ハワイ王国欧州大戦1914~1916
1914年12月1日、ホノルル市民は欧州から帰還したクヒオ王子と幕府軍を見て絶句した。
3隻の船で出征した筈なのに帰りは1隻のみ。
あの無敵と思われた「破軍星旗」の第二旅団は、旅団長戦死、無傷の者無し。
まるで敗軍のようだが、これでもイーペル会戦の勝利者、アントワープの殿軍として勇名を馳せたという。
実際、ドイツ軍はいくつかの誤解をしている。
ベルギーが呼び寄せたコンゴ植民地軍と勘違いしているが、
「彼等は決して降伏しない、通常兵器で彼等は簡単には掃討出来ない」
「北斗七星旗を掲げたイギリスの特殊部隊が現れた」
「ベルギーもイギリスもアフリカやインドから現地人部隊を連れて来ているから、海上封鎖をして止めるべきだ」
等と報告している。
損害の大きさから、「ドイツ軍も破軍星旗の部隊を警戒し始めた」なんてハワイ軍に伝えたら、笑う前に疲れた顔で「慰めてくれなくても良い」と言うだろうか。
ドイツ軍は北斗七星大隊を攻撃に特化した強力な軍と認識する。
実際、酒井了具の突撃は他国に比べて効率的だった。
塹壕が相手ではあるが、500メートル前進するのに
・シャンパーニュのフランス軍 死傷者5万人
・サン・ミシェルのフランス軍 死傷者6万4千
・ヌーブ・シャペルのイギリス軍 死傷者1万3千
であり、たった2千人で防衛線を抜けて自軍と合流出来たハワイ軍第二旅団の戦術機動は感嘆すべきものであった。
ドイツの恐れは「危険な連中が来たから気を付けろ」程度だが、この人の恐怖心は深刻だった。
帰朝報告でクヒオ王子は
「一刻も早くこの戦争からは手を引くべきだ」
と青ざめながらリリウオカラニ女王に報告した。
狼狽が目に見える為、帰還した梅沢中将から
「見苦しい! 頭を冷やしなされ!」
と身分を超えて喝を入れられた程だった。
「君はあんな地獄にまた戻りたいのか?
私は嫌だ。
私の義兄弟である了具は戦死したんだぞ」
「私もあの戦場には戻りたくは無いですな。
戻らなくて良いのでしょう?
イギリスのチャーチル海軍大臣、キッチナー陸軍大臣、フランスのジョフル司令官は、ハワイ王国は太平洋方面に専念してくれと言ってくれたでしょうに」
リリウオカラニ女王やアシュフォード中将は、本来幕府の軍議とは無関係である。
だが、凄絶と音に聞く欧州大戦の様子を知りたくて、オブザーバー参加をしていた。
猛将酒井玄蕃の嫡男戦死、第一、第二旅団壊滅でハワイを守る幕府軍は現在内海艦隊と第三旅団の半分しか居ない、戦争の様相は変わり、機関銃と野戦重砲によって兵士は戦わずに挽肉に変えられる。
初期にアントワープに居ただけで、後はロンドンに留め置かれたクヒオの溜息混じりの概況報告よりも、アントワープ要塞からゲルベールの戦いまで前線にいた梅沢の冷静な詳細報告が、ハワイに残っていた軍関係者や女王に寒気を覚えさせた。
酒井家は、次男の酒井了比が家督を継ぐ事に決まった。
だが、了比は軍事教育は受け、少佐までは上がったが
「それは父上の手前、継承者としての才能を見る為の措置で、自分には才能は無い」
と言って予備役入りしている。
三男酒井了雄は日本の陸軍大学校に留学中だが、彼に聞いても「第二旅団長職は酒井家の専有物ではなく、然るべき能力を持った者が務めるべき」と答えて来た。
第二旅団長の後任は適任者を探さねばなるまい。
「私はもう戦争そのものがウンザリなのだ」
「最高司令官がそれでは、ドイツ軍がこの国に攻め込んで来たら、士気が上がらず負けますな」
「来ると思うか?
あのドイツ軍が?」
「何故来ないと思うのですか?
出羽君、シュペー艦隊はいまだ消息不明なんだろ?」
出羽重遠がドイツ東洋艦隊の動向を話す。
幕府軍がイーペルの戦場で死闘を繰り広げていた11月1日、グラーフ・シュペー提督率いるドイツ東洋艦隊はコロネル沖海戦でイギリス艦隊を打ち破った。
無敵イギリス艦隊が敗れたのだ。
良い報告は、11月8日にインド洋ココス諸島沖でドイツ軽巡洋艦「エムデン」が撃沈された事である。
「エムデン」は陸戦隊を上陸させていたと言う。
東洋艦隊主力がハワイの一部の島に陸戦隊を上陸させないと、誰が言えよう。
「ドイツ陸軍部隊では無いのか?」
「この方面のドイツ陸軍は差し当たり大丈夫だと思います。
中国のドイツ根拠地・青島要塞が11月20日に陥落しました」
「落としたのは日本軍か?」
「そうです、日本がイギリスの要請を受けて要塞を攻略しました」
ドイツは大韓帝国皇帝高宗を唆し、日本に対する反攻をさせた。
しかし高宗は認識を間違った行動を採り、韓国政府によって譲位させられた。
そして併合派韓国人により江華島の日本軍は、韓国内の治安出動した。
日本軍が韓国に展開した事で、青島要塞に向ける兵力が無くなった為、ドイツの謀略は一定の成功をしたと言える。
この時、対独宣戦布告はしていたが、専ら韓国全土制圧に動いていた日本の目が向いていないのを良い事にシュペー艦隊は堂々と出港して行った。
その後、タヒチでハワイとフランスの軍艦が沈められ、インド洋では軽巡洋艦「エムデン」が通商破壊を始めた。
イギリスは日本の重要性を認識し、大幅譲歩する。
朝鮮半島の支配権を認め、中国に対する優先権も認めて、青島要塞攻略を依頼した。
日本には幸いな事に、韓国は反抗もほとんど無く、無血占領が出来た。
満州との国境付近で「金日成」を名乗る頭目率いる武装集団が抵抗をしているくらいだ。
後方の不安が無くなった日本は、青島要塞を一週間で陥落させた。
「あのドイツ軍を相手に、一週間で勝ったというのか?」
クヒオ王子は日本の強さが想像出来なかった。
「日本軍も我々も同じ日本人ですぞ。
どちらかが強いという訳では有りませんな」
陸奥国仙台出身の梅沢が言う。
実際、ハワイで第三旅団を率いた立見尚文は、今の日本政府を作る元となった軍を撃破し続けた。
では強さの違いは?
「日本は己の庭でドイツと戦いました。
戦う前にあらゆる補給路を潰し、物資不足にドイツ軍を陥らせ、一方で自軍の補給は万全にし、7倍の兵力で攻撃しました。
アジアで戦ったからこそです。
もしも欧州で戦ったなら、日本軍とて我等と大して変わらぬ被害を出した事でしょう」
「そうかなぁ……」
「まあ、指揮官の差、武器の差、戦術の差は有りますな。
この私、梅沢も亡き立見将軍に劣ります。
日本は今回飛行機なる、空を飛ぶ機械を使って戦ったそうです。
日本はドイツ式の軍制を採っています。
そういう強さの違いは有るでしょう。
学ぶべきは学びましょう。
そして我々の庭である太平洋では負けぬよう、相勤めましょうぞ」
「戦争自体を止めてはいけぬのか?」
「ベルギーを見たのでしょう?
あの国は我が国よりも巨大ですが、それでもイギリス、フランスよりは小国です。
ドイツ相手には一たまりも無かった。
しかし、領土がイーペル1都市になっても戦い続けている。
だからこそイギリスもフランスも共に戦うのです。
自ら戦わぬ者、共に戦わぬ者は東西どこも信じてはくれませぬぞ」
この辺は武士の価値観が相当に入った視点である。
クヒオは大戦からの離脱は思い留まる事に決めた。
かくして幕府は、連合軍の指導に従い、太平洋方面と海軍による海上護衛に専念する事にする。
そして欧州西部戦線の悲惨さを伝え、功を焦っているハワイ人の派兵を諦めさせた。
これはこれで幕府が役割を果たしたと言える。
幕府はハワイ人の代わりに戦で死に、ハワイ人の犠牲を出させ無い為に在るのだから。
江戸幕府では、次男三男それ以降が家を継げず、部屋住みという厄介者となる問題があった。
ホノルル幕府では、モロカイ夏の陣、米布戦争、欧州大戦と当主戦死が起きる戦争が有り、「長男のバックアップ」である次男、三男らが機能した。
平和な時代なら暇を持て余すだけの次男以降は、いつ家督が回って来るか分からず、武芸鍛錬、軍事調練、学問習得に励んでいる。
しかも、ハワイ王国が相当に危ない時期に渡来した幕臣たちは、王国の奨めと危機感から、5人も6人も子を作っていた。
キリスト教社会では許されぬ側室を持つ者も多い。
(でないと、多数の子は持ちづらい)
急ぎ家督交代や養子縁組で、壊滅した第一、第二旅団の再編が成される。
次男、三男たちは講武館で軍事教育を受けている為、兵士としてはすぐに戦えるようになった。
問題は、下級指揮官の損耗で、これだけは一朝一夕にどうにかなるものではない。
「やれやれ、またお勤めか」
と嬉しそうにボヤきながら退役幕臣が分隊長、小隊長、中隊長として復帰して来た。
こうしてホノルル幕府の戦力は12月中には立て直しに成功する。
この頃には、フォークランド沖海戦でシュペー艦隊がイギリス艦隊に敗北し、太平洋の脅威が消滅した事が分かる。
ハワイ王国の大戦は、海上護衛作戦に従事している外洋艦隊と、サモアを守備する第三旅団の半数だけのものとなった。
ハワイ王国の1914年戦役は多くの犠牲を出しながら終わる。
1915年は、専らルーチンワークの日々であった。
外洋艦隊の巡洋艦戦隊が1隊ずつ交代で、フランスやイギリスの輸送船団の護衛に就く。
イギリスの場合、オーストラリアやニュージーランド間のANZAC航路と呼ばれる航路だが、立ち上げたばかりで護衛艦艇が足りているわけではない両国を護衛している。
敵襲の恐れの無い、安全な航路であるが、その分イギリスや、この航路の護衛を受け持つ予定だった日本海軍は戦力を別に向けられる。
フランスはタヒチやフィジーといった島々やインドシナ半島との間を結ぶ商船の護衛を依頼した。
インドシナ方面では、時々日本海軍の艦艇と出くわす。
同じ日本人の運用する2つの海軍だが、最近の外交のゴタゴタも有って、親密という訳ではない。
逆にそれが、同じ日本人同士で何かを企むのでは?という英仏の疑惑を払拭しているのだが。
イギリスは朝鮮半島、遼東半島、山東半島を日本が支配する事を認めたが、露骨な日本の野心を警戒している。
まして1915年1月18日に、日本が中華民国袁世凱政権に突き付けた21箇条要求については不満なようだ。
1915年には大きな事件や会戦があった。
・1月24日 ドッガーバンク海戦
・2月4日 ドイツ、Uボート作戦開始
・5月7日 「ルシタニア」号事件
・5月23日 イタリア参戦(連合国側)
・9月1日 ドイツ、アメリカの抗議によりUボート作戦を停止
・11月27日 セルビア軍崩壊
これらにハワイは一切関与していない。
1916年も大戦における進展は激しかったが、ハワイは関わっていない。
だが、海上護衛をしているハワイにも関わりそうな事も起きる。
1916年3月1日、ドイツは無制限潜水艦作戦を再開した。
これも前年同様、5月10日に中止が発表される。
アメリカが相当に抗議をしている。
タフト政権が2期勤めた後、アメリカ大統領はウッドロー・ウィルソンになっていた。
ウィルソンは理想主義かつ平和主義者で、かつての米布戦争終結時には世話になった。
「理想主義者だけに、それを一切合切否定されると、逆に攻撃的になる」とかつて榎本武揚は見ていた。
彼が示す妥協点を踏み越えると危険なのだ。
ドイツも今のところは、ウィルソンの平和主義を見て、アメリカからの抗議には応じながらアメリカの対独参戦だけは防ごうとしているように見える。
こうして海上警備専念のハワイには、1916年も波風は立たずに終わった。
やがてハワイ人に再び好戦的な気分が芽生え始める。
1914年の海と陸での苦杯を、戦った幕府以外のハワイ人は、もう忘れ始めていた。
そんな中、イギリスから新しい指示が入る。
「現有する巡洋艦、駆逐艦を全て香港に回航させるように。
状況によっては一時これらの艦をイギリス海軍が運用する。
軍艦と共に乗組員、艤装関係の責任者、技術者も来るように」
1917年の海上、否、海中は波乱含みであった。




