パリ講和条約
欧州大戦終結に関し、連合国の勝利に大いに寄与したとして人気爆発中のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、今後の世界の為の指針を示した。
所謂「15箇条の平和原則」である。
第1条:講和の公開、秘密外交の廃止
第2条:公海航行の自由
第3条:平等な通商関係の樹立
第4条:軍備の縮小
第5条:植民地問題の公正な措置
第6条:過度の拷問や弾圧、強引な裁判による処罰の禁止
第7条:ロシアからの撤兵とロシアの自由選択
第8条:ベルギーの主権回復
第9条:アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還(普仏戦争の結果、譲渡されていた)
第10条:イタリア国境の再調整
第11条:オーストリア=ハンガリー帝国の民族自決
オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障。
第12条:バルカン諸国の独立保証
第13条:オスマン帝国支配下の民族の自治保障
オスマン帝国統治下の諸民族の自治の保障とダーダネルス海峡の自由航行。
第14条:ポーランドの独立
(18世紀のポーランド分割の結果消滅していたポーランドの復活・独立)
第15条:国際平和機構(国際連盟)の設立
説明をする。
第1条は「旧外交」から「新外交」への転換を求めている。
「旧外交」とは二国間の交渉で全てが決まり、その内容は公開されないものである。
この旧外交が起こした問題で有名なのが、イギリスの「三枚舌外交」による中東問題である。
中東の独立を支援するからアラブ人に戦争協力を求めた「フサイン=マクマホン協定」、
英仏露で中東を分割するとした「サイクス・ピコ協定」、
中東にユダヤ人の国家樹立を認めると言ってユダヤ人から戦費を募った「バルフォア宣言」。
3つの内、非公開は「サイクス・ピコ協定」のみだが、2者間のみの外交で陰謀も外に漏れないようにすると、このように矛盾した外交並立となって現れる。
可能な限り第三者も交え、締結内容を公開する「新外交」に切り替えようというのだ。
後は概ね現状抱える問題解決を謳っているが、第6条について。
ハワイ王国関係者は
「これは、うちを想定してないか?」
と心臓の辺りに痛みを感じたという。
確かにハワイも想定している。
ハワイは無用な革命運動を抑える為、セルビアの関係者、ロシアの革命家、東欧各国各民族の独立運動家が潜伏しようとする度に、有無を言わさず暗殺して平和を維持していた。
各国「やり過ぎだ!」という不満が出ている。
ハワイも裁判にかけずに内務省の特殊警官が秘密裡の「処理」をするが、それ以外の事もあってこの条項は入った。
それはこの欧州大戦の引き金を引いたセルビアにある。
オーストリア皇太子夫妻を暗殺したのはセルビアの秘密組織「黒い手」である。
この指導者ディミトリエビッチは、サロニカ裁判で裁かれ、銃殺刑に処された。
ただし、死刑の理由は「オーストリア皇太子夫妻暗殺」ではなく「セルビアのアレクサンダー王太子暗殺未遂」の容疑であった。
サラエボ事件について、多くがこの裁判で語られたが、その記録は極秘情報として隠された。
愛国者ディミトリエビッチの死刑に対し、減刑の声も上がったが、パシッチ首相の
「オーストリアと和睦の必要が生じた時、暗殺事件の首謀者が減刑されていたと知ったらどうなると思う?」
という反対で、死刑は強行された。
元容疑の「アレクサンダー王太子暗殺未遂」だが、これは権力争いで作られた疑惑と言える。
この強引な裁判で、真相を知るディミトリエビッチは闇に葬られた、それも問題視した。
さらに言えば、この「黒い手」だが親オーストリアの王家オブレノビッチ家を倒す為に創設されたものだ。
国王を倒すに至ったのは、国王が反対派を弾圧し、暴君となったからである。
暗殺組織を作られる程の弾圧をしなければ、欧州大戦はそもそも発生しなかったかもしれない。
そもそも論、理想主義者の遡及思考もあったが、過度の弾圧や不正な裁判というのは、ハワイよりむしろセルビアを狙い撃ちしたものであった。
セルビアは復活を予定している為、ウィルソンとしてはこの辺をクリアにしておかないと、再度の大戦を招くかもしれない、と考えた。
そして、現在進行形でのソビエト連邦内の粛清等にも適用される。
ボリシェヴィキ独裁のソビエトに対し、やり過ぎるな!というメッセージでもあった。
セルビア、ハワイ、ソビエト連邦、そして日本(朝鮮半島で弾圧があったと言われたが、後に捏造報告と判明)等の為に書かれたものである。
ウィルソンの15箇条に、戦後分かった新たな情報から追加条項が出来た。
追加1条:人体実験及び人体改造の禁止
かつてアントワープ要塞陥落後の追撃戦で、絶対に降伏しない死兵を見たドイツでは、
”人間も特訓次第であのような死兵、もしくは不死兵を造れるのではないか?”
と陸軍の一部が『人間強化委員会』を設立し、捕虜を使って人体実験を行ったというのである。
そもそもは、腕が吹飛ぼうが、頭部の半分が失われようが、切り裂かれた腹から腸がはみ出ようが、一人一殺で戦い続ける常軌を逸した敵兵の数少ない捕虜(結局意識回復せず死亡)の肉体を調査せよというファルケンハイン総参謀長の命令から始まったのだが、ヴェルダン会戦後にファルケンハインが辞任した頃から止めるものも廃止するものも無く、暴走が始まる。
この暴走した組織の長は「少佐」という階級しか分からず、彼は
「不死身の吸血鬼の部隊を作り、敵軍にぶつけてやるのだ!」
等と語っていた。
この「神に背く考え」を危険視したイギリス国教騎士団が調査を開始したそうだ。
(もう一人「首領」と呼ばれる男が、人間と動物や機械を混ぜ合わせた改造人間を造り、敵国に送り込んで破壊工作をする「衝撃部隊」を作ろうとしたが、あくまでも戦争に拘る「少佐」と意を異にし袂を別ったという噂もある)
この15箇条プラス1を下敷きにパリ講和会議が始まったが、会議はのっけからアメリカとフランスが対立する。
アメリカは過大な賠償金を取るべきではない、領土も割譲すべきではないという立場を取る。
イギリスもそれに従った。
しかし国土が戦場にされたフランスは、賠償金を取れるだけ取らないと気が済まないし、再侵攻等されないように「ザールラント、ラインラント」をフランスに割譲しろと要求する。
国境地帯であると共に、ドイツの工業地帯を奪われると、ドイツは賠償金を払う原動力を失う上に、フランスの力が増え過ぎる。
イギリスは妨害外交でアメリカと組んだ。
だが、ウィルソン大統領がスペイン風邪でダウンし、ロイド・ジョージ首相が新聞に煽られた議会の対独強硬論を鎮める為にロンドンに戻る。
この隙にフランスのクレマンソー首相が動き、双方の譲歩の必要を訴えた。
結果「ザールラント、ラインラントは15年間の連合国による保証占領」となり、ロイド・ジョージが復帰した時は既にこの線で話が進められていた。
問題の2つ目、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の処遇については意見が完全に分裂する。
イギリス、フランスは皇帝を戦争犯罪人として裁判にかけろと主張する。
それに対しアメリカと日本が「国家元首の罪を裁いたという前例は無い」「法的根拠に乏しい」と反発する。
ハワイ王国代表のクヒオも、この件では日米に着いた。
大国ではないハワイは主要な会議には呼ばれてはいないのだが、防疫の為に帰国出来ないので会議にオブザーバー参加する身となっていた。
領土問題では英仏寄りのクヒオだが、ヴィルヘルム2世の問題では恩人の国に反発している。
彼の中では反発というより「やり過ぎると危険だ、適当な所で鉾を引かないと災厄を呼ぶ」という心配があり、意見を聞かれたクヒオはそれを主張した。
確かに余り追い詰め過ぎると良くない。
結局「退位して亡命したヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン氏という個人を裁判にかける」という案が出て、しかし亡命先のオランダが身柄を引き渡さない事を理由に、有耶無耶にしてしまった。
もっとも、フランスですら裏でオランダに接触し、決して皇帝を引き渡さないようにと依頼していたので、この件は英仏とも国内世論を抑える為の異論を待っていただけかもしれない。
次に民族自決主義に基づく国境問題の話し合いで、日本が苦境に立たされた。
朝鮮民族の民族自決の主張を取り上げ、大韓帝国との併合は無効、韓国は再度独立国に、という流れになっていた。
二重帝国は完全に解体され、オーストリア共和国、ハンガリー、チェコ・スロヴァキア、ユーゴスラビアを形成する諸国(クロアチア、モンテネグロ、ボスニアヘルツェゴビナ)が新たに生まれた。
バルト海沿岸にもリトアニア、ラトビア、エストニアの3国が生まれる。
この流れでは、日本も朝鮮半島と山東半島を、それぞれ韓国、中国の手に戻さねばならない。
しかしこのタイミングで、最悪の手を韓国上皇高宗は打つ。
噂を漏れ聞いた高宗は、独立は為ったとして反日の暴動を起こす。
日本は鎮圧せざるを得ない。
この時点では弾圧をした日本という事で、立場は悪かった。
(実際は暴動を起こした者だけを捕らえていたから、弾圧という程の弾圧では無かったが)
だが、日本軍に追われた高宗は中華民国大使館に逃げ込み、そこから中国に亡命すると、さらにソビエト連邦に亡命してしまった。
高宗は極めて親露的であり、それは日露戦争前後、日露の急接近、ロシア革命、ソビエト連邦成立と状況が変わっても変わらなかった。
(ロシア人は余を保護してくれるに違いない)
そう思い込んで、「人民を搾取する専制君主に死を!」なソ連に逃げてしまった。
ソ連もすぐには殺さない、というか殺すに値しないと感じた。
彼の名を使って朝鮮半島にサボタージュを呼び掛ける。
ソ連は反ロシア革命の干渉戦争を日本他アメリカ、イギリス、フランス他から仕掛けられていた。
策源地の一つ、朝鮮半島でサボタージュが起これば自国が救われる。
しかし、事態はサボタージュに留まらず、再度暴動に発展した。
ここに至り理想主義者のウィルソン大統領はまたひっくり返った強硬派となり、日本の朝鮮半島支配と高宗の捕縛を主張した。
これには「確かヴィルヘルム2世の処刑には反対したよねえ」と英仏が噛みつき、高宗は捕らえても殺さない、収監すらしない、となった。
英仏は、これ以上日本が極東で力を持つのを嫌がっていたが、ソ連が絡んだ以上仕方無し、日本の主張を丸呑みした。
これが一見無関係のハワイで事件となる。
日本はこの後、ウィルソン大統領の側近のハウス氏に、国際連盟の規約に「人種的差別撤廃提案」を盛り込むように提案する。
日本はこの件に関しては、同じく日系人の居る国・ハワイ王国にも協力を要請する。
クヒオは「かつてはハワイ国王すら差別された」事を思い出し、協力要請を快諾する。
強硬に反発したのは、白豪主義を採るオーストラリアであった。
そしてウィルソン大統領も、この件は賛成多数にも関わらず
「重要な事項だから全会一致でなければ可決出来ない」
と日本案を棄却した。
「国際会議とはこのようなものなのか……。
理想を訴えても、結局は利害調整となる。
失策をすると、その会議全体を敵に回す事も有り得る。
余計な事をした大韓帝国の先帝の事は、反面教師として覚えておかねばならないな」
これがジョナ・クヒオの感想であり、学習した事である。
この経験を活かし、彼は一大国際会議の議長を務める事になるが、それはもう少し先の話。
1919年は会議会議で過ぎ去り、1920年、スペイン風邪防疫の為に帰国禁止を命じられていたハワイ軍は帰国の途についた。
2年の月日が過ぎ去っていた。
え? 日本の警備がザル? 高宗を捕らえて幽閉してるだろうって?
日本軍も朝鮮統監も優秀な機関です。
高宗を逃す筈がありません。
「高宗はソ連に逃れて、半島で暴動を起こさせる」方が都合が良いのです。
そう考えて泳がせた人物(そうしろと入れ知恵した若い将校)がいます。
……って事にしときます。
その人物は後の方でまた出て来ます。
現在は中支那派遣隊司令部にいる庄内出身の31歳の陸軍大尉です。




