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西部戦線の幕府軍 ~第一次イーペル会戦~

 1901年、カウアイ島。

 第二旅団紅白戦。

 守備は第五大隊で酒井玄蕃直率。

 攻撃は第六、七、八大隊で酒井玄蕃の長男、次男、三男が指揮していた。

 3倍の兵力の攻撃を酒井玄蕃はシステマチックに防ぎ続ける。

 猛将と呼ばれる酒井玄蕃だが、「静」の用兵も出来る。

 息子たちの攻撃をいなし続け、綻びを見せない。


(天性の用兵巧者だな)

 判定役の立見尚文とアシュフォードは酒井玄蕃を見てそう思う。


 守り切った玄蕃と息子たちとのキル・レシオは1対4.5であった。


「うぬにこの破軍星旗は渡せぬわ」

 玄蕃は長男の虎之介にそう告げた。

 虎之介は不満である。

 共に機動戦に出たなら勝てたのに。

「戦は防御から始まる。

 受け身もろくに出来ぬヒヨッコなど脆い」

「それは承知しております。

 ですが私は攻撃担当、父上……申し訳ありません、中将殿は防御専念では、私は防御は無視して攻めねばなりませぬ」

「古来攻城には三倍の兵を必要とすると言う。

 それ程守りは死なず攻めは犠牲が大きい。

 なれば、此度うぬらに与えた兵力は儂の三倍である。

 我等が兵の討死一に対し、うぬらが三ならば文句は言わぬ。

 だが、四と半ならばうぬらの戦が下手なのよ」




 数年後、酒井玄蕃の死と共に、かつてアメリカ人を震え上がらせた破軍星旗は封印された。

 三兄弟の長兄虎之介が名を了具のりともと改め、後を継いだ。

 ちなみに三兄弟はクヒオから一字を貰い、了具のりとも了比のりたけ了雄のりかつと名乗る。

 了具は酒井家家督だけでなく、やがて旅団長にもなった。

 家柄ではなく、玄蕃には劣るが敢闘精神と、戦術機動の巧みさ、突撃時の破壊力をフランス人に評価されての事だ。

 士官学校の成績も良く、大戦前にはフランスに留学もした。




------------------


 輸送の混乱で欧州到着が遅れていた第二旅団が戦場に到着した1914年10月22日、イーペルの戦場は既に悲惨な状況になっていた。


 ドイツ軍はアントワープ要塞を抜いて、ドーバー海峡沿岸諸都市を攻略に向かう。

 それを食い止めようとしたフランス軍は撃退され、後退した。

 その結果、イーペルという都市を守るイギリス大陸派遣軍(BEF)は敵中に突出した形で残る。

 このイーペル突出部の北部ではベルギー軍、突出部ではイギリス軍、南部ではフランス軍が戦っていた。

 北部のベルギー軍はドイツ軍を支え切れず、最後の手段、水門を破壊して自国に海水を引き入れ、ドイツ軍を水攻めにした。

 北部での攻撃を封じられたドイツ軍は、突出部に攻撃を仕掛けるも、BEFはこれを撃退。

 ドイツ軍後退を見たフランス軍が南部から反攻に出るが、ドイツ軍の鉄条網を張り巡らせた防御陣の前に停滞する。

 イーペルの東方には、ポリゴンの森とサンクチュアリの森があり、その中間をメニン街道が走っている。

 10月29日、メニン街道を通ってイーペルに向かうドイツ軍を、BEFは手前の交差点、ゲルベールで食い止めようとする。

 イギリス陸軍の精鋭部隊は、ボルトアクション式小銃で毎分15発を撃つ猛訓練を受けていた。

 その猛烈な射撃にドイツ軍は、機関銃が多数配備されていると誤解した。

 この戦いで英独共に多くの犠牲を出し、BEFは予備戦力を使い果たした。

 そこで再度、梅沢道治率いるハワイ旅団に支援要請が出た。

 既に戦闘可能なのは1200人程に減らされたハワイ軍だったが、機関銃配備率の高さを見込まれ、ゲルベールの戦場に投入された。

 本物の機関銃の攻撃でドイツ軍は撤退する。

 BEFは、全部隊に塹壕から出ないように命令する。

 千人を割り込んだ梅沢隊には有り難い命令だった。


 酒井了具率いる第二旅団約二千は、梅沢の本隊と合流すべく動いた。

 だが翌30日、ドイツ軍はイーペル南方のケメル高地に攻撃をかけ、酒井が進む道はドイツ軍に封鎖された。

 ケメル高地は、フランス第9軍デュボア司令官が出した援軍によって防御が増強され、ドイツ軍は攻撃を断念した。

 その翌日10月31日、ゲルベールはドイツ軍の攻撃で陥落した。

 孤塁がいくつか残り、抵抗を継続している。

 梅沢隊も機関銃の力で陣地を守り切った。

 この状況にゲルベール担当のBEF第1師団長ローマックス少将は、第2師団との共同司令部に戻った。

 第2師団長モンロー少将と作戦会議を開く。


 そこにドイツ軍の砲弾が命中。

 ゲルベール方面は師団長2人が戦死し、司令部も壊滅、指揮官不在となってしまった。

 幸いモンロー少将は、戦死の直前に援軍の指示を出していた。

 この援軍、第2ウスターシャ大隊が、ドイツ軍の隙をついて反撃に出た第1サウス・ウェールズ旅団の元に到着し、側面陣地を奪還した。


 そしてもう一隊。

 昨日足止めとなった酒井隊は、独自の判断でゲルベールを占領したドイツ人に横撃をかけた。

 酒井はゲルベールにいるBEF第1師団の指揮下に入るよう指令を受けていたが、伝令は第1師団どころか第2師団も含めた司令部壊滅を知らせて来た。

 その上での独自判断である。

 酒井はフランス人士官から敢闘精神を高く評価されていた。

 戦わずに退く事は頭に無かった。

 ましてここには同僚が居る筈だ。

 戦上手の梅沢中将なら生き残っている筈だ。


「破軍星旗を掲げよ!」


 酒井了具は、父の遺言を破って「戊辰以来負け無し」の破軍星旗を勝手に持って来ていた。

 掲げるには今しか無い。

 イーペルの戦場に北斗七星の軍旗が掲げられ、酒井隊は突撃を開始した。


 米布戦争の時とはレベルの違う砲撃、銃火、そして鉄条網等の防御機構が牙を剥く。

 それでも占領成功で油断していたところを、独自判断による完全な奇襲成功と、フランス人が称賛した攻撃時の破壊力はドイツ軍を狼狽させた。

 だが、亡き父に言われた欠点もこの戦場では露骨に出てしまった。

 突撃の度に戦える数が激減する。

 態勢を整えられると、やがて撃退され始めた。


 それでも攻撃を諦めない酒井少将。

 ドイツ軍の攻撃は指揮官に集中した。


『父上、勝手に破軍星旗を持ち出した事をお許し下さい。

 私は父上が仰る通り、この旗の伝承者たる資格は無かったようです』


 弾丸が酒井の身体を貫き、倒れそうになりながら、彼は己の弱さを知った。

 だが口では別の命令を出す。

「旗を倒すな!

 この破軍星は決して地には堕ちぬ!!」


 その虚勢が奇跡を呼ぶ。


 梅沢隊は、破軍星旗が戦場に立ったのを目で確認した。

 無線も電話も使いづらい戦場、前線部隊からの連絡に伝書鳩が使われているような中、北斗七星の旗は、誰がどこに居るのかをハッキリ梅沢に教えた。

 全軍最後の力を振り絞り、塹壕から出て酒井隊に目が向いているドイツ軍に背後から襲い掛かり、こちらの方面のドイツ軍を駆逐した。


 味方と合流した酒井は、そこで力尽きる。

「梅沢中将に、この旗を渡して欲しい。

 私には重過ぎたようだ」

 破軍星旗を伝令に託し、酒井少将は目を瞑った。

 そしてその目はもう二度と開く事は無い。




 破軍星旗を渡された梅沢は、それを掲げ、命令を下す。

「破軍星旗在る所、我々は決して負けない。

 今から追撃を行う。

 だが、敵は強い。

 我が命に従い、退く時は絶対に退け!

 では、追撃!!」


 第一、第二旅団がやっと合流したが、戦力は合計で千五百人程に減少している。

 それでも梅沢隊は、同様に追撃に入ったサウス・ウェールズ旅団と共にドイツ軍を叩き、ゲルベール奪還に成功した。

 深入りしてドイツ軍の再反撃を食らわぬ内に、両部隊ともゲルベール防衛陣に撤退した。


 BEFにはもう予備兵力は無い。

 梅沢隊はそのままゲルベール防衛陣を守るように命じられた。

 だがしばらくは、戦闘がイーペル南方のウィシャッテ高地に移った為、梅沢は陣地の修復や負傷者の回復に専念した。

 戦闘は断続的に行われている為、主攻から外れたゲルベールでも、治すのと同じくらい新たな負傷者が出て、直すのを上回るペースで破壊され続けた。


 1914年11月11日、ファルケンハインはメニン街道沿いの陣地に攻撃をかける。

 梅沢隊もこれに応戦。

 ドイツ軍死傷者約8万人、フランス軍死傷者38万人、BEF死傷者9万人、ベルギー軍死傷者5万人で兵力半減、そしてハワイ軍は約五千の兵力で、戦闘可能な兵力僅か113人であった。

(負傷兵は相当いて、その一割は明日には死ぬだろう)

 11月12日からは冷たい雨が降り始め、15日からは雪になった。

 援軍が到着した連合軍は戦線を押し戻し、イーペルはとりあえず落ち着いた。

 第一次イーペル会戦は終わった。




 フランス軍司令官ジョフルと、BEF司令官フレンチは、引き上げて来たハワイ軍を見て哀れんだ。

 戦死をなるべく防ぐべく梅沢が陣地構築と、得意の機関銃十字砲火陣形、更に出国時に医薬品を持ち込ませていたのだが、負傷者、いや死なずに済んでるだけの兵が数多い。

 肩を借りてでも立って閲兵に参加したのは約五百人、約千人が入院治療中。

 残りはこの世に居ない。


 生きて閲兵を受けるハワイ軍は震えている。

 日系人とは言え、11月のヨーロッパは彼等には寒いのだ。

 侍だから文句一つ言わないが、傷ついた身体は震えを止める余力を残していない。


 アルベール1世は泣いて謝罪した。

 ベルギー軍が予定より早く橋を爆破した事で、死なずに済んだ兵も居たのだ。

 しかし梅沢はそれに対し

「彼等は死に場所を得られて幸福だったと思います」

 と返した。




 ロンドンではクヒオ王子が青ざめていた。

 青ざめるを通り越し、血の気が引いて死人のような顔色になっている。

 間違い無くハワイ最強の幕府軍が、たったひと月で全滅に近い損害を受けるとは。

 まだまだ自分の、地獄の想像は甘かったのだと思い知った。


 ウィンストン・チャーチルがやって来る。

 チャーチルはどこの国も同じくらい損害を受けているから、特に同情等しない。

 ただ、必要な時にハワイ軍が予備戦力として居てくれた事には感謝した。

 そしてクヒオに言う。

「貴方たちの気持ちは十分に受け取った。

 必要な時に居てくれたのも有り難い。

 もうそろそろ帰国されたし。

 冬のヨーロッパは南国育ちの貴方たちには厳しいだろう。

 我々は太平洋方面さえ君たちに守って貰えたらそれで良い。

 海軍が手伝ってくれたら、十分なのだ。

 今後は補給機能も無い軍は居ても迷惑になる。

 今以上の消耗戦になるだろうからね。

 我々の為にも、もう今は帰って欲しい。

 また必要があれば協力を要請するから、戻って兵力を回復させて欲しい」


 クヒオは承知せざるを得なかった。




 こうしてハワイ軍の西部戦線は、クリスマス前に終わり、生き残りは家路に着いた。

 第一次イーペル会戦を最後に、西部戦線は塹壕戦に移行する。


 ハワイ軍は幸せだったかもしれない。

 第一次イーペル会戦は、西部戦線最後の野戦、最後の機動戦だ。

 この次の第二次イーペル会戦は、「最後」でなく「最初の」が修飾語につけられる戦いとなる。

 最初の毒ガスが使われた戦いとして……。

凄い損害出した幕府軍ですが、これ相当に強い部類です。

第一次世界大戦の資料読むと感覚が麻痺します。

数万の兵力が一瞬で消滅します。

たった3千人が数日も持ちこたえ、隊を維持出来ているだけで梅沢将軍は相当頑張りました。


あと、前話の捨て奸ですが、薩摩の専売特許でもないですな。

三方ヶ原の時とか、どう見ても捨て奸にしか見えない事やって家康を逃がした上に、それを子々孫々誇りとして語り継いでます。

夏目漱石のとことか(夏目吉信)。

爺さんになって来た旗本御家人が息子に「御先祖様はなあ、強大な敵から主君を守る為に、僅かな手勢で立ち向かい、死んで時間を稼いだ。それを御主君は見ていて、子孫である我々を安堵してくれたのだ!」と酔いながら自慢していたものと想像します。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ハワイ侍の意地を見せた地獄のような世界大戦。それでも本当の地獄がこれから始まるのか。
[良い点] 「この破軍星は決して地には堕ちぬ!!」 今作品屈指の名場面のひとつですね 戦争が終わって映画化されたら(間違いなくされると思いますが)欧州各地、特にベルギーで大ヒットしそうです あるいは…
[気になる点] 史実で日露戦争の講和会議を斡旋したルーズベルト大統領は、ノーベル平和賞を受賞していますが、この世界では徳川定敬が受賞したのでしょうか? [一言] できればベルギーやフランスから軽工業が…
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