日露戦争勃発
ロサンゼルス講和承和で、アメリカのフィリピンでの戦争は軌道に乗った。
サンフランシスコ~真珠湾~グアム島~フィリピンという輸送路が確保された。
10万人に上る増援部隊と物資がフィリピンに送られる。
アーサー・マッカーサーJr.は
「ふん、やっとハワイ問題を解決したか。
あれのせいで3年は時間を無駄に過ごしてしまった」
と言いながらも、増援を歓迎していた。
果たして彼は1902年には劇的に攻勢に成功し、ルソン島はイサベラ州以外を制圧した。
アギナルドはイザベラ州に拠って、ゲリラ戦に転換して戦い続けている。
またボホール島、サマール島をも制圧し、スールー戦争はミンダナオ島に移った。
このフィリピンの不幸を糧に、ハワイは経済成長を続けていた。
戦後復興が始まり、ホノルルとラハイナは新しい都市に生まれ変わっていく。
また湿地で王族の別荘しかなかったワイキキで、排水運河の掘削が始まった。
ここはリゾート地として開発される予定である。
またアメリカが独占使用している真珠湾も、更に優秀な港湾都市に改造されつつあった。
リリウオカラニ女王の意向により軍港化はしていないが、軍艦も直せる大型ドックやクレーンがある以上、砲台や要塞の有る無しは無関係である。
港湾機能が回復するにつれ、アメリカとの貿易量も増大する。
九十九大隊も解散となり、日系人は再びホノルル幕府とは違う社会に帰っていった。
「次に我々が集まる時は、第100歩兵大隊だな」
と冗談を飛ばしながら、実は自分たちって強かったんだなという実感を胸に自宅に帰る。
雇用主の態度も変わっていた。
素直で従順でも、こいつらもサムライと同じ日本人、怒らせたら危険だ。
しかし、ちゃんとした待遇であれば、喜んで働く得難い労働力でもある。
以前に増して重労働を課すが、その分休暇も給与も上げるようになった。
古代ギリシャではないが、やはり戦争で活躍すると、その階層の発言力は増すのが世の常である。
ハーグ宣言はまさに絶妙なタイミングで得た外交的勝利であった。
ハーグ会議の2ヶ月ちょっと後、南アフリカで第二次ボーア戦争が発生した。
本来、好意は好意として別に「ハワイ存続協力への見返り」を要求するイギリスは、現在戦争で手が離せない。
ボーア戦争が早く始まっていたなら、イギリスはハーグでハワイの肩を持つどころではなかった。
今は火薬の原料を輸入する為、ハワイ王国に投資をして、新たに領有したジャービス島と、イギリス系ハワイ人が所有するパルミラ環礁でのグアノ採掘会社を立ち上げさせている。
イギリスの金で採掘会社を作り、それをイギリスに売り、ハワイ諸島から離れた地である為輸送する船の使用料もイギリスが負担するという好条件だ。
幸運としか言えない。
もう一ヶ国、協力国のフランスであるが、ここも実は今はハワイに余計な事を言っていられない状態である。
米布戦争の最中、アフリカ大陸でイギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した。
ファショダ事件である。
この遠隔地で起きた事件に際し、小型艦主体のフランス海軍は、航続距離の長い大型艦を持つイギリス海軍の前に、戦う以前に戦場に居る事も無く、外交的に一方的に譲歩をし続ける事になった。
「青年学派」一辺倒な海軍の限界が露呈したのだ。
そして気づくと、大型装甲艦(戦艦や装甲巡洋艦)の配備数において、イギリスに遥かに後れを取り、アメリカ、ドイツ、ロシア、そして日本に抜かされそうな状態だった。
フランスは方針を改め、イギリスと急接近する。
そして海軍は大型艦の建造を始めた。
ホノルル幕府の中型艦の大改装は、ハワイでは出来ない。
そこでフランスの造船所での作業を求められたが、その空きが無い。
そんなこんなで、見返りを求める強気な外交が出来ずにいた。
(ハーグ会議でのフランスの影は薄い)
フランスとイギリスの悩みの種は極東にも有った。
イギリスはロシアの南下政策を嫌っている。
最近ロシアは、満州に軍を入れ、旅順港の要塞を強化し、ウラジオストクと併せて大艦隊である太平洋艦隊を配備し始めた。
イギリスはこれに対抗したいが、ボーア戦争で手が回らない。
そこで新興の大日本帝国と日英同盟を結び、対露の最前線に立たせる事とした。
一方フランスだが、ここの主敵はドイツ帝国である。
一時的に手を組んだり、外交で歩調を合わせたりもするが、基本的には敵である。
これを挟み撃ちにしたい露仏同盟を締結していた。
しかしそのロシアのニコライ2世が、従兄弟であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の
「君は太平洋を制し給え、余は大西洋を制す」
という言葉に酔ったのか、極東方面に力を入れ始めた。
ドイツを挟み撃ちにする軍事力が極東に配置されたら意味が無い。
更にニコライ2世の伯父アレクセーエフ大公が、対日楽観論を唱え、
「満州は乳と真珠の流れる土地である」
と言っているのも大きい。
日本は朝鮮半島を防御陣地とし、満州からロシアを追い払いたい。
これは国防上の恐怖からである。
何度も交渉したが、
「満州は譲れないが、朝鮮半島については話し合っても良い。
何なら両国で分割しようか?」
という態度が「一番友好的」なものだった。
両国関係は急速に悪化していく。
アメリカのフィリピンでの戦争は長引いていた。
アギナルド政権、スールー王国を倒し、マッカーサー将軍が勝利宣言を出すのは1904年以降にずれ込みそうだ。
日本はアメリカに、もしもロシアとの手切れで戦争になったならば、講和会議の仲介を頼みたいという使者を送ったが、アメリカの返事は「そんな余裕は無い」であった。
ハーバード大学卒業の学歴を持つ金子賢太郎が使者としてアメリカを訪れていたが、彼は旧知のセオドア・ルーズベルト他、同窓生が多数、既にこの世に居ない事を知って愕然とする。
しかも彼等は、同じ日本人によって殺されたという。
表面こそ穏やかだが、チクチク厭味を言われる。
ある知人は完全に壊れていて、食事用のナイフですら「ウリエルが……」とか言って脅えている。
アメリカへの仲介工作は失敗し、金子は「ホノルル幕府とか、もっと早くに日本が潰しておけば良かったんだ」と恨み言を口にしながら帰国した。
「恐露病」と馬鹿にされる程、ロシアとの戦争を恐れている伊藤博文も、いざという時の講和の仲介役であるアメリカを使えなくしたホノルル幕府を憎んだ。
「大村卿の言った事は正しかった。
もう問題有るまいと甘く見ず、全力で潰しておけば良かった……」
仲介の確約の無いまま、結局日本はロシアとの開戦に踏み切る。
1904年2月8日であった。
(※確約はまだだが、アメリカ、イタリア、オランダ、スイス等に依頼はかけている)
日露開戦直後、ホノルルに珍客が現れる。
そのロシア人は、大君徳川定敬への目通りを申し出た。
修復なったイオラニ宮殿西ノ丸で定敬はその男と会った。
「私はテイケー公の義父君とハーグでお会いした事があります。
いやはや、恐ろしい方でした」
言われる定敬の表情が曇る。
その人に振り回された被害者のようだが、それはこちらも一緒なのだ。
「博打でイルクーツクまで奪われました。
まあ、それはジョークだから、負け分は労力で貰いたいと言われましてね。
私が交渉して、ケイキ公をハーグ会議に出席させたのですよ」
「…………」
「その縁も有りまして、テイケー公にお会いしました。
と挨拶はここまでにして、本題を申し上げます」
「うむ」
「国籍は違えど、同じ日本人でしょう。
今回不幸にして我がロシアと日本は戦争となりました。
テイケー公には、日本との仲介をしていただきだいと思い、お願いに来ました。
恩を着せる訳では無いですが、アメリカとの戦争終結にロシアは関わりました。
だから、日本との戦争終結にテイケー公の協力を頂きたいのです」
これですぐに承知した、と答える程定敬は無能では無い。
裏を読む。
「ロシア帝国は大日本帝国の数倍の国力と、十倍に近い軍事力を持つと聞く。
勝てる戦争と見ているだろうに、講和の斡旋を余に依頼と来た。
余の斡旋は、ロシアが勝った時には必要あるまい。
そうで無い時の抑えとして、余を使いたいのではないか?」
「フフフ……」
使者も簡単に返答はしない。
「勝っている場面で無い時、つまりロシアが苦しい時。
その時の仲介とは、即ちロシア側を多少でも有利にするような形での仲介をそなたは望んでおるな?」
「いけませんかな?」
「いや、そうは言わぬ。
だが、やはりそなた達は恩を着せておるな。
ハーグで味方した以上、万が一の事があったらロシアに味方しろ、そういう事であろう」
「フフフ……」
「まあ良かろう。
何が出来るかは分からぬが、ハーグの恩は返さねばなるまい。
引き受けよう」
「感動! いやあ、養父上君も恐ろしい程賢い方でしたが、テイケー公も名君であらせられますな」
「……義父上の事は話してくれるな……。
それで、貴官はしばらくホノルルに滞在し、余や女王陛下と連絡を取るのであろうが、余は貴官を通じて誰と話をするのか?
貴官をここに遣わした者の名を教えて欲しい」
「御尤もです。
私を遣わしたのは、セルゲイ・ウィッテ伯爵。
ロシア帝国の元首相です。
日本との戦争に反対した為、今は職を退いておりますが、それこそ万が一の時は復権するでしょう」
「もう一つ聞きたい。
ウィッテ伯が戦争に反対した理由は何か?
隠したいだろうが、仲介を約束した以上は話して貰いたい。
軍事的には余はロシアの勝ち、日本は危うしと思うのだが」
「隠したい……確かにそうですが、各種資料を見れば分かる人には分かります。
今、我が国では飢饉が発生しております。
戦争が長引けば、国が危うくなるかと」
「承知した。
皆の者、この事は他言無用じゃぞ。
戦の結果は相知らぬ事。
だが、和平の求め在らばこれに応ずべし」
「ははっ」
ホノルル幕府はロシア帝国寄りの和平仲介を約束し、極東の戦争に関与する事となった。
ホノルル幕府とは関わりが薄いので省略しましたが、この間に義和団事件も起きています。
アメリカはフィリピンにかかりっきり、イギリスもボーア戦争中、結局ロシアと日本が最大の兵力を出しってとこです。
そして、北京籠城で活躍した柴五郎は、会津出身ですが、斗南に残って大日本帝国軍人になっています。
会津は食い扶持減らす為に半分くらいハワイに行きましたが、残ってそのまま日本に奉職した人も多いのです。




