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時は移ろい行く

 1908年10月、長く旧幕府系日系人の指導者をして来た榎本武揚が臨終の時を迎えようとしていた。

「まさか、君に看取られようとはね」

 傍らには講武館以来の盟友伊庭八郎がいる。

 伊庭は「そろそろ足腰と勘が鈍った剣術使いが部隊を率いるべきではない」と退役し、家業の心形刀流道場を開いて、人種を問わずハワイ人たちに教えていた。

 そういう生活をしているせいか、

「君は死ぬ気配が無いね」

 と榎本には言われていた。

「何を言ってるんだい、俺いらだってもうすぐだろうよ」

 と血色の良い顔で返す。


「八郎君、俺はきちんと生きて来られたかな?」

「後悔する事でも有るのか?」

「俺は多くの幕臣たちに、要らぬ苦労をかけてしまったのではないか?

 蝦夷共和国の時も、ハワイ移住も、そして外交交渉も」

「他の奴らの事は他の奴らに聞けよ。

 だけど、俺いらは楽しかったぜ。

 あんたについて、満足いくまで戦って、そして今は家業で食ってるんだ。

 聞きたいのは、あんた自身の後悔だよ」

「俺自身の後悔か……」

 榎本は蝦夷共和国から今迄を思い返した。

 後悔は多い。

 折角の蝦夷地制圧の後で、無駄に「開陽丸」を座礁させてしまった事。

 アメリカとの交渉を優先させる余り、未遂だが土方歳三を謀殺しようとした事。

 何度か外交に当たったが、完勝というのは無い事。

 彼が揃えた艦隊は意外に使い勝手が悪かった事。

 思い返せば結構有った。

 それを愚痴っぽく言ってみる。

 伊庭八郎は土方歳三謀殺未遂の件は初耳で、驚いていた。

 だがそれら全てを聞いて

「では聞くが、代わりに俺や南輔様(徳川定敬)だったら失敗しなかったと思うかい?」

 榎本はしばし考え

「海軍の事とか知らんだろ?

 失敗以前の問題じゃないかな。

 俺が思うのは、立見君や出羽君だったらって事でね」

「おいおいおいおい、笑わせてくれるなあ。

 立見君は確かに名将だが、それこそ海軍の事は知らんだろ。

 出羽君はあんたが悩み、決断をしていた時期には、まだ洟垂れ小僧だったんだぜ。

 あの時期に俺たちが持ち得た最後の切り札があんただったんだ。

 失敗したって思うのは勝手だが、他の奴らじゃ失敗にすら辿り着けねえ。

 胸張って死ねよ」

「そうか、そうだな。

 分かった、胸張って死ぬよ」

「おいおい、今のは言葉の綾だぞ。

 まだ死ぬんじゃねえぞ」


 こういうやり取りを何度も繰り返し、ついに10月26日、榎本武揚は永眠した。

 伊庭八郎は榎本武揚が零した愚痴、悩み、失敗、後悔を誰にも漏らさなかった。

 後世知られたのは、誰にも公開する気無しに書いた日記を、子孫が勝手に他人に見せたからである。


 1908年の死別はまだ続く。

 第9代ハワイ王となる筈の、王位継承権第一位カハレポウリが急病で死亡したのだ。

 リリウオカラニ女王は、養女のカイウラニ王女に続き、また王位継承者を失った。

 いっそ征夷大将軍ジョナ・クヒオを王位継承者に戻し、将軍職は徳川定敬の実子・松平定唐にという意見も出た。

 リリウオカラニ自身がその気だったが、カハレポウリには子がいる為、クヒオ継承はその子に万が一の事在らば、となった。




 翌年1909年、榎本武揚の腹心で、海軍を率いた荒井郁之助が病死した。

 飲水の病(糖尿病)が悪化してのものだった。

 1900年には新保(ニホア)城代職を解かれる。

 絶海の孤島だろうと「城代」で簡易基地ながら「司令官」を兼任する為、退役が近い幕臣たちが成りたがった。

 中には称号だけで赴任して来ない者も居たが、それでも問題は無い。

 1905年までは大学頭である荒井郁之助がニホア島に常駐していたからだ。

 学問に専念しての彼は、極めて温厚な自分として知られた。

 気象観測所や灯台、海洋研究所が設置されたが、そこから上がる報告書を決して訂正する事なく、

「至極結構」

 と言って許可していた。

 部下からは『至極結構』殿と呼ばれてもいたが、ニコニコしていた。

 1905年に大学頭も解かれ、隠居としてオアフ島に帰還、様々な学校に顔を出して勉強する日々を送る。

 しかしオアフ島はフルーツ天国であり、特に1901年にハサウェイ・ドールを頼ってやって来たジェームズ・ドールという男が開業したフルーツ・カンパニーのパイナップルやマンゴーを食べ、コナの松平家で作られるコーヒーを好むが、これにも砂糖を加えまくって飲んでいたのが命取りとなった。


 ドール・カンパニーの開業は、ひと悶着あった。

 何せ2年前まで戦争をしていたアメリカから、「王国の裏切り者」サンフォード・ドールの従兄弟が未知の作物を栽培したいとやって来たのだから。

 多くの者が反対する中、荒井郁之助は

「サンフォード・ドールの従兄弟って事は、ジョージ・ハサウェイ・ドール中将の従兄弟でもある」

 と言って黙らせた。

 またリリウオカラニ女王は

「砂糖一辺倒のハワイ王国の経済は不健全です。

 確かに金融や観光、カジノ等の比率を増やしていますが、同様に作物は多い方が良い」

 と賛意を示し、仇敵の従兄弟かつ忠臣の従兄弟のジェームズ・ドールに莫大な下賜金を渡して開業させた。

 ジェームズ・ドールはこれに感謝し、女王や荒井郁之助には定期的にフルーツを贈っていた。

 周囲はその行為は賞賛するものの、

「あのシロップとか言う甘い汁に、甘い果実を漬け込んだものは、飲水の病には宜しく無いのではなかろうか?」

 と不安視していた。

 ではあるが、荒井は73歳没で、一般的には大往生の部類と言えた。




 1909年、大韓帝国の李容九ら一進会が日本に対し「対等での併合」を求める声明書を出す。

 日本の朝野は賛成し、これを受け容れようとした。

 これを拒んだのが伊藤博文である。

 伊藤と帝以外の要人は全て併合賛成派で、反対派は押されている。

 そこで伊藤は奇想天外な手に打って出た。

 反対派で反日派の皇帝高宗と会い、併合反対で密かに手を組む。

 「ハーグ二重使節事件」で米英日に恥をかかせた高宗だが、伊藤はあえて彼の退位には反対した。

 それが活きたようで、伊藤と高宗はすんなりと反併合で協力する。

 伊藤は更に渡米し、高宗護衛の為の米軍派遣を求めた。

 アメリカはいまだフィリピンで戦争中である。

 モロ族はいまだに抵抗を続けていた。

 更にハワイとの戦争で自軍指揮官の質の悪さを思い知ったアメリカ軍は、現在将校の教育中であり、手が足りないと伊藤に答える。

 アメリカ反帝国主義連盟とも接触したが、クリーブランド元大統領は前年1908年に死亡、代表のチャールズ・フランシス・アダムズ(二代目大統領アダムズの子孫)には軍隊を動かす力は無い。

 そこでアメリカは、アメリカとハワイの連合軍を派遣する案を出した。

 アメリカのフィリピン派遣軍は真珠湾を拠点としている為、そこから兵を抽出するが、それだけでは不足する為、ハワイ王国にも協力を要請したい、と。

 そして長い事旧幕府を嫌い、或いは軽視して来た伊藤博文は、初めてホノルル幕府と共闘する。

 帰国途中にハワイに寄るとリリウオカラニ女王に謁見し、すぐに征夷大将軍ジョナ・クヒオと会談をした。

 高宗の日本人嫌いもあり、ホノルル幕府は併合反対の声明を出すに留め、軍はアシュフォード将軍が率いて出撃する事になった。

 但し率いるのはハワイの常備軍である幕府陸軍の2個大隊(見た目はハワイ人)だったが。


 翌1910年、アメリカ・イギリス・ハワイが「日本の韓国併合を認めない」という声明を発表。

 ロシアとフランス、ドイツ、イタリアもこれに続いた。

 そして併合反対派の高宗護衛の為に、アメリカ・ハワイ連合軍が首都開城と漢城に入った。

 初代韓国統監の寺内正毅は抗議をするも、日本国内では帝を説得した伊藤博文が次第に形勢を逆転し、一進会の声明を、受諾までは拒否出来なかったが、審議を十年先延ばしさせる事に成功した。

 これによって伊藤は、日本・韓国の一進会双方から暗殺者を送られる事になる。

 ホノルル幕府はこれにも手を打った。


「まさか、吾輩が新撰組に護られる日が来ようとは思いもしなかった」

 眼前の杉村義衛(元二番組長・永倉新八)、藤田五郎(元三番組長・斎藤一)を見て皮肉そうに笑った。

「こんな年寄の命、もう惜しくは無いが、吾輩が死ぬ事で併合派を勢いづかせる事になる。

 また、天が吾輩を誅した、併合は天命じゃと言う者も必ず現れよう」

「天誅は閣下がその昔、唱えていた言葉ですな。

 今は言われる側ですか、皮肉ですなあ」

 相変わらずの毒舌は藤田五郎である。

「まあ閣下には、天寿を全うしていただきます。

 それより後は、我々ももう年ですので、どうにもなりますまい」

 杉村義衛がそう言うと伊藤は

「吾輩とて、死んだ後の事までは責任持てんよ。

 生きた者にどうにかして貰うしかない。

 だが、吾輩の目が黒い内は日本を誤った方には進ません」

 と答えた。


 この1910年一進会事件以降、ハワイへの韓国系移民が急増した。

 ハワイ王国にまた新しい人民が入り込む。

 彼等は新世代日系人と頻繁に喧嘩をする一方、髷を結い、刀を差したホノルル幕府に対しては喧嘩を売ろうとはしなかった。




 そしてこの1911年、幕末から旧幕臣たちを支えた最後の大物、大鳥圭介が食道癌の為に死去した。

 死亡の前、まだ喋れた時期に陸軍司令官梅沢道治と語り合ったという。


「僕はね、どうも戦が下手だったようだ。

 いや、戦闘指揮そのものは自信が有ったんだが、敵に策を読まれない戦術面がダメだったねえ。

 でもその分、道路整備やそれを使った補給なんかは得意だったよ」

「はい、大鳥閣下には幾多の戦場で、先を読む補給で何度も助けていただきました」

「昔の戦争は良かったねえ。

 実戦部隊を離れ、事務方となり、それも暇になって学者の真似事始めたんだけど、そうするようになって余計にそう思うよ」

「まあ、良かったかと言われると、それは何とも……。

 厳しい戦は何度もありましたので」

「あんなの厳しい内に入らない、近い内にそう思うようになるよ」

「と、仰いますと?」

「学者の真似事して色々調べてみて、何となく先が見えて来た。

 次の戦争は悲惨なものになるだろう。

 僕たちは兵力が足りないから、ミトライユーズから最新のマキシムまで、随分と機関銃の世話になっただろう?

 次の戦争はそれが当たり前になる。

 僕らみたいな数百の兵が機関銃で戦うのではなく、数万の兵が大量の機関銃で戦う事になる」

 聞いていて梅沢はゾッとした。

 機関銃の威力を彼は十分に知っている。

「大砲もねえ、あの可愛い四斤半山砲みたいなのじゃなくなるよ。

 海軍を見てれば砲の進化は凄まじい。

 陸軍が砲の進化で遅れを取ったのは、持ち運ぶ為に軽くする必要があったからだ。

 でも、もうその足枷は無くなった。

 日露戦争で、厳冬期の満州でのロシア軍との戦闘、あの僕たちが尊敬するナポレオン1世を破った冬のロシア軍を食い止められたのは、さっき言った機関銃と、もう一つは重砲だ。

 沿岸設置の28サンチ砲を野戦に使って成果を上げた。

 となると、各国とも野戦重砲として、持ち運ぶという制約の無い、大型で強力な砲を開発して投入するだろう。

 そんな中に、『エラン・ヴィタール』だったか、あんなんで突撃なんて自殺行為だよ」

「もっともです」

 エラン・ヴィタールについては梅沢道治も少なからぬ疑問を持っていたので、彼も頷く。

「もしねえ、幕府がそんな戦争に巻き込まれた時は、兵士を生かして帰す方に頭を使いなよ。

 僕はもうすぐ死ぬから、これ遺言ね」

「縁起でも無い事を仰いますな」

「あと、そこの本は君にあげるよ。

 僕が翻訳したものだ」

 要塞築城法、砲兵の新しい運用法からダムの築き方、西洋の人士録等多彩な翻訳本が棚に積まれていた。

「活かすも殺すも、これから先を生きる者に任せたよ。

 僕はここまでだ。

 あとは死ぬまで、これがあれば十分。

 どうも僕は、こっちの稼業の方が性に合ってたみたいだね、今更だけど」

 そう言って、現在も翻訳中の本と辞書を見せた。


 大鳥圭介は6月15日、78歳で永眠した。

 その傍らには、最後まで読んでいた本が置いてあった。

 ドイツ軍人ヴィルヘルム・レオポルト・コルマール・フォン・デア・ゴルツの著作「国民皆兵論」であった。

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