大御所徳川定敬薨去
1908年は別れの年となる。
前年から身体の調子を崩していた徳川定敬が、ついに床を離れられなくなった。
彼は命じてイオラニ宮殿を辞し、かつてのホノルル桑名藩邸に移る。
リリウオカラニ女王の養子となっていた松平定唐が古奈松平家を相続し、実父を藩邸で看病していた。
大御所の死は避けられない、そう見た王国政府も幕府も、征夷大将軍ジョナ・クヒオの後継者を求め始める。
クヒオ王子はエリザベス・カハヌ・カウワイ・カラニアナオーレ・ウッズという女性と、1896年、つまり征夷大将軍襲封後に結婚していた。
しかし、2人の間に子は産まれていない。
側室を奨めたところ、クヒオは激怒してしまった。
となると養子しか無い。
王族間で養子を取り合うのは、ハワイの風習であるから、これは問題が無い筈だった。
しかしクヒオは、自身の養子となった者は、その後実家に帰したとしても「将軍」の継承権が発生し、持ち上げられて、場合によっては内乱の当事者となり兼ねない事を見抜いていた。
クヒオは簡単に養子を迎えようとしない。
大御所徳川定敬と征夷大将軍ジョナ・クヒオとの間では、暗黙の了解がある。
もう幕府は必要無いというものだ。
クヒオが死ぬと、後継者の居ない幕府は「大政奉還」し、王国が再び軍事と経済を一元管理する。
そうしないと、軍閥や領主が各地にいる国では、20世紀という時代は生き残れないだろう。
しかし、リリウオカラニ女王がそれを認めなかった。
彼女は強引にパール市国なんてものを作り、そこが真珠湾を貸し出す事で「パール市国を監視しなさい」と、幕府解散を封じてしまった。
リリウオカラニには、いずれパール市国はアメリカ合衆国への参加を申し出て、アメリカ合衆国海外領パール市となるとこ迄予想している。
もうアメリカにとって、面倒臭いハワイ全土は不要だ。
迂闊に併合すると、危険物を体内に入れる事になりかねない。
パンドラの箱で必要なのは希望だけで、あとの災いにはお引き取り願おう。
ハワイ国内に小なりと言えアメリカ領が出来る。
もう全土占領に来る事は無いと分かるが、それでも尚更幕府は夷狄監視機構として解散出来なくなった。
(もっともそれは、リリウオカラニの予想よりずっと後の事になった)
リリウオカラニの意志とは別に、解散出来ない理由も出来た。
幕府が立ち上がり、旗本・御家人が代替わりしたが、米布戦争で当主が討ち死にして弟が継いだり、養子を迎えたり、日系三世になる当主となったりで、「御家」というのが根付いてしまった。
最初の世代ならともかく、三世代目に入った家を、用済みだからと放り出す事は出来ない。
明治維新のように反発覚悟でやれば良いかもしれないが、そもそも蝦夷共和国に参加した者たちは、負けて居場所を無くした幕臣に新天地を、このままでは負けた者がかわいそうだという心を持っていた。
その生き残りたちは、自分たちの為に命を捧げた旗本・御家人に家を潰す冷たさを持っていない。
代替わりした日系人に幕府への忠誠を持たせる、遠い日本から徳川慶喜が打った策、それは戦争を勝たせはしたが、解散もさせなくする足枷にもなった。
(あの方はそれすら計算したのだろうか?)
聞いてもまともには答えてくれないだろう。
そこで徳川定敬は次善の手を打った。
「クヒオ殿、三代将軍を決めましょう」
「幕府解散、王国政府に政治機構一本化が望ましいのですが、やむを得ないですね。
それで大御所様には誰か心当たりが有りますか?」
「ジョン・オーウェン・アイモク・ドミニスJr.でどうだ」
それは、リリウオカラニ女王の亡き夫、ジョン・オーウェン・ドミニスが女中に産ませた不義の子の名である。
リリウオカラニは夫に不名誉な噂が立たないよう、この子を養子にした。
「大御所様、ジョン・ドミニスJr.には政治的能力も軍人としての教育も無く、ただの王族、しかも相当格下の者に過ぎません。
幕府という組織を任せられません。
大御所様の子の定唐殿がよろしいと存じます」
「親が言うのも恥ずかしいが、あれには政治の才がある。
領民にも慕われておるそうだし、最近ではコナ・コーヒーなる農作物に力を入れ、中々儲けておるそうじゃ」
「三代将軍に適任ですな」
「いや、駄目だ。
あれでは王家の影を薄くしてしまう。
おそらくクヒオ殿が死ぬ頃までには、世界も落ち着こう。
その時、あまり優秀な軍閥の長がおると、それが火種となりかねない。
外に向かわぬ火は、内を焼くぞ」
「定唐殿に謀叛の気が有ると仰せか?」
「あやつに謀叛の気が有ろうが無かろうが同じ事だ。
旗本・御家人たちが夢を見てしまうだろう」
「では、ドミニスJr.を推されるのは、無能だからですか?」
「辛辣だな……。
だが、女王陛下の養子なのが良い。
国王にはなれぬ身だが、征夷大将軍にはなれよう。
日本でも帝の子を迎えた親王将軍の時代があった。
形はそれで良かろう」
定敬とクヒオの話し合いで、如何に負担の無い幕府にするか、如何に幕臣たちを食わせていくかを決めていった。
幕府は、軍隊という面では意外に有用だ。
幕府が自ら金を稼ぎ、農作物を管理し、兵を出す幕臣たちに秩禄として出す。
ハワイ王国は国防予算という面では、出費が少ない。
アシュフォード将軍ら総勢3千人程度の兵士に給料を払っているだけで、その他陸海軍1万4千人近くは幕府が養っている。
残るは酋長軍で、これは完全に村落社会の自弁である。
一番の出費は海軍の装備だが、艦はイギリスやフランスが貸し出してくれる事で賄える。
一世代前の軍艦、小型艦しか保有出来ないが、ハワイくらいの小国には丁度良い。
徴兵は、第一種非常事態発令という、いざという時には行えるが、普段の軍事は幕府が手持ちの兵力でどうにかする。
ハワイ王国は平常時はホノルル幕府に軍事費負担を押し付け、経済国家としてやっていく。
どうもこの形が一番負担が少ないようだ。
政治は、いずれ老中・若年寄・五手掛(大目付・目付・勘定奉行・寺社奉行・ホノルル町奉行)による武家行政を、王国政府や議会に返上する。
これらは内戦状態で戒厳令下のような状態に対するもので、不穏分子が一掃された今は、夜間の辻木戸とか山間部の関所とか教会も含めた宗教施設への立ち入り権とかは徐々に無くしていこう。
軍事部門に集中し、文官の生活の面倒は見るが、勤務は王国政府に一元化させよう。
役所が多過ぎると効率が悪い。
リリウオカラニ女王、幕府のビショップ老中、王国政府のナワフ首相、アシュフォード将軍と相談して大体決めたのは、日本の朝廷と政府の在り方に幕府を挟んだキメラ型であった。
王族と国王はイギリス式に「君臨すれども統治せず」とする。
そして首都はホノルルからは離し、文化振興や宗教行事、裏経済の束ね役等を行う。
政府は国王から委任された形で国家運営を行う。
幕府はその中から軍事部門を委託された形で分離し、武家と呼ばれる兵士専門の家を養い、そこの兵を常備軍として使う。
幕府は客観的に見れば一番クーデターを起こし、国を奪える力を持つから、ここの長は王族を置く。
また、管理運営には議会からも人を派遣する。
代わりに幕府の代表者は常任の上院議員として、意思疎通を図る。
軍事、経済、外交は特に密接に連携を取る。
徳川定敬は死の間際まで、死後の体制についての相談で多忙であった。
そしてついに1908年7月12日、永眠する。
享年61歳、まだ若いと言えた。
定敬は全てを部下に任せ、神輿として君臨するだけに留めていたが、それでも戦時には引かず、平時は独裁に走らず、無欲で嫉妬心が少ない、家臣としては働きやすい君主であった。
アシュフォードのような民主主義が至上、君主制は王や貴族のみが肥え太る唾棄すべき体制と思っていた者から見ても、定敬やその兄の容保は尊敬に値した。
生活は質素で、午前中に政治、午後からは軍事訓練、食事は魚以外の肉食をせず、普段着は穴が開いても修繕したものを着ている。
多くの戦死者が出た日には食事をせずに服喪し、自然災害が起きれば私費を投じる。
そのような人物だけに、「最大の失敗」と呼ばれるものが死後に発生した。
「殉死」を禁止しなかった事である。
おそらく近代的なものへの改革に忙しく、前時代的な作法には頭が回らなかったのだろう。
1892年の内戦、1898年の戦争を生き抜いた老武士たちの半数が相談して、ここで殉死した。
そのような風習を知らなかったハワイ人の妻子たちはパニックに陥った。
武士たちは自分が死ぬ時に何も語りたがらない為、思わせぶりな事を言った翌日には腹を切って死んでいたのである。
またしても寺社大忙し。
松平容大と林忠崇は後始末で大変であり、容大はあの世の父に向かい
(戦の後始末もそうですが、大御所様や将軍家の死後にもここまで忙しい後始末の日々が来るとは思ってもみませんでした。
家督相続や生前に遡っての褒章、寺院の手配等でいっぱいいっぱいです)
そう愚痴って、その夜夢枕に立った容保に叱られたそうだ。
徳川定敬は国葬となり、亡骸はオアフ東照宮に収められた。
最近は没交渉になっていたが、日本の帝にもその死を報告する。
帝からは神号「南輔権現」を贈られた。
以降彼は南輔様と呼ばれ、徳川再再興の祖として崇め奉られる事となる。
幕府系日系人にとっての「神」となり、以降彼等の忠誠の軸となる。
第二代将軍は既に存在している為、第三代将軍となる世子としてジョン・ドミニスJr.が発表された。
チャールズ・ビショップは老中を退任した。
幕府も新体制に向かって動き始める。
こうして一つの時代が終わった。
だが、1908年はまだ終わっていない。
一度は一武士に身を落とした定敬が盟主と仰いだ元蝦夷共和国総裁榎本武揚にも最期の日が訪れようとしていた。




