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黒溝台・対馬沖・そしてポーツマス

 1904年、ハワイ王国及びホノルル幕府は、戦いを固唾を飲んで見守っていた。

 日露戦争ではない。

 アメリカ合衆国選挙である。

 ジョージ・デューイはエミリオ・アギナルドの降伏とフィリピン共和国の解散、米比戦争終結を見届けて任期満了を以っての政界引退を発表した。

 これに伴い民主党はアルトン・パーカーを大統領選に出馬させる。

 それに対する共和党候補はウィリアム・ハワード・タフトである。

 タフトはセオドア・ルーズベルトに近い政治信条であった。

 イェール大卒業生で、アイビーリーグ卒業生で編制されたルーズベルトのラフ・ライダーズに入っていてもおかしくは無かった。

 その前に政府は、彼をフィリピンの民生長官として派遣していた。

 まかり間違えば、彼もハワイ島かカウアイ島で骸となっていたかもしれない。


 結果は共和党の勝利で、第28代大統領タフトが誕生した。

 来年、1905年は棚上げしていた真珠湾独占使用協定の更新年に当たる。

 ウッドロー・ウィルソンなら気心も知れているが、タフト政権ではどうなるか不安であった。




 明けて1905年、日露戦争で動きが有った。

 これまで連戦連勝を続けていた日本の満州軍が、初めて敗北を喫した。

 その戦いを「黒溝台会戦」と言う。


 日露両軍は、東西方向に大きく翼を広げたような格好で陣地を構築して睨み合っていた。

 そこにヨーロッパから派遣されたグリッペンベルク大将が穴を見つける。

 最左翼の黒溝台・沈旦堡付近を守るのは騎兵1個旅団で、極めて脆弱であった。

 グリッペンベルクは、彼の率いるロシア第2軍約9万6千人を投入する。

 日本の満州軍は、この攻勢を大規模な威力偵察、2万人規模と勘違いした。

 そこで阪井重季中将率いる第八師団を増援として送った。

 この第八師団参謀長は由比光衛と言って、阪井と同じ土佐出身である。

 同郷同士が率いるこの師団は、師団長と参謀長の関係が良好だった。

 由比参謀長は、一度黒溝台を明け渡し、再度奪還するという作戦を立案する。

 それを実行したが、ロシア軍は由比の思ったようには動かなかった。

 ロシア軍は陣地を占領後、勢いを駆って突出し、そこを待ち構えていた第八師団で半包囲殲滅し、黒溝台を取り戻すのが作戦の骨子であった。

 しかしロシア軍は、黒溝台陣地を占領後、そこを拠点とすべく改築を始め、いつまでも出て来ないロシア軍に反撃をしたところ、逆襲に遭って一転苦境に陥ってしまった。


 この辺りの地理を理解していない上に、4年前の八甲田山雪中行軍の大成功が冬季装備の研究を甘くしていた為、厳寒期の満州で第八師団の兵士はバタバタ倒れた。

(※ 元幕臣の山口鋠氏は、現在ホノルル幕府で陸軍少佐を勤めている)


 ロシア第二軍は第八師団を撃破し、戦線を突破して日本軍の裏に回った。

 日本軍最左翼部隊は完全に孤立した。

 第八師団を突破した穴からロシア第2軍は、半時計回りに旋回し、日本軍第二軍を半包囲しようとしている。

 大騒ぎとなった満州軍司令部で、大山巌元帥が昼寝から目覚め、命令を出す。

「児玉サァ、こいは俺いが直に指揮ば執りもす。

 何個か師団をつけてくいやせ」

 総司令官自らの出撃で日本軍の士気は上がり、第三師団、第五師団を基軸とした大山軍は満州の野でロシア第二軍と激闘する。

 大山の戦闘指揮は流石に名人芸、戊辰戦争以来の年季の入ったものだった。

 少数で倍のロシア軍を翻弄する。

 グリッペンベルクも『中々、(マカーキ)もやるなあ』と内心舌を巻く。

 それでも『クロパトキンが正面から攻めれば、この薄い陣地はひとたまりも無く崩壊する』と、グリッペンベルクは一会戦の勝利のみならず、この野戦軍全てを撃破し、満州の野から日本軍を叩き出せる確信を持っていた。

 満州から日本を追い出したら、次は朝鮮半島だ。

 朝鮮半島から先は、対馬を取るか、北海道を取るか、まあクロパトキンの好きにしたら良い。

(俺があの『退却将軍』に勝利をプレゼントしてやるのだ!)


 そんな中、日本軍にとっては僥倖が起きた。

 ロシア軍司令官クロパトキンが、グリッペンベルクに撤退を命じたのだ。

(何故だ? 奴が一押しすれば日本軍は壊滅する。

 それがあの男に分からん筈は無いだろう?)

 相当な不満であったが、皇帝の代理人たる総司令官の命令には逆らえず、第二軍は撤退して日本軍最左翼の秋山支隊は救われた。

 秋山支隊は騎兵一個旅団主体ながら、早くから機関銃を導入し、工兵と砲兵を使って堅固な陣地を築き、この黒溝台会戦を生き延びた。

 陣地と機関銃の組み合わせの強靭さが、この戦いで世界に知れ渡った。


 日本軍は戦線を突破されただけでなく、1個師団が壊滅状態に追いやられ、死傷者も2万近い。

 押し返されたとは言え、グリッペンベルク軍の損害は1万に届いていない。

 クロパトキンの意味不明な撤退命令が無ければ危うい所であった。

 まさにクロパトキンは日本軍の救世主と言える。


 政治的にライバルであるグリッペンベルクの功績を潰し、怒らせて辞表を叩きつけさせる事に成功したクロパトキンは、一方でグリッペンベルクの構想自体は可とした。

 今度は自分がやってみようと言うのだ。

 そして春を待たずに再度黒溝台・沈旦堡付近に攻勢を掛ける。

 第二次黒溝台会戦である。


 だがこの時、最左翼は騎兵1個旅団相当の秋山支隊では無かった。

 旅順要塞を攻略した乃木希典の第三軍が到着して、ここを守っていたのだった。

 第八師団という予備兵力を失った満州軍は、防御に徹する。

「戦後に少しでも領土を得たい」

 という目的で編制されかけた鴨緑江軍を潰し、第十一師団を乃木の元に戻し、後備第一師団を総予備とする。

 代わりに乃木軍から騎兵第二旅団を抽出し、秋山支隊(騎兵第一旅団主軸)に組み込む。

 黒溝台・沈旦堡の辺りを防御に弱い騎兵に守らせる愚に今更気づき、乃木軍と入れ替えに司令部の予備戦力とした。

 こうして出来た秋山騎兵団を、大山巌と児玉源太郎参謀長は有効活用する。


 黒溝台・沈旦堡に押し寄せるロシア軍の猛攻を、乃木軍はよく耐えた。

 全面的に押してくるロシア軍に、他の日本の野戦軍も苦しんでいる。

 一ヶ月近い陣地戦は、秋山騎兵団のロシア軍兵站撃破によって転機を迎える。

 ロシア軍の右翼(日本軍の左翼)を遥かに遠くから迂回して後背に進出した秋山支隊(2個旅団相当)が鉄道や補給基地を襲撃し、ついに補給部隊に猛攻を加えた時点で、クロパトキンが過剰反応ノイローゼを起こしてしまった。

 全戦線から兵力を抽出し、後方の防御に回してしまった。

 更に、日本軍襲撃の噂の為に奉天にまで後退させていたミシチェンコ騎兵団を出撃させる。

 このバタバタした時期を見逃さず、日本軍は塹壕を出て攻勢に転じた。

 それでもなお耐えていたロシア軍だったが、弱小でしかない後備第一師団を、今度は日本軍右翼の第一軍より更に東方の山岳地帯から奉天方面に動かした時、またしてもクロパトキンが過大評価をし、全軍後退を命じた。

 このクロパトキンの過剰反応の数々が、第二次黒溝台会戦を日本勝利に導いたが、もう日本陸軍に余力は無かった。


 日露戦争そのものの決着は、艦隊決戦で着いた。

 日本海海戦である。

 連合艦隊司令長官東郷平八郎とは、榎本武揚は顔馴染みである。

 強いてハワイ海軍の観戦武官を旗艦「三笠」に乗せて貰っていた。

 海戦後、速報が世界を駆け巡る。

 日本艦隊の大勝利というものだった。

 榎本は詳細を聞きたいとうずうずしていたが、観戦武官より先にロシアの使者が幕府を訪れた。

 かねて依頼していた講和の仲介をして欲しいとの事である。

 榎本武揚は幕府の外国掛老中であり、動かざるを得ない。


 徳川定敬及びリリウオカラニ女王は、「ハーグの恩」を返すべく、ロシア有利なように働けと言う。

 しかし榎本の感情は違う。

「あの男、よくやった。

 この勝利を台無しにするような交渉にしてはならない」

 と、せめて中立で交渉出来るようにしないと。


 榎本の腹案は「こちらもハーグ会議をやれば良い」というものである。

 無論、同じハーグでの会議を行うのではない。

 国際社会というものを動かして、総体として中立、という形に持っていくのだ。


 彼は渡欧し、イギリス、フランス、ドイツにその構想を語る。

 日本と同盟している国、ロシアと同盟している国と思惑は有ったが、日本を勝たせ過ぎず、ロシアの野望も挫くという点で3国の同意を得た。

 最初は伝統的にパリでの講和会議をしようとしたが、紆余曲折あってイギリスはハンプシャー南部、ポーツマス市で会議が行われる事となった。

 1901年に崩御したビクトリア女王の後を継いだエドワード7世に箔をつけさせる目的があったのだ。

 榎本は続いて渡米し、アメリカにも会議参加を働きかける。

 アメリカの目的は中国進出の機会均等と中国市場門戸開放である。

 日本が満州に進出し過ぎるのを好んでもいないし、かと言ってヨーロッパ列強の好きにもさせたくない。

 タフト大統領の指示で、アメリカもまた代表を派遣する事になった。

 なおアメリカでは、帝国主義に反対するアンドリュー・カーネギーらの一派が日本国債を大量購入していた。

 他にユダヤ系米資本家も日本国債を購入し、軍費の面で日本を支えていた。

 ……ロシアに満州を奪われたくないというのが一番の理由である。

 こうした層が、日本を勝利させて、投じた国債を紙屑にさせないよう、タフト大統領に働きかけたのも大きい。

 またアメリカ自体も、スールー戦争こそまだ続いているが、米比戦争終結で余裕が出来ていた。


 こうして英仏独米それにイタリアが加わり、ポーツマスでの講和会議に日本とロシアを招待する。

 徳川定敬は、義父を通じて帝を動かすつもりだったが、満州軍参謀長の児玉源太郎が

「もうここらが限度じゃ、早く戦を止める算段をつけろ!」

 と東京に戻って政府に発破をかけた為、願っても無い呼び掛けに飛びついた。

 ロシアは、一部皇帝側近が戦争継続を訴えたものの、国内で革命騒動が起きていた為、ウィッテ伯が皇帝を説得に成功、会議参加を受諾した。


 こうしてポーツマス講和会議が始まった。

おまけの話。

八甲田山雪中行軍は、弘前第31連隊、青森第5連隊ともに順調に進んだ。

青森第5連隊の指揮を執る神成大尉は、地元住民を道案内として雇う際、

「今日は山の神の日だから、山に入ってはならない」

と止められる。

部下の中には迷信だと罵る声や、コンパスがあれば大丈夫だという意見も出る。

だが、雪中行軍隊中最高位の将校である神成大尉は、地元住民の言う事に従う事にした。

長期間、長距離を行軍する第31連隊に対抗し、第5連隊は荷物量や人員を増やしての行軍となった為、万全を期す必要があった。

それが功を奏した。


異常な寒気が八甲田山を襲った。


この寒気をやり過ごした第5連隊は、住民の案内で無事に田代の温泉に辿り着いた。

この地特有の雪で歩くのが困難だったり、凍傷になる靴の改良等が報告として上げられた。


軍の首脳部からは

「最も厳しい環境で試さずしてどうする?

異常な寒気団が来ていたならば、これ幸いとその日に行軍すれば丁度良かったではないか」

という意見も出た。


果たして厳寒期の満州では、日本軍の装備は寒さ対策で不満足なものだった。

第5連隊、第31連隊ともに第一次黒溝台会戦に投入され、雪中行軍を成功させた兵士たちはほとんど全てがそこで戦死した。


悲劇を経験していた方がきちんと対策したのか、それは何とも判断し難いものであった。


(幕臣の子の山口少佐がハワイに移住していて、着いて来なかった八甲田山雪中行軍、成功してればこんな感じだったかもしれません)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 八甲田山の悲劇があったからこそ、防寒を怠ることの恐ろしさ、防寒装備の徹底が強く意識されたので それがなかったらこうなっちゃうよなあ、というところはものすごく説得力があります [一言] 犠牲…
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