の占領に貢献大であったニュージーランドの委任統治領となった。
国際連盟委任統治領の統治方式には3種類ある。
A式は、住民自治を認め、早期独立を促す地域である。
B式は、住民の水準が自治・独立に未だ不十分であるが、宗教その他の面での独自性を可能な限り尊重する、とされた地域である。
C式は、住民の水準が自治・独立に未だ不十分である上、文化も受任国と共通点が多い為、受任国の構成部分として扱う地域である。
ヨーロッパから見れば住民の水準が低く、マオリもサモアも文化的に違いが分からないかもしれない。
しかし、同じポリネシア民族のハワイ人から見れば
「ニュージーランドなんて、既に白人の文化じゃないか!」
となる。
ハワイのホノルル幕府第三旅団は、大戦初期にニュージーランド軍とともにサモアを占領しに行った。
サモア人は、同じポリネシア民族のハワイならばという事で無血で降伏した。
そして「我々の生活がこれ以上脅かされないよう」と頼まれた。
頼まれたハワイ人の思いとして、C式ではなくせめてB式にして欲しいと思い、それを要求した。
ニュージーランド政府は拒否する。
自国の権利として与えられたものを、他国に言われて改める気などさらさら無い。
「ハワイ王国は大戦でどの地域も得ていないから、嫉妬でもしてるのではないか?」
等と嘲られる始末である。
(実際には正式にパルミラ環礁とミッドウェー島以外の北西ハワイ諸島領有を確認された)
ニュージーランド政府は
「よし、ラグビーで勝負して、貴国が勝ったなら言い分を聞こうか」
等と言って来た。
日露戦争が終わった1905年にはアメリカ、イギリス、フランスを遠征して35戦34勝1敗という成績を残した「オールブラックス」と呼ばれる代表チームが居ての発言で、冗談とも本気とも解釈出来る。
圧倒的に劣勢であったが、代表のクヒオ王子は諦めなかった。
要求を少し柔らかくし、「行政や統治はニュージーランド式で良いから、せめて集落毎の自治やポリネシア文化を認めて欲しい」と訴えるが、どうも良い返事が無い。
そんな中、またクヒオの元に訃報が届いた。
長年に渡り幕府で無い方のハワイ軍を統率していたアシュフォード将軍が死亡した。
ハワイの再併合を防ぐ、もしもホノルル幕府が反乱を起こして国を奪おうとしたならこれを討つ、そう気を張って生きていた彼だったが、欧州大戦の終了後に急速に病み衰え、
「私を信任して司令官に任じてくれた女王陛下ももう居ない。
祖国に帰らせて欲しい」
と言ってアメリカに帰国し、1年後に眠るように亡くなった。
その報告をもたらしたホノルル幕府老中・林忠崇から、一首の歌が同時に届けられた。
「山川の末に流るる橡殻も
身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
クヒオは全く意味が分からなかった。
何となく「自分を犠牲にすればどうにかなる」と言うのは伝わったが、
(林殿は、何を捨てて、何を浮かべろと言うのか?)
と理解出来ない。
彼は電報を打って、留守居の林に連絡を入れる。
『ワカルヨウニセツメイセヨ』
林の回答は速い。
『ハワイハヨウキュウスルイガイニナニカステルモノアリヤ?』
つまり、ニュージーランドに何かを諦めさせる代わりに、ハワイも何かを捨てないと相手は納得しないという事だ。
では一体何を捨てる?
捨てられるような何かが有るのか?
1921年、国際連盟は一つの成果を上げる。
スウェーデン、フィンランド間の国境問題「オーランド諸島問題」を、事務次官の日本人・新渡戸稲造を中心に提案した「新渡戸裁定」を両国が認め、問題解決したのである。
オーランド諸島は元々スウェーデン領であり、スウェーデン人が多く住んでいる。
それが1809年にロシア帝国との戦争に敗れ、ロシア帝国フィンランド大公国の一部とされた。
それから108年、フィンランドはロシアから独立し、オーランド諸島はそのフィンランドからスウェーデンに領有権が移るように要望した。
フィンランドは自治権を与えるから自国に帰属せよと言い、スウェーデンは「住民投票でスウェーデン帰属が決まったら返還せよ」と主張して対立となっていた。
新渡戸裁定は、オーランド諸島のフィンランド帰属を認める一方で、自治権を更に拡大させオーランド自治領と為し、スウェーデン系住民もフィンランド領というより「オーランド自治領」に暮らすという意識にするものである。
スウェーデンには領有を放棄させる代わりに、フィンランドには直接統治を放棄させた。
双方が一定の損をし、一方だけが得をしない裁定である。
クヒオは「ここにヒントが有る?」と考え、「林と同じ日本人、何か分かるかも」と新渡戸事務次官と個人的に相談の機会を持った。
新渡戸稲造は、クヒオから渡された詩を見て
「空也上人の歌ですか……」
と苦笑いした。
「私はクリスチャンで、仏教は余り詳しくありません。
この林さんという人が何を考えて送って来たものかは分かりませんが、
次の電報を見る限りはニュージーランドに何かを要求する以上、ハワイも何かを捨てろ、
そう言っていますね、明確に」
「そこまでは私も分かりました。
では何を捨てろというのが分かりません」
「王族である貴方が分からないのに、他人である私が分かるわけないでしょう?」
「いえ、そういう意味ではありません。
貴方はオーランド問題を解決しました。
あれは政治的な権利を両方に損させたものです。
もしも領土的な損ならば、領土分割とした筈です。
そして、両国にも、両民族にもシコリが残ったと思います」
「ふむ……」
領土二分というのは、資源問題等でどうにも収拾がつかない場合である。
それはクヒオの言う通り、両国にシコリとなって残る。
実際、国際連盟が分割を認めたドイツ・ポーランド間の北シレジア問題は、両国とも不満を持っている。
ニュージーランドは、領土を手離せと言われているのではなく、ポリネシア文化を認め、ニュージーランド式を適用するなと言われただけだ。
確かに面白くないのは分かる。
不満は口に出せば良い。
しかし口に出さない、という事は、口に出すと自分たちの品位が疑われるようなものが引っかかっているのかもしれない。
新渡戸は考えた上で、
「ハワイは、サモアに一定の自治とポリネシア文化の保護を認めさせて、何を得るのですか?」
と聞く。
「いえ、我々は何も要求等していません」
と答えるクヒオに、新渡戸は
「貴方の要求等聞いていません。
ハワイは何を得られるか、国際社会がどう思うかを聞いたのです。
心当たりは有りませんか?」
と再度質問する。
クヒオはハワイの歴史を思い起こし、一個思い当たるものがあった。
第7代カラカウア1世が行った「大ポリネシア構想」である。
ハワイ・サモア・ニュージーランドを結ぶポリネシアの三角形をもって「一つの強力な国にしよう」という夢想であった。
しかし、この構想に沿って派遣された砲艦「カイミロア」に対し、アメリカ、イギリス、ドイツは全て冷淡な態度を取った。
国内では、海外に余計な警戒心を抱かせるな! とクーデター騒動も起きた。
幕府関係の日本人も、余計な事であると反対していた。
(なるほど、ハワイは何も得られなくても、ポリネシア人の中で声望が上がるのか。
そして、大ポリネシア構想が蘇り、ハワイが盟主として見られると、ニュージーランドはその下と見られてしまう。
例え一般の国際社会でなく、ポリネシア社会だけの事であれ、ニュージーランドが面白い訳がない)
そう納得した。
クヒオは新渡戸に礼を言って別れた。
しばらく林と電報の交換をした後、クヒオはニュージーランドに提案をした。
「ニュージーランドがポリネシア文化圏の盟主となって欲しい。
その下で、マオリとサモアの文化を保護して欲しい。
貴国がポリネシアの盟主となるなら、同じポリネシア民族であるハワイも貴国を盟主と仰ぎます」
ニュージーランド代表はしばらく考えて、
「それを我が国の政策として行い、国際社会に発表し、貴国はそれに従うのだな?
自治や独立を正式な形で与えるのではなく、部族の文化保護として認めろと言うのだな?
表向きC式を改めないが、村落単位でB式を取り入れる、それだけで良いのだな?
それを貴国は、決して己の功績としない、そういう事だな?」
そう念入りに聞き返した。
クヒオは頷く。
「よろしい、ニュージーランド政府はC式委任統治を維持したままで、
民族自決の連盟の理念に則り、ポリネシア民族・文化の保護と村落自治への無干渉を発表する。
文化と地方自治以外の事は貴国からの口出し無用だ」
こうしてサモアの文化的自立と、ポリネシア文化の保護が、ハワイではなくニュージーランドの発言として世に出た。
ニュージーランドは、サモアを自国と同じ水準の地域として管理する気は無く、政府としてはニュージーランド人が長として統治出来れば、各村落や酋長に対し細々と干渉する気は無かった。
他人から言われたから文句があった迄の事。
自国の名誉が守られ、その上「ポリネシアの盟主」たる地位に就けるなら、サモアの自治領化、実質的な独立国家扱いくらい問題無かった。
確かにポリネシア人は、言い出したハワイ王国に良感情を持つだろう。
しかし、国際社会的にはハワイが折れて、ニュージーランドは「小国に言いくるめられた」等と言われずに済む。
こうしてハワイ王国が望んだサモア問題は一定の成果を挙げた。
このクヒオの交渉の粘り腰を、イギリスは評価し、ある事を任せてみようと考えていた。
1921年の事である。
書く場所で悩んだ結果、備考的に書きます。
ハワイの西部戦線出兵は、1914年のも1918年のも、犠牲の割に評価されてません。
感情的には喜ばれていても、西部戦線全体の死者に比べハワイ軍の被害なんて屁みたいなものですから。
貢献度から言えばカナダやANZACの方が上。
ハワイの席次の良さは、サモア占領とタヒチやフィジーの防衛、そして4年間従事した船団護衛に因ります。
西部戦線やイタリア戦線に行った事は、島国で井の中の蛙になりがちなハワイ人たちが世界を知ったという意味で成功です。
リリウオカラニ女王の狙いは、クヒオが決着の場に居る事で、英仏伊その他欧州首脳の知己を得る事と、共に血を流したという事で今後邪険には扱われないだろう、というものでしたが。
(ぶっちゃけ、大日本帝国がイギリスの求めに応じて「金剛」を貸し出し、西部戦線のどこかで一緒に戦い、大将・中将クラスがロイドジョージやペタンと知り合いになってれば、という思いもありまして)




