欧州大戦
1914年6月28日、一つの暗殺事件が世界を揺るがす。
サラエボ事件である。
民族主義者の銃弾によって、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻が死亡した。
中世セルビア王国は、バルカン半島における大国であった。
このセルビア王国はやがて、イスラム教のオスマン帝国の版図に組み込まれる。
セルビアが再度独立するきっかけとなったのはロシアとトルコの露土戦争であった。
セルビアとロシアは同じスラブ民族(かなり遠いが)で親近感があった。
1906年まで、セルビアは近隣のオーストリアと友好関係にあった。
しかしセルビアで王朝が替わると、新王は親露政策を採り、武器の購入もオーストリアではなくフランスに切り替える。
これに対しオーストリアはセルビアの豚肉製品に関税をかけて報復した。
こうして豚の関税を皮切りに関税合戦「豚戦争」が始まり、セルビアはオーストリアから経済的に自立をするが、オーストリアも1908年にセルビア人の多く居住するボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合する。
1912年10月にセルビア含むバルカン同盟はオスマン帝国と第一次バルカン戦争を戦い、勝利してオスマン帝国の旧支配地を獲得した。
1913年6月に起きた第二次バルカン戦争では、獲得した地の分配を巡ってブルガリアと戦い、コソボや北マケドニアを領有した。
そして1914年に起きたサラエボ事件。
オーストリアはセルビアを挟み撃ちにすべく、第二次バルカン戦争で敗れたブルガリアと手を組んでいた。
セルビアはロシアを通じてフランス・イギリスと組んでいる。
オーストリアとロシアは1908年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合以来対立している。
セルビアでは反オーストリア感情と、ここまで勝って来た奢りもあった。
しかし、流石に皇太子夫妻を暗殺したのでは正義は無く、拡大して来た領内で反セルビア暴動も発生した為、大国オーストリアの懲罰を受け容れる事にした。
ここでオーストリア外相ベルヒトルトは失敗する。
10箇条の「オーストリア最後通牒」なるものをセルビアに突き付けた。
この内「領内にオーストリアの機関を入れて不満分子逮捕に協力させろ」と「法廷尋問にはオーストリアの機関も参加させろ」という2箇条について、反対ではなく一部留保という回答がセルビア側からなされた。
これに対しベルヒトルトは不満を表明し、国交断絶、宣戦布告に至った。
この「オーストリア最後通牒」の留保部分は国家の主権を侵害している部分である。
イギリスの外務大臣エドワード・グレイは
「ある国が他国に対して提示した文書の中でも最も恐ろしいものである」
と評した。
これを元に、皇帝やハンガリー首相の反対も無視し、強引に宣戦布告を行ったベルヒトルトだが、計算違いが発生した。
おそらくベルヒトルトは、ここまで弱気のセルビアだけに、宣戦布告をすればすぐに膝を屈し、残り2箇条もすぐに受諾するものと思っただろう。
しかし追い詰められたセルビアは、ロシアとの同盟に頼って戦争を選択した。
ロシアが動員を開始した。
計算違いの最たるものは、オーストリアの北にあった。
オーストリアの同盟国、ドイツ帝国である。
ドイツ帝国は、普仏戦争以来フランスに憎まれている自覚はあった。
そしてロシアとフランスが同盟を結んだ事も知っている。
そこで両国と同時に戦ったら勝ち目は無い為、ロシアが動員を開始したら、即座にフランスを攻撃して片方を潰し、大国ゆえに全軍が整うまでに時間がかかるロシアは後で迎撃する「シュリーフェン計画」を立案していた。
ドイツも馬鹿では無いので、ロシアが動員令を出すと自軍の戦争準備が自動的に始まってしまう為、ロシアに動員をするなという最後通牒を出したが、ロシアはこれを無視。
オーストリア対セルビアが、ドイツ対ロシアに発展した。
8月1日、総動員に時間がかかる事等承知しているロシアは、ドイツへの宣戦布告とともにフランスに参戦要請。
8月3日、ドイツが先手を打ってフランスに宣戦布告。
ドイツ・フランス国境はお互い要塞で固めている。
ドイツは既に要塞を攻めず、ベルギーを通過してフランスに攻め入る作戦であった。
8月4日、中立国ベルギーに攻め込んだドイツに対し、ベルギーの同盟国であるイギリスが対独宣戦布告。
ここに欧州大戦が勃発した。
6月28日のサラエボ事件から7月28日のオーストリア・セルビア開戦、そして8月1日のロシア・ドイツ開戦までに一ヶ月近い時間がある。
この間に英仏露とドイツは同盟国との交渉や、敵の敵を味方に組み込むべく外交を繰り広げていた。
ハワイ王国は、どちらの陣営か旗幟鮮明である。
ドイツも無駄な動きはしない。
英仏の太平洋の番人であるハワイには、相応の参戦要請が入った。
ロシアが一部動員を始めた7月24日、フランスとイギリスの使者が来て、いざという時の参戦を確認した。
ハワイはそれは仕方ない事と考えている。
対米戦であれだけ何も取られずに済んだのだ、その負債は今回返すものだと考えていた。
英仏の依頼は以下の通りである。
1.フランス領タヒチへの増援
2.イギリス西太平洋領土の警備
3.ドイツ領サモアの攻略
4.ドイツ東洋艦隊への警戒
3と4はハワイの国力、軍事力的に可能かどうか。
しかし、悩んでいる時間は少なかった。
8月4日イギリスが対独宣戦布告し、参戦した。
この月中にサモアを攻略するという。
具体的にはイギリス艦隊が警備し、ニュージーランド軍を使うという事でハワイも安堵した。
ハワイ王国は8月6日に対独宣戦布告をした。
そして動員に入ったが、一ヶ月以内に軍備は整わない。
こういう時の常備軍ホノルル幕府である。
かつて故ウィルコックス中将(死後に昇進している)の下で戦ったサミュエル・ノーライン大佐が第3旅団を率いてサモアに向かう事に決まった。
一方、ドイツ東洋艦隊への警戒である。
ハワイ海軍の戦力は、二等巡洋艦が2隻、三等巡洋艦が6隻で、どれも最高速度は20ノット程度、ドイツ東洋艦隊の巡洋艦が出す24ノット以上の艦はいない。
砲力も最強なのが改装した「マウナロア」級の20cm砲で、ドイツの装甲巡洋艦と戦えるかは怪しい。
イギリスも無茶は言わなかった。
輸送船団の護衛と、島等に派遣しての偵察行動で良いという。
代わりにイギリス艦隊、フランス艦隊と合同だが、太平洋という極めて広大な範囲が担当となった。
ハワイにとって楽なのは、イギリスがオーストラリアとニュージーランドにも海軍を持たせ、幅広くカバー出来るようになった事である。
しかし、ここに一個外交的障害が挟まってしまう。
イギリスと同盟関係にある大日本帝国が、その強大な海軍力を使い「太平洋上のドイツ領を接収しようか」と申し出て来た事である。
オーストラリアとニュージーランドはこれに反対する。
日本の大戦への参加は無くて良い、イギリスもそう対応しようとした。
だが、日本は別口からの参戦に成功する。
「歴史の分岐点で、必ず最悪の決断をする」という国が、またしても外交上の大失敗をしてしまった。
大韓帝国皇帝高宗は、大の日本嫌いである。
日本の重鎮伊藤博文は、朝鮮半島を併合する事を嫌い、長年妨害して来た。
帝も朝鮮併合には消極的だった。
この内、帝は1912年に崩御された。
伊藤博文は、1914年6月初旬、欧州での事件が起こる前に永眠した。
享年72歳、大往生と言えた。
死の前までに、多数刺客に襲われていたが、事件として表沙汰になる前に密かに刺客の方が処理されていた。
そのせいで、死の直前まで好物のフグを食べ歩いたりと、幸福な老後を送っていた。
彼の意志は、彼が立ち上げた政党・政友会の西園寺公望、星亨、尾崎行雄、原敬らが受け継いでくれる事になっていた。
欧州は不穏、という情報は得ていたが、伊藤は結局何の不安も残さずに天寿を全うした。
死後、国葬を執り行われる事に決まった。
その決定があった日、サラエボ事件が発生する。
日本はイギリスと日英同盟を結んでいる。
そして朝鮮半島や中国大陸への野心を隠していない。
大韓帝国の高宗は、今や味方を失い孤独であった。
そこにドイツが付け込んだ。
「青島のドイツ軍が協力するから、済州島、江華島、鬱陵島を奪い返さないか?」
高宗は一も二も無くこれに乗った。
ここで事が起こるまで隠忍自重していたら良かった。
彼はロシア大使館に駆け込み、己の保護とロシア軍の南下を欲した。
要は日露戦争前の認識で、ロシアと日本を食い合わせようとしたのだ。
高宗の計算では、ドイツとロシアが味方になるなら、革命後で中立と言っている中華民国袁世凱総統も立つだろう。
そうすれば日本は簡単に叩き出せる。
アメリカは先日は自分たちの味方をしたから、事後報告でも良いだろう。
事態が変わっている事に気付いたのは、高宗がロシア大使館員によって軟禁されてからだった。
今やロシアと日本は同盟国同然。
ロシアがヨーロッパで戦う以上、極東の守りは日本にして貰いたい。
高宗は今や日露の仲を裂く邪魔者であった。
ロシアから連絡を受けた大韓帝国の李完用首相は、高宗を強制的に上皇にし、子を立てて純宗とした。
そして江華島に駐留する日本軍に連絡を入れる。
これを待っていたかのように陸軍は首都に進駐する。
高宗の一派はアメリカ大使館に駆け込むが、今回ばかりはアメリカも何も出来ない。
ドイツと組んで日本を追い出す、そんなの日本が怒るのは当たり前だ。
しかもアメリカは日本と共に大韓帝国の指導権を持っている。
日本を追い出すという事は、共同管理者であるアメリカをも追い出す事だ。
仮に日本だけを追い出すというなら、何故一言先に言ってくれなかったのか?
こうして大韓帝国は日本軍によって無血占領された。
そして大韓帝国を唆して日本を攻撃しようとしたドイツに対し、日本は宣戦布告をする。
日英同盟上、イギリスもこれを認め、青島のドイツ租借地攻略と東シナ海からインド洋にかけての警備を依頼する。
担当範囲的に一部ハワイ王国・ホノルル幕府と重なる部分も出来た。
こうしてホノルル幕府と大日本帝国は、同じ陣営で大戦を戦う事になった。
中華民国の名前が出ましたが、孫文はこのハワイでは革命活動をしていません。
一時期確かに移住しましたが、その後ハワイの警察(?)が、疑わしきは斬れ、を行動原則にし出したので、革命運動家も無政府主義者も味噌もクソも一緒にされるので、逃げ出しました。
このハワイは、無政府主義者もですが、共産主義者も革命運動家もテロリストも居づらい国です。
ある意味、江戸時代の薩摩藩と同じレベルの外敵遮断態勢を敷いています。




